今朝も、風が冷たかったです。
監視社会の厳しい弾圧の風に立ち向かっておられる方がいる。
「批判なき社会に未来はない 『武漢日記』作家・方方の問いかけ」(NHK 3月2日京都を訪ねる時に持ってゆきたい本、イラストが素敵です。
ひいな
三月は、草木がいよいよ生(お)びる「木草弥(い)や生(お)ひ月」から弥生(やよい)というのだそうです。
そして三月三日は、桃の節句。
上巳(じょうし)の節句、ひなまつり。
雛(ひいな)とは、「うつくしきもの」。
「やよいちゃん」「ひなちゃん」女の子にぴったりのかわいい名をもつ月ですね。
京都では上賀茂(かみがも)神社の「桃花神事」や、下鴨(しもがも)神社の「流し雛(びな)」などの行事、神事が執り行われる一方、宝鏡寺(ほうきょうじ)や古い商家では立派な雛壇が公開されます。
(『京都のいちねん――私の暮らしの約束ごと』小林由枝 祥伝社 令和元年)
私の家には、おひな様がなかったので、お向かいに住む一つ年上のおねえさんの雛飾りをお手本に、毎年段ボールや折り紙で自作していました。
なかなかの出来だったと自負していましたが、やっぱりそこは女の子でしたから、ちょっぴりさみしかった。
でも、おひな様が今のように毎年大切に飾られるようになる前は、人形(ひとがた)に穢(けが)れを移して川に流し、邪気を祓(はら)うという儀式だったのですから、毎年新しく作る私のひな人形たちは、きっと本来の役目を果してくれてたんだな……と思うことにしています。
立派なお人形はなかったけれど、母の作る散鮨(ばらずし)は毎年楽しみにしていました。
海から遠い京都らしく、具は椎茸(しいたけ)にれんこん、高野豆腐ににんじんです。
彩りには、黄色の錦糸(きんし)卵と緑のエンドウ豆、それから紅ショウガも。
あまからく炊いた椎茸の味は今も大好き。
幼い頃に憧(あこが)れたひな祭り、その思い出の味です。
(『京都のいちねん――私の暮らしの約束ごと』小林由枝 祥伝社 令和元年)
Jun MakinoさんのTwitterに
当たり前だけど神戸で変異株が多いわけじゃなくて神戸ではちゃんと調べてるというだけだから。
〝神戸の変異株拡大に懸念 西村担当相「モニタリング強化を」〟(産経新聞 3月2日)
「変異ウイルス関西でも感染広がる」(関西NHK 3月2日)
にあるように神戸市は、検査をきっちりとしている。
イギリスから渡来したのではなく、国内で変異したと思いますし、
大阪でも広がっているはずだけど神戸市のようにちゃんと調べているのか?
(「梟雄」続き)
彼は寺をでて故郷へ帰り、女房をもらい、松波庄五郎と名乗って、燈油の行商人となった。
まず金だ、と彼は考えたのだ。
仏門も金でうごく。
武力の基礎も金だ。
人生万事、ともかく金だ。
彼は奈良屋又兵衛の娘と結婚したが、それは商売の資本のためであった。
燈油行商の地盤ができると、女房は不要であった。
一所不住は仏門の妙諦(みょうてい)である。
(『坂口安吾歴史小説コレクション第1巻 狂人遺書』七北数人編 春陽堂書店 2018年) 彼は諸国をわたり歩き、辻に立って油を売った。
まず一文銭をとりだして、弁舌をふるうのである。
「およそ油を商う者は桝(ます)にはかって漏斗(じょうご)から壺にうつす。ところが私のはそうではない。漏斗を使う代りに、この一文銭の孔を通して一滴もこぼさずに桝から壺にうつしてしまう。そればかりではない。一文銭の孔のフチに油をつけることもなくうつしてみせる。もしちょッとでも一文銭に油がついたら代はとらぬぞ。さア、一文銭の油売り。買ったり」
ひそかにみがいていた手練(しゅれん)の妙。
見事に一滴も一文銭に油をつけずにうつしてしまう。
これが評判となって、人々は一文銭の油売りを待ちかねるようになり、ために他の油屋は客が少なくなってしまった。
彼はこの行商で大利をあげ、多額の金銀をたくわえた。
行商で諸国を歩きつつ、彼は諸国の風俗や国情や政情などに耳目をすませた。
また名だたる武将の兵法や兵器や軍備についても調査と研究を怠らなかった。
一文銭の孔に油を通す手練なぞは余技だった。
彼は自分の独特の兵法をあみだした。 それはまったく革命的な独創であった。
それは後日織田信長がわがものとして完成し、それによって天下を平定した兵法であった。
元祖は一文銭の油売りだ。
その兵法の原理は単純である。
最も有利な武器の発見とそれを能率的に使用する兵法の発見とである。
それは兵法の一番当り前の第一条にすぎないけれども、とかく発見や発明に対する本当の努力は忘れられているものだ。
そして常人の努力は旧来のものを巧みにこなすことにだけ向けられている。
それは新し発見や発明が起きるまではそれで間に合うにすぎないものだ。 まず彼が発見した有利な武器は、敵の物よりも長い槍であった。
普通短槍(たんそう)で一間余、大身の槍で二間どまりのところであるが、彼は普通人の体力で三間、さらに三間半まで可能であると考えた。
その長槍は丁々発止と打ち合うには不向きであったが、彼はその槍で打ち合うような戦争の方法を考えていなかった。
野戦に於て、主力との正面衝突が行なわれるとき、両軍はまず槍ブスマをそろえて衝突するのが普通だ。
そのとき、敵よりも長い槍の槍ブスマが敵の胸板を先に突き刺すにきまっている。
さてその槍を再び構えて丁々発止とやれば今度は不利であるけれども、再びその槍を構える必要はないではないか。
最初の衝突で敵の胸板を突きぬいたとき、長槍の任務は終っているのだ。
あとは刀をぬいて接近戦にうつってよかろう。 この原理は槍に限ったことではなかった。
後日鉄砲が伝来すると、あらゆる武将がこの革命的な新兵器に注目した。
云うまでもなく、鉄砲の前では長槍も弓矢も問題ではなかった。
けれども、当時の鉄砲は最初の一発しか使いものにならなかった。
タマごめや火をうつすのに技術を要しまた時間を要するから、二発目の発射までに敵に踏みこまれてしまう。
技術的に短縮しうる時間だけでは、それを防ぐことができない。
また機械の改良によって時間を短縮することは、当時の科学水準ではまったく絶望であった。
そこで鉄砲は最初の一発しか使用できないということは当時の常識であり、武将たちは敵の二発目を許さずに突入する歩兵の速度を鉄砲対策の新戦術として研究した。 彼だけはアベコベだった。
彼はあくまで鉄砲に執着した。
二発目も三発目も、否、無限に鉄砲を射ちまくることに執着したのである。
そして、その方法を発見した。
彼は鉄砲組を三段に並べることを考えた。
三段でなくて、四段でも五段でもよいけれども、技術的に三段まで短縮することができたのだ。
つまり、第一列目が射つ。
次に第二列目が射つ。
次に第三列目が射つ。
その時までに第一列目のタマごめが完了する。
かくて彼の鉄砲はつづいて何発も射つことが可能となった。 この鉄砲戦術も後日信長が借用してわがものとする。
信長はさらに改良を加え、野戦に特殊な鉄砲陣地を構築する。
ザンゴーを掘り、竹矢来(たけやらい)をかまえ、その内側に三段の鉄砲組を構えるのだ。
騎兵の突入を防ぐには、ただの三段の鉄砲陣では防ぎきれないからだ。
そこで信長の鉄砲組は、鉄砲のほかに竹矢来用の竹と穴掘り道具を持って出陣する。
この戦法は信長が完成したが、元祖は一文銭の油売りであった。
(『坂口安吾歴史小説コレクション第1巻 狂人遺書』七北数人編 春陽堂書店 2018年)
続く
今朝の父の一枚です(^_^)v画像を見ながら「(ジョウビタキは)可愛い目をしているなぁ」と話していました。
昨日は、荒れた天気で、リハビリ散歩を諦めて、掃除。
午後から書類作成をしようと思ったけど、気圧が低いためか気分が乗らずに…(^-^;
Poche│心理カウンセラーさんのTwitterに
休むのは怠けでも、甘えでもないんですよ。
休むことに罪悪感があるなら『休んであげる』と思ってみて。
あなたが倒れたら困る人のために、頑張って休んであげたと思いましょ。
体調管理も予定のひとつ。
頑張るのは、休んでからでいいんです。
特に今日は気圧のせいや雨のせいで、疲れやすいから。
(Pocheさんのイラスト)