ひんやりとした朝でしたが、青空が広がっていました。
「23日はほぼ一日晴れ」(えりの気象日記 3月22日)今日は、「彼岸明け」になります。
彼岸はお墓参りをしていますが、
彼 岸(ひがん)
春分・秋分の日を中心とする前後3日間の計7日間をいう。
「彼岸」という言葉は梵語「波羅」(Para)の訳語とされている。
仏教の影響を受けて寺参りが行なわれるが、新潟県の十日町市では、彼岸にホッケタチという藁(わら)をたばにしたものに火をつけて、入りの日には「ホッケタチ、ホッケタチ、この火のあかりについてじいさんばあさんこらっしゃい(いらっしゃい)」と先祖を迎え、そして最終日にはやはり火をつけて送っている。
これは明らかに祖霊を迎えて送るもので、盆の行事と同じである。
(『図説 民俗探訪事典』大島暁雄他編著 山川出版社 1983年)
島薗進さんのTwitterに
「国側は、この申し立てに対する主張をことし5月までにまとめて回答するとしていましたが、
裁判所は遅すぎるとして22日、進捗を確認するための協議が非公開で行われました。」
国の抵抗は根拠がないと裁判官は見ているようだ。
「文書改ざん 自殺職員の“ファイル” 提出を国に促す 大阪地裁」(NHK)河井元法相の証言について二階氏が
〝二階氏「党として他山の石に」 河井元法相の買収事件に〟(朝日新聞)
「他山の石」と言われているのに違和感を感じたので手元の辞書を見ると
たざんのいし【他山の石】
〔よその山から出た石であって初めて、玉(ギョク)をみがくのに役立つものだ、の意〕
見てくれが良くなくとも、そのものの大成には欠くことの出来ない好材料。
〔俗に、模範の意に解するのは誤り〕
(『新明解国語辞典<第四版>』山田忠雄〔主幹〕他編著 三省堂 1997年 )
というか、当事者なのにね…
昨日紹介した林達夫の「支那留学生」に「私はしがない無名の書かない作家」と自己紹介されていました。
そのことを山口瞳が著作集の「研究ノート5」に「書かない人」を寄稿されています。
林達夫は編集者泣かせだったようです(^_-)
学生時代に友人に誘われて講演会で林達夫の話を聞いたことがあります。
内容は覚えていないのだけど(^^ゞ
感動して、著作集(当時、全6冊)を社会人になってから購入しました。
また折を見て紹介したいと思います。
研究ノート 5
書かない人 山口瞳
林先生について何かを書こうとして、いま、実際に、なんだか忌々しいような気がしてならない。
物騒なもの言いに聞こえるだろうけれど、これも私の実感である。
私が林先生を敬愛するのと同じくらいの分量でもって、私にとって、林達夫という存在は〝癪の種〟だった。
私は、いま、林先生について書くにあたって、このように動揺し、このように感無量なのである。
思えば長い歳月であったというような月並みな感情が、どっと湧きあがってくる。
(『林達夫著作集5 政治のフォークロア』平凡社 1971年)
もっとはっきり書こう。
林先生は「書かざる執筆者」だった。
「絶対に書かない人」だった。
この著作集にしたって、林先生の学識や経歴や文章の力や、あるいは年齢からするならば、分量としては微々たるものになっていると思う。 一方、私は、十九歳のときから、ずっと編集者を続けてきた。
雑誌記者だった。
その後に、サントリーに入社したときも、宣伝部の『洋酒天国』というPR誌の編集が主な仕事だった。 林先生と私の関係は、書く人と書かせる人だった。
しかし、林先生は「書かない人」だった。
こっちからするならば「ぜひ書いていただきたい人」だった。
私は、ついに、二十五年間にわたって、現在にいたるまで、林先生の原稿をいただく機会がなかった。
私が怠けていたのではない。
私は、むしろ、日参するような時期があった。
林先生に対する〝敬愛〟と〝癪の種〟とは、このようなものである。
もっとも、このような思いを抱いているのは、私だけではないはずである。
何百人という編集者が切歯扼腕(せっしやくわん)したはずである。
そのことに間違いがない。
あるとき、私が自分の雑誌に匿名で書いた原稿について、その誤りを指摘した一通の投書が編集室に届いた。
無署名だったけれど、その筆蹟が林先生のものだった。
先生に連絡すると、はたして、それが先生ご自身のものであることがわかった。
そこで私は、それを林先生の原稿として雑誌に掲載させてくださるように頼んだ。
そんなにしてまでしてでも、林先生の原稿がいただきたかったのである。
お答えは、否(ノー)だった。
私は、泣く泣く、その原稿を無署名の投書として雑誌に載せた。
これでは商売にならない。
私がサントリーに入社したときに、先生のところへ挨拶に行った。
先生は、とても喜んでくださった。
例によって、私は林先生に原稿をお願いした。
PR雑誌であるとはいっても『洋酒天国』は、先生に原稿をお願いするのが恥ずかしいような雑誌ではないと思っていた。
また、同僚の開高健も林先生のファンであった。 あるとき、私は、サントリーの皇室献上用の市販していないところのウイスキーを先生のところへ持っていった。
原稿がほしいからである。
また、会社へは、今度は必ず林先生の文章をいただくからと言って、特別な、数の少ないウイスキーを出させたのである。
このときも駄目だった。
しばらく経って、林先生に、
「いつか君から貰ったウイスキーはとてもうまかったよ」
と言われたときにも、涙が出そうになった。 そうかといって、林先生は、文章を書くのが嫌いなのではない。
ときに、それこそ涙の出るような素敵な手紙をくださったりするのである。
不親切でもない。
出版についての相談も乗ってくださるし、私のような者を相手に、長時間にわたって話をしてくださったりもする。 林先生は、学者であると同時に、ジャーナリストだった。
なんでもお見通しなのである。
もっとも、私は、大学者や大作家は、大ジャーナリストであるはずだというのが持論であるが。
林先生は、ただ、書かないというだけのことである。
書かないというより、出たがらないといったほうが正しいだろうか。
先生は、座談会にも対談にも出ない。
*
私が林先生に初めてお目にかかったのは、鎌倉アカデミアという学校の教室でだった。
先生が教師で私は生徒だった。
先生の講義は西洋史だったけれど、文芸復興期だけを重点的に話された。
先生の講義はすばらしかった。
しかし当時の私は、宝の山に入っていながら、宝がわからないという状態で、先生の講義内容の千分の一も摑めなかった。
まったく痛恨事とはこのことだろうか。
ただし、昭和二十一年という時代では、私は勉強よりも生活のほうに追われていて、前に書いたように、学生でいながら出版社に勤務していたのである。 林先生は女学生に人気があった。
私の女房も、そのなかの一人である。
女房は、あんなすばらしい日本語をきいたことがないと言う。
女房も講義内容よりは、そっちのほうに惹かれていた。
先生の話し方は非常にやわらかい。
やわらかくて適確だった。
また、先生は話術のほうも長けておられて、生徒たちがダレてきたなと思ったら、太宰治は……といったような言葉を突然言ってみると教室がひきしまり、みんなの目がこっちに向くんだよ、というようなことも言われた。
太宰治は圧倒的な人気作家だった。 鎌倉アカデミアは、教師と生徒が友達であるような雰囲気があった。
林先生は、そういう雰囲気を愛しておられたようだ。
そんなふうだから、私は、先生の著作とか講義について語る資格のない男である。
不勉強だった。 ただひとつ、林先生について印象に残っている言葉がある。
先生は、終戦直後ともいうべき時代に、こんなことを言われた。
「川端(康成)さんは書けなくなってしまうのではないか。いろいろな人がいろいろなことを言うけれど、戦争の傷をもっとも深く受けているのは川端さんじゃないだろうか。ちょっと心配だな」
先生は沈痛な顔で、そう言われた。 私は、いまにして思い当たることがあるのである。
以下のことは、私の勝手な憶測である。
どう取られてもかまわない。
当て推量というより、私の仮定かもしれない。
書けなくなったのは、川端さんではなくて林先生ではなかったのか。
戦争の傷痕をもっとも深く受けているのは、実は林先生ではなかったのだろうか。
私は、いまでも、川端先生ついて語った林先生の沈痛な顔と、やわらかい声とを、はっきりと思いだすことができる。
あの沈痛は、ご自身のためのものではなかったのか。 戦争というより、歴史の流れであるかもしれない。
林先生は、歴史の流れの空しさを、誰よりも奥深く敏感に感じとってしまわれたのではなかろうか。
林先生は、終戦直後に、すでに、今日の資本主義国と社会主義国の有様を予測してしまったのではなかろうか。
そうなると、バカバカしくて書けないといっては言い過ぎになるだろうけれど、右往左往するのは厭だ、静かにじっと見ていたいというぐらいの心境になってしまうと思う。
これは、もとより私の仮定である。
どう取られてもかまわない。
間違っていたら、先生、叱ってください。
(『林達夫著作集5 政治のフォークロア』平凡社 1971年)今朝の父の一枚です(^_^)v
マヒワとカワラヒワが一緒に朝ご飯を食べています。
食性は同じ植物食(種子など)なのに争う様子がないです。
一方、メジロがサクラなどで食事をしているとヒヨドリが邪魔をしに来るのを見て
父は、「なんて意地悪奴なんだ」と怒っています。