空を見ると怪しいなと思って出かけると、車のフロントガラスにポツポツ…
本降りにはならなかったけど途中で何度か傘をさしました。
途中で、日がさしてきたら暑くなるほど
「16日 念のため折りたたみ傘を」(えりの気象日記 3月15日)公園ではコブシの花が咲き出しました。
農作業のリマインドフラワー
コブシ(モクレン科)
コブシは北海道、本州、九州に分布し、「田打ち桜」とも呼ばれます。
田んぼに鍬(くわ)を入れる春が来ましたよ、と知らせる花でもあります。
コブシは里山で春一番に咲くので、地域によっては芋の植え付けなど、農作業の目安になっています。
(『散歩が楽しくなる 樹の手帳』岩谷美苗 東京書籍 2017年) 大和猫さんのTwitterに
3月16日【#十六団子】
田の神が山から戻ってくるとされる日。
16個の団子を供えて神を迎える行事が行われます。
じゅうろく・だんご【十六団子】
3月16日と11月16日とに、団子を16個神に供える風習。
東日本に多く、3月は神が山から田へ下りてくるのを迎え、11月は神が山へ帰るのを送るものという。
(『広辞苑 第六版』岩波書店 2008年)
100分de名著 災害を考える
第三回 セネカ「生の短さについて」 ~「時」とのつながり~
『生の短さについて』は本の題名だけを知っていて気になっていた本。
心筋梗塞を発症して、主治医からいつ突然死してもおかしくないと言われた時は、ショックだった。
生かしてもらったんだから一日一日を大切に生きなくてはと思ったはずなのに…今は、怠惰な生活をしているなぁ。
発病前は、定年後は〇〇〇をしようとなんて考えていたけど
未来は保証されていないといことを痛感したな…
なのに「時間」を生きていて、「時(とき)」を無駄にしている。
伊集院さんが番組の最後でサンドウィッチマンをリスペクトしていると話していた。
「病院ラジオ」はサンドウィッチマンでないと番組が出来なかっただろう。
新型コロナにワクチンや治療法が確立されたら(終息することはないと思う)
新たな病院ラジオが見られるといいなぁ。
発病前は、定年後は〇〇〇をしようとなんて考えていたけど
未来は保証されていないといことを痛感したな…
なのに「時間」を生きていて、「時(とき)」を無駄にしている。
伊集院さんが番組の最後でサンドウィッチマンをリスペクトしていると話していた。
「病院ラジオ」はサンドウィッチマンでないと番組が出来なかっただろう。
新型コロナにワクチンや治療法が確立されたら(終息することはないと思う)
新たな病院ラジオが見られるといいなぁ。
ヨーヨー・マさんは「時」を生きている。
(「講義 文学の雑感」続き)
先ほど「大和心」についてお話ししたが、宣長の学問を平田篤胤(ひらたあつたね)がついで、これを発展させようとしましたが、これがまた非常に文学から遠ざかった人で、その後ご維新が近づき、国学の影響が政治の上に現われて来るようになり、武士道と大和魂というものが結びつくのです。
もともと武士道と大和心は何ら直接の縁はないのです。
あれは女の作った、女の言葉ですから、大和心を持っているということは、むしろ「もののあはれ」を知っているということだ。
(『学生との対話』講義 小林秀雄、編者 国民文化研究会・新潮社 新潮文庫 平成29年)
これは既に申した事だが、「もののあはれ」を知る心とは、宣長の考えでは、この世の中の味わいというものを解する心を言うので、少しもセンチメンタルな心ではない。
「もののあはれ」を知りすごすことはセンチメンタルなことですが、「もののあはれ」を知るということは少しも感情に溺(おぼ)れることではないのです。
これは柔軟な認識なのです。
そういう立場から、あの人は『古事記』を読んでいます。
35年やって『古事記伝』が完成した時、歌を詠みました。
古事(ふること)のふみをら読めば古(いにし)への手ぶり言問(ことと)ひ聞見る如(ごと)し
この「ふみをら」の「ら」は「万葉」などにも沢山でてくる調子を整える言葉で、別に意味はない。
「言問ひ」とは会話、言葉、口ぶりの意味です。
これはつまらない歌のようだけれども、宣長さんの学問の骨格がすべてあるのです。
宣長の学問の目的は、古えの手ぶり口ぶりをまのあたりに見聞きできるようになるという、そのことだったのです。
普通の研究ではない。
普通の研究というのは、理解すればいいのでしょう。
宣長のはそうではない。
だから実証主義ではない。
これが歴史を知るということです。
今の歴史というのは、正しく調べることになってしまった。(「講義 文学の雑感」続き)
先ほど「大和心」についてお話ししたが、宣長の学問を平田篤胤(ひらたあつたね)がついで、これを発展させようとしましたが、これがまた非常に文学から遠ざかった人で、その後ご維新が近づき、国学の影響が政治の上に現われて来るようになり、武士道と大和魂というものが結びつくのです。
もともと武士道と大和心は何ら直接の縁はないのです。
あれは女の作った、女の言葉ですから、大和心を持っているということは、むしろ「もののあはれ」を知っているということだ。
(『学生との対話』講義 小林秀雄、編者 国民文化研究会・新潮社 新潮文庫 平成29年)
これは既に申した事だが、「もののあはれ」を知る心とは、宣長の考えでは、この世の中の味わいというものを解する心を言うので、少しもセンチメンタルな心ではない。
「もののあはれ」を知りすごすことはセンチメンタルなことですが、「もののあはれ」を知るということは少しも感情に溺(おぼ)れることではないのです。
これは柔軟な認識なのです。
そういう立場から、あの人は『古事記』を読んでいます。
35年やって『古事記伝』が完成した時、歌を詠みました。
古事(ふること)のふみをら読めば古(いにし)への手ぶり言問(ことと)ひ聞見る如(ごと)し
この「ふみをら」の「ら」は「万葉」などにも沢山でてくる調子を整える言葉で、別に意味はない。
「言問ひ」とは会話、言葉、口ぶりの意味です。
これはつまらない歌のようだけれども、宣長さんの学問の骨格がすべてあるのです。
宣長の学問の目的は、古えの手ぶり口ぶりをまのあたりに見聞きできるようになるという、そのことだったのです。
普通の研究ではない。
普通の研究というのは、理解すればいいのでしょう。
宣長のはそうではない。
だから実証主義ではない。
これが歴史を知るということです。
いけないことです。
そうではないのです、歴史は上手に「思い出す」ことなのです。
歴史を知るというのは、古えの手ぶり口ぶりが、見えたり聞こえたりするような、想像上の経験をいうのです。
織田信長が天正10年に本能寺で自害したということを知るのは、歴史の知識にすぎないが、信長の生き生きとした人柄が心に想(おも)い浮かぶという事は、歴史の経験である。
宣長は学問をして、そういう経験にまで達することを目的としたのです。
だから、宣長は本当の歴史家なのです。
宣長ほど、古い所を線密によく調べた人はありません。
調べて、古えに関する知識を得たのではない。
古えの口ぶり、手ぶりがまざまざと目に見えるのようになった、そこまで行った人なのです。
これを本当に歴史を知るというのです。 歴史を知るというのは、みな現在のことです。
現在の諸君のことです。
古いものは全く実在しないのですから、諸君はそれを思い出さなければならない。
思い出せば諸君の心の中にそれが蘇(よみが)えって来る。
不思議なことだが、それは現在の諸君の心の状態でしょう。
だから、歴史をやるのはみんな諸君の今の心の働きなのです。
こんな簡単なことを、今の歴史家はみんな忘れているのでです。
「歴史はすべて現代史である」とクローチェが言ったのは本当のことなのです。
なぜなら、諸君の現在の心の中に生きなければ歴史ではないからです。
それは史料の中にあるのではない。
諸君の心の中にあるのだから、歴史をよく知るという事は、諸君が自分自身をよく知るということと全く同じことなのです。
諸君にとって子供の時代は諸君の歴史ではないか。
日記という史料によって、君は君の幼年時代を調べてみたまえ。
俺は十歳の子供の時に、こんな事を言い、こんな事を書いている。
それは諸君にとって史料でしょう。
その時諸君は歴史家になるでしょう。
十歳の時の自分の日記から自己を知るでしょう。
だから、歴史という学問は自己を知るための一つの手段なのです。 もう一つ重要なことは、歴史は決して自然ではないということです。
現代ではこの点の混同が非常に多いのです。
僕らは生物として、肉体的に随分自然を背負っています。
しかし、眠くなった時に寝たり、食いたい時に食ったりすることは、歴史の主題にはならない。
それは自然のことだからです、だから、本当の歴史家は、研究そのものが常に人間の思想、人間の精神に向けられます。
人間の精神が対象なら、それは言葉と離すことができないでしょう。
宣長は『古事記伝』の中で、「事(コト)」と「意(ココロ)」と「言(コト)」、この三つは相称(あいかな)うものであると書いています。
歴史というものは、そういうものなのです。
歴史は決して出来事の連続ではありません。
出来事を調べるのは科学です。
けれども、歴史家は人間が出来事をどういう風に経験したか、その出来事にどのような意味あいを認めてきたかという、人間の精神なり、思想なりを扱うのです。
歴史過程はいつでも精神の過程です。
だから、言葉とつながっているのです。
言葉のないところに歴史はないのです。
それを徹底して考えたの宣長です。 『古事記』は歴史の形式をとった、神話として世界でも珍らしい神話ですが、古人はあのように考えたのです。
あれが古人の思想であり、古意なのです。
宣長はそれを信じた。
そらが昔の人々の迷信であったとしても、今はまた違った迷信を持っているかも知れないがの歴史の真相ではないか。 神を信じ、神を祀(まつ)るというコンディションの中に人間が生活していた。
『古事記』はその正直な記録であり、宣長は『古事記』そのままを信じたのです。
この点で宣長ほど徹底した歴史家はいません。
水戸光圀(みとみつくに)が『大日本史』を書いたのは、『古事記伝』よりもずっと以前です。
光圀は神代(かみよ)のとり扱いに困った。
『大日本史』には神代はない。
神武(じんむ)天皇からはじまる。
あとは歴史から排除したのです。
新井白石も『古史通(こしつう)』の最初に「神は人なり」と言っています。
神は人間の尊称であり、国生みは国を治めたという意味だという風に、比喩(ひゆ)的に神代を説明します。
宣長はそうではなかった。
『古事記』に書いてある事をそのまま受け取る方が歴史家として正道であるということを、はっきり言ったのです。
それに違いないのです。
今日の人は、あれは文学だ、歴史として信じられないと言う。
しかし、宣長は、歴史の根底には文学があると考えたのです。
歴史の根底には、自然科学者が考えている事実などありはしないのです。
事実は自然にしかありません。
歴史は人間の心なのです。
科学者は、人の心を心理上の事実と言い、これを研究するのが心理学だと言いますが、宣長が歴史の扱うものは人間の心、情(ココロ)だとするのは、歴史は心理学で研究できるという意味ではない。
心理学は、人間の心を自然の事実なみに考え、これを心理上の事実と考えますが、人間の生きている心を、死んだ自然的事実と同じに考える事は出来ないのです。
生きた情は、文学的、具体的な言葉によって全体に表現できるが、抽象的言語によって説明しても、その一部が理解できるに過ぎないのです。
歴史上の出来事というものは、いつでも個性的なものでしょう。
諸君の個性は、どの人もみな違うではないか。
けれども物理学者にとっては、諸君の個性などないではないか。
生物学者が諸君を観察すれば、諸君の個性は消え、人類という種が現われるでしょう。
人間はみな同じことをやっていると言う。
それは抽象的なことだが、そうしなければ科学は発達しないのです。
だから、科学というものは個性をどうすることもできない。
しかし、僕らの本当の経験というものは、常に個性に密着しているではないか。
個性に密着しても、僕は生物たる事を止(や)めやしない。
だから、科学よりも歴史の方がもとです。
歴史の中には、抽象的なものも入って来るし、自然も入って来ます。
しかしそれは歴史の一部です。
(昭和45年8月9日 於・長崎県雲仙)平田篤胤 江戸時代後期の国学者。安永5~天保14年(1776~1843)。著作に「古史徴」「霊能真柱(たまのみはしら)」などがある。
クローチェ Benedetto Croce イタリアの哲学者、批評家、歴史家。1866~1952年。著作に「哲学(歴史叙述の理論と歴史)」などがある。
大日本史 歴史書。明暦3年(1657)、後の水戸藩主、徳川光圀が編修に着手した。神武天皇から後小松天皇までの時代を漢文紀伝体で記す。
新井白石 江戸時代中期の儒学者、政治家。明暦3~享保10年(1657~1725)。「古史通」は白石の史論書で、正徳6年(1716)に成った。
(『学生との対話』講義 小林秀雄、編者 国民文化研究会・新潮社 新潮文庫 平成29年)
「さあ、何でも聞いて下さい――。」と「講義『現代思想について』後の学生との対話」の冒頭で学生たちに語りかけます。
欧米の首脳の自信に満ちた姿と重なりますが、情けないことに前首相や現首相は、答案用紙がないと人前では何も言えない。
この本は、講義なので読みやすいです。
今朝の父の一枚です(^_^)v0655「声の主」新バージョンに登場しています。
シジュウカラ(スズメ目シジュウカラ科)
全長14㎝
トゥピトゥピトゥピーと鳴きます。
市街地や住宅街でも見ることができる鳥。
羽の色は黄緑のグラデーションで、お腹にはネクタイのような模様があります。
漢字で書くと「四十雀(シジュウカラ)」