2021年3月25日木曜日

雨が降っていたけど

予報よりも早く降り出したかな?
でも、ポツポツと傘をささなくても歩ける程度でした。

25日は念のため折りたたみ傘」(えりの気象日記 3月24日)
2018年の台風21号で折れた枝。
今年も咲いてくれましたp(^^)q
頑張っているなぁ!
来年も咲いている姿を見ることができるといいなぁ。
剪定されませんように!
私はコロナ禍を生き延びなくてはp(^^)q
マイナンバーカード保険証利用 本格運用先送りへ トラブルで」(NHK)

今日の郵便で、父に後期高齢者医療広域連合から
マイナンバーカードの健康保険証利用案内」が届いた。
という私は、まだ申請していません。
個人情報が漏れる心配がぬぐえません!
ジェネリック医薬品 承認ない工程で製造相次ぎ業界再編へ検討」(NHK)

処方してもらっている薬でジェネリックは2種類。
後発品があるけど利用していないのが4種類。
前にも書いたけど信用することができないでいます。
 Eテレこころの時代~宗教・人生~
それでも生きる 旧約聖書・コヘレトの言葉 (6)「それでも“種”をまく」

番組の中で若松英輔さんが、道元の
「愛語(あいご)といふは衆生をみるに、まづ慈悲の心をおこし、
顧愛(こあい)の言語(ごんご)をほどこすなり」(『正法眼蔵』)
を紹介していました。
これは『正法眼蔵』の「菩提薩埵四摂法」に出てくる言葉です。
現代語訳で紹介したいと思いますφ(..)
菩提薩埵四摂法(ぼだいさつたしせつほう)*   44歳
 *菩薩が衆生を救いとり、利益を与えること。教化の方法。

 菩薩の四摂法とは、一つには布施(ふせ)、二つには愛語(あいご)、三つに利行(りぎょう)、四つには同事(どうじ)である。
(『現代文 正法眼蔵5』石井恭二 河出書房新社 2000年)
  第一の布施とは不貪である。
不貪とは、むさぼらないことである。
むさぼらないとは、世俗で云う、諂(へつら)わないことである。
気に入られようとしないのである。
たとえ須弥山(しゅみせん)四洲を統領する転輪聖王(てんりんじょうおう)であっても、衆生を正道に教化するにあたっては、けっして諂わず阿(おもね)らなかった。
たとえば、宝を捨てて、知らぬ人に施すようであって、執着せず、報謝を求めないのである。
遥かに遠い山々の花を如来に供養するように、前生の宝を衆生に施すのであれば、教えであろうと、物であろうと、それぞれに相応しい布施の功徳が本来具わっているのである。
それが自分の物でなく拾ったものであろうと、布施であることに変わりはない。
与える物が少々であろうともよく、その功徳が真実であるならばよいのである。
仏の教えのままに修行するとき、道を得るのである。
得道するときは、修行はかならず仏道のままになされるのである。
布施する財物が自他の宝であるならば、その財物はかならず布施の徳となるのである。
己れを己れのままに施し、他者を他者のままに施すのである。
布施の因縁の力は、遠く天上・人間(にんかん)に通じ、菩薩の証果(しょうか)にまでも通ずるのである。
何故ならば、己れの布施が因となって、縁を結ぶからである。(〇一)
 仏は云われている、「布施する人が法会に来ると、多くの人は遠くから、まずその人を望み見ます」と。
 知らねばならない、密かにその心は通ずるのだ。
このようであるから、一句一偈の教えも布施しなければならない、布施は現生のまた他の多くの生の善い種子となるのである。
わずか一銭も一本の草をも布施しなければならない。
布施は現世のまた他の多くの世の善根を萌すのである。
教えも宝であろう、布施する財物も教えであろう、そのように願うのである。
 唐の太宗が自分の髭を切りそれを焼いて薬に混ぜて忠臣の李勣(りせき)に与えたのは、物を心に換えたのであり、阿育王(アショーカおう)は土を麦こがしとして釈迦牟尼仏に供養した因縁によって転輪王となったのである。
彼らはただただ報謝を貪ることなく、己れの力を分かち与えたのである。
  川に舟を置き、橋を架けるのも、涅槃に架ける橋である。
もしよく布施行を学ぶとき、身を受け身を捨てるのも、ともに布施である。
治産の業を助けることも、もとより布施行にほかならない。
布施行は、花を風にまかせ、翔ぶ鳥を自然にまかせて見るようでなければならない。
病に臥せった阿育王が半分のマンゴーの実を、数百のすべての僧衆に供養したという故事は、布施の功徳が広大なものであることを証明するのであって、布施を受ける人もよくよくそれを学ばねばならない。
 布施は、その身の力を励ますだけではなく、時宜を心得なければならない。(〇二)
 もともと己れ自身も法華の布施を受け具えていることによって、いまの自分があるのである。
 仏は云われている、「布施は己れ自身にも用いているのです、ましてや父母妻子に与えてよいのは、なおのことです」。
 この言葉によって知るのである、自分自身が用いるのも布施のなかである、父母妻子に与えるのも布施なのだ。
もしほんの少しのものを喜捨するのも、自分の行いではあるにしても、静かに喜ぶべきである。
諸仏の一つの功徳を、まさに正伝して行うのであるからである。
菩薩の教えを、はじめて行なうことになるのだからである。
  教化し難いものは衆生の心である。
一つの布施行から萌す衆生の心の在りようを教化しはじめて、涅槃にいたるまでも教化し導こうと思うのである。
そのはじめは、かならず布施をもってするのである。
このようなことから六波羅蜜の最初に、布施波羅蜜が説かれているのだ。
心の大小は計りえない、物の大小もまた計ることができないけれども、心が物に転ずるときがあり、物が心に転ずる布施もあるのだ。(〇三)
 愛語とは、人々に接するとき、まず慈愛の心を起こしてかける言葉である、荒々しい言葉を使ってはならない。
世間には人の安否を聞く礼儀がある、仏門には「お大事に」などの挨拶があり、目上の者に向っては「ご機嫌は如何でございましょうか」と伺う挨拶がある。
「衆生を慈しむこと、なお赤子の如し」の思いを、心に深く含めてかける言葉を愛語と云うのである。
財産がある人は誉めなければならない。
財産のない人は憐れまねばならない。
愛語を好んで用いることから、次第に慈愛の言葉は深みを増すのである。
このようなことから、いつもの普段の言葉も、慈愛の言葉となってゆくのである。
今生を尽くして、慈愛の言葉を好んで用いなければならない、後の生、次の世にわたってこのようでなければならない。
非道な人を伏させ、君主を柔和にさせるにも、愛語を根本とするのである。
面と向かって愛語を聞くとき、人は顔をほころばし、心を楽しくする。
自分への慈愛の言葉を人伝えに聞くとき、肝に銘じ魂に銘ずるのである。
知らねばならない、愛語は慈愛の心から発し、愛の心は慈しむ心を種子とするのである。
慈愛の言葉にはよく天を廻転する力があることを学ばねばならない、それはただ賞めるだけのものではない。(〇四)
布施 利益を与える、慈しむ。

六波羅蜜 到彼岸と訳される。生死の苦海を渡って涅槃に到る菩薩の行法。布施・持戒・忍辱・精進・静慮・智慧の六種。

(『現代文 正法眼蔵5』石井恭二 河出書房新社 2000年)

つづく
今朝の父の一枚です(^_^)v
一緒にテレビで画像を見ながら
「いっぱいくわえて、何をしているのかな」と聞くので、
巣作りの材料集めをしていると説明しました。

カラ類の繁殖生態 ~シジュウカラの営巣から巣立ちまで~」(北海道大学 小泉研究室 2016年)