日曜日ということもあって来園者が多く、急いで帰ることにしました(^-^;
染井吉野がポツポツと咲いていました!
〝気象庁「東京でサクラ開花」発表 平年より12日早く〟(NHK)
#国際質問をしようデー なのです!
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#InternationalAskaQuestionDay昨日、大阪大空襲で犠牲になった朝鮮出身者の方の初めての追悼集会は行われたんだ。
「大阪空襲で犠牲 朝鮮の人を追悼」(関西NHK 3月13日)
広島では、毎年、8月5日に慰霊祭が行われています。
〝韓国人原爆犠牲者、日韓学生ら慰霊「政治に左右されず」〟(朝日新聞 2019年8月5日)
〝韓国人被爆者の慰霊祭 90歳の在日2世「核なくす」〟(朝日新聞 2020年8月5日)(「講義 文学の雑感」つづき)
桜のことはそれくらいでいいとして、「大和心を人問はば」という「大和心」もむずかしい言葉です。
あの頃は誰も使っていない大変新しい言葉だったのです。
江戸の日常語ではなかったのです。
なぜならば、「大和心」という言葉は平安期の言葉なのです。
平安朝の文学を知らない人には、「大和心」などという言葉は分らない。
「大和魂」という言葉もやはりそうで、平安朝の文学に初めて出て来て、それ以後なくなってしまった言葉なのです。
なぜか誰も使わなくなってしまったのです。
江戸までずっとあの言葉はありません。
(『学生との対話』講義 小林秀雄、編者 国民文化研究会・新潮社 新潮文庫 平成29年)賀茂真淵(かものまぶち)も「大和心」をいう言葉を使いましたが、宣長さんのように、正しい意味でこの言葉を使っておりません。
「大和魂」という言葉が文学の上で一番さきに出て来るのは『源氏物語』で、それ以前にはありません。
源氏の息子の夕霧が大学へ入ります。
あの頃は大臣の息子なら、大学などへ入らなくても、出世はきまっていた。
だから、大学へなど入らなくてもよいという反対も随分あった。
その時源氏が「才(ざえ)を本(もと)としてこそ、大和魂の世に用ひらるる方も、強う侍(はべ)らめ」と言うのです。
「才」とは学問ということです。
大和魂をこの世でよく働かせる為には、やはり根底に学問がある方がよろしかろうというのです。
「大和魂」と「才」とは対立するのです。
大和魂とは学問ではなく、もっと生活的な知恵を言うのです。
『源氏物語』より大分あとになりますが、『今昔(こんじゃく)物語』にも「大和魂」という言葉が使われています。
或る博士の家に泥棒が入り、家の物を全部取って逃げてしまった。
博士は床下に隠れてのぞいていたのですが、余りに口惜(くや)しいので、泥棒に向って「貴様らは顔はみんな見た。夜が明けたらすぐ警察へ届けるから覚えていろ」と大きな声でどなった。
そうしたら泥棒たちは引き返して来て、博士を殺してしまった。
そういう話があって、『今昔物語』の作者は、こういう批評を下しているのです。
「才はめでたかりけれども、つゆ大和魂なかりける者にて、かかる心幼き事をいひて死ぬるなり」と。
学識がある事と大和魂を持つことは違うのです。
むしろ反対のことなのです。
今日の言葉でいうと、生きた知恵、常識を持つことが、大和魂があるということなのです。 もう一つ例を挙げます。
これは「大和心」の方です。
「大和魂」は紫式部が言い出したのですが、「大和心」の方は赤染衛門(あかぞめえもん)です。
恐らく両方とも女の言葉であったのだろうと思います。
確証はありませんが。
赤染衛門は大江匡衡(おおえのまさひら)の女房ですが、亭主の匡衡がこんな歌を詠んでいます。
この歌は実につまらない歌で、その当時の通弊がよく現われていると言える。
赤染衛門に子供ができて、乳母をやとったところが、その乳母に乳が出ない。それで、
はかなくも思ひけるかな乳(ち)もなくて博士の家の乳母(めのと)せんとは
という歌を詠んだ。
この「乳」には知識の「知」がかけてあります。
「知識もない女が博士の家の乳母になるとは、随分ばかなことを考えたものだ」という洒落(しゃれ)です。
それに対して赤染衛門がこういう歌を詠んで応(こた)えました。
さもあらばあれ大和心しかしこくば細乳(ほそぢ)につけてあらすばかりぞ
一向に構わないではないか。
大和心さえかしこければ、お乳など出なくても子供を預けてちっともかまわないという意味です。
これは非常に強い歌です。
ここでも、かたくなな知識と反対の、柔軟な知恵を大和心といっていた事がよくわかる。
その頃、知識、学問は男のものだったのでしょう。
しかもみな漢文だった。
漢文の学問ばかりやっていると、どうして人間は人間性の機微のわからぬ馬鹿(ばか)になるかと、女はみな考えたのです。
大江匡衡は代表的な文章(もんじょう)博士です。
それがこういう馬鹿な歌を詠んでいるのです。
大江匡衡 平安時代中期の学者、歌人。天暦6~長和元年(952~1012)。
文章博士 当時の大学の学科の一つ、文章科の教官の長。
(『学生との対話』講義 小林秀雄、編者 国民文化研究会・新潮社 新潮文庫 平成29年)
明法博士善澄(みょうほうはかせよしずみ)、強盗に殺される語(こと)、第二十
今は昔、明法博士で大学寮の助教をつとめる清原善澄というものがいた。
学才はならぶものなく、昔の有名な博士にもおとらぬものであった。
年は、七十にあまり、世間でも重んじられていたが、家はきわめてまずしく、日々の生活にこと欠くことが多かった。
(『今昔物語集 本朝世俗篇(下)』武石彰夫訳 講談社学術文庫 2016年)
ところが、その家に強盗が入った。
うまく気がついて、善澄は、逃げ出すや、縁の下にもぐりこんで、盗人に見つからずにすんだ。
盗人は、侵入するや、手あたりしだいにものをうばいとり、ものをこわし、家中どたばたとふみやぶって、大声をあげながら出て行った。そのときに、善澄は縁の下からいそいではい出し、盗人が出ていった後から門のところまで走り出ていった、声をはりあげ、「やい、きさまら、ばかづらをみんな見とどけたぞ。夜が明けたらすぐに、検非違使の別当に申しあげて、かたっぱしから、つかまえさせてやるぞ」と、やたら腹立ちまぎれにさけんで、門をたたきながら、よびかけた。盗人はこれを聞いて、「お前らよくきけよ。引きかえして、やつを打ち殺してくれよう」と言って、ばらばらとはしりもどってきた。
善澄はあわてて家のなかに逃げこみ、縁の下に急いでもぐりこもうとしたが、その拍子にひたいを縁にぶつけて、とっさにもぐりこめないでいたところへ、盗人がかけてきて、手足をとって引きずり出し、太刀でその頭をさんざんに打ちわり、殺してしまった。
盗人は、そのまま逃げていってしまったので、どうしようもないままに終わってしまった。 善澄は、学才はすばらしかったが、思慮分別のまるでない男で、そのためこんな幼稚なことを口にして、最後は死ぬはめになったと、これを聞く人々すべてにそしられた、とこう語り伝えているということである。典籍未詳。
明法博士…大学寮において、明法道(法律学)を教授する職。定員2名。正七位下相当。
助教…大学寮において明経道(経書学)を教授し、明経博士を補佐する職。定員2名。正七位下相当。
清原善澄…元の姓は、海宿禰(あまのすくね)。吉柯の子。広澄の弟。学生から直講(助教の下)をへて、助教となった。一条天皇時代の代表的な明経家。ただし、「明法博士」ではなかった。広く「明経博士」とよばれたものか。
七十…善澄の没年は、寛弘7年(1010)7月。68歳。
思慮分別…原文「和魂(やまとだましひ)」。理性的な学問的知識才能をいう「漢才」に対して、繊細な精神、日常的な心がまえ、ことに処しての冷静な態度などをいうのに用いられた。
(『今昔物語集 本朝世俗篇(下)』武石彰夫訳 講談社学術文庫 2016年)
今朝の父の一枚です(^_^)v
1 人が創ったサトザクラ
自生のサクラと人が栽培するサクラ
(前略)
平安時代では、桜の一般的な増殖は種子からの増殖であっただろう。
そうすると、栽培品種化した最初のもっとも古い桜は‘枝垂桜(しだれざくら)’ということになる。
平安時代にすでに「糸櫻(いとざくら)」や「しだり櫻」という名称が文献にあらわれている。
この名称がつけられた桜の固体がそのまま現在でも生きているわけではないが、現在栽培されている‘枝垂桜’は、この文献にある桜の子孫である可能性が高い。
というのも、枝垂れるという形質は遺伝するからである。
‘枝垂桜’は、種としてエドヒガンに分類されるが、枝垂れるという性質以外にふつうのエドヒガンと違いはない。
‘枝垂桜’から種子をとって発芽させると、すべての子どもが枝垂れるわけではないが、枝が垂れた樹形をもつ子どもも見られる。
こうして、種子から比較的容易に増殖できることから、‘枝垂桜’が栽培品種化したと思われる。
(後略)
(『桜』勝木俊雄 岩波新書 2015年)
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「大阪空襲で犠牲 朝鮮の人を追悼」(関西NHK 3月13日)
広島では、毎年、8月5日に慰霊祭が行われています。
〝韓国人原爆犠牲者、日韓学生ら慰霊「政治に左右されず」〟(朝日新聞 2019年8月5日)
〝韓国人被爆者の慰霊祭 90歳の在日2世「核なくす」〟(朝日新聞 2020年8月5日)(「講義 文学の雑感」つづき)
桜のことはそれくらいでいいとして、「大和心を人問はば」という「大和心」もむずかしい言葉です。
あの頃は誰も使っていない大変新しい言葉だったのです。
江戸の日常語ではなかったのです。
なぜならば、「大和心」という言葉は平安期の言葉なのです。
平安朝の文学を知らない人には、「大和心」などという言葉は分らない。
「大和魂」という言葉もやはりそうで、平安朝の文学に初めて出て来て、それ以後なくなってしまった言葉なのです。
なぜか誰も使わなくなってしまったのです。
江戸までずっとあの言葉はありません。
(『学生との対話』講義 小林秀雄、編者 国民文化研究会・新潮社 新潮文庫 平成29年)賀茂真淵(かものまぶち)も「大和心」をいう言葉を使いましたが、宣長さんのように、正しい意味でこの言葉を使っておりません。
「大和魂」という言葉が文学の上で一番さきに出て来るのは『源氏物語』で、それ以前にはありません。
源氏の息子の夕霧が大学へ入ります。
あの頃は大臣の息子なら、大学などへ入らなくても、出世はきまっていた。
だから、大学へなど入らなくてもよいという反対も随分あった。
その時源氏が「才(ざえ)を本(もと)としてこそ、大和魂の世に用ひらるる方も、強う侍(はべ)らめ」と言うのです。
「才」とは学問ということです。
大和魂をこの世でよく働かせる為には、やはり根底に学問がある方がよろしかろうというのです。
「大和魂」と「才」とは対立するのです。
大和魂とは学問ではなく、もっと生活的な知恵を言うのです。
『源氏物語』より大分あとになりますが、『今昔(こんじゃく)物語』にも「大和魂」という言葉が使われています。
或る博士の家に泥棒が入り、家の物を全部取って逃げてしまった。
博士は床下に隠れてのぞいていたのですが、余りに口惜(くや)しいので、泥棒に向って「貴様らは顔はみんな見た。夜が明けたらすぐ警察へ届けるから覚えていろ」と大きな声でどなった。
そうしたら泥棒たちは引き返して来て、博士を殺してしまった。
そういう話があって、『今昔物語』の作者は、こういう批評を下しているのです。
「才はめでたかりけれども、つゆ大和魂なかりける者にて、かかる心幼き事をいひて死ぬるなり」と。
学識がある事と大和魂を持つことは違うのです。
むしろ反対のことなのです。
今日の言葉でいうと、生きた知恵、常識を持つことが、大和魂があるということなのです。 もう一つ例を挙げます。
これは「大和心」の方です。
「大和魂」は紫式部が言い出したのですが、「大和心」の方は赤染衛門(あかぞめえもん)です。
恐らく両方とも女の言葉であったのだろうと思います。
確証はありませんが。
赤染衛門は大江匡衡(おおえのまさひら)の女房ですが、亭主の匡衡がこんな歌を詠んでいます。
この歌は実につまらない歌で、その当時の通弊がよく現われていると言える。
赤染衛門に子供ができて、乳母をやとったところが、その乳母に乳が出ない。それで、
はかなくも思ひけるかな乳(ち)もなくて博士の家の乳母(めのと)せんとは
という歌を詠んだ。
この「乳」には知識の「知」がかけてあります。
「知識もない女が博士の家の乳母になるとは、随分ばかなことを考えたものだ」という洒落(しゃれ)です。
それに対して赤染衛門がこういう歌を詠んで応(こた)えました。
さもあらばあれ大和心しかしこくば細乳(ほそぢ)につけてあらすばかりぞ
一向に構わないではないか。
大和心さえかしこければ、お乳など出なくても子供を預けてちっともかまわないという意味です。
これは非常に強い歌です。
ここでも、かたくなな知識と反対の、柔軟な知恵を大和心といっていた事がよくわかる。
その頃、知識、学問は男のものだったのでしょう。
しかもみな漢文だった。
漢文の学問ばかりやっていると、どうして人間は人間性の機微のわからぬ馬鹿(ばか)になるかと、女はみな考えたのです。
大江匡衡は代表的な文章(もんじょう)博士です。
それがこういう馬鹿な歌を詠んでいるのです。
大江匡衡 平安時代中期の学者、歌人。天暦6~長和元年(952~1012)。
文章博士 当時の大学の学科の一つ、文章科の教官の長。
(『学生との対話』講義 小林秀雄、編者 国民文化研究会・新潮社 新潮文庫 平成29年)
続く
巻第二十九明法博士善澄(みょうほうはかせよしずみ)、強盗に殺される語(こと)、第二十
今は昔、明法博士で大学寮の助教をつとめる清原善澄というものがいた。
学才はならぶものなく、昔の有名な博士にもおとらぬものであった。
年は、七十にあまり、世間でも重んじられていたが、家はきわめてまずしく、日々の生活にこと欠くことが多かった。
(『今昔物語集 本朝世俗篇(下)』武石彰夫訳 講談社学術文庫 2016年)
ところが、その家に強盗が入った。
うまく気がついて、善澄は、逃げ出すや、縁の下にもぐりこんで、盗人に見つからずにすんだ。
盗人は、侵入するや、手あたりしだいにものをうばいとり、ものをこわし、家中どたばたとふみやぶって、大声をあげながら出て行った。そのときに、善澄は縁の下からいそいではい出し、盗人が出ていった後から門のところまで走り出ていった、声をはりあげ、「やい、きさまら、ばかづらをみんな見とどけたぞ。夜が明けたらすぐに、検非違使の別当に申しあげて、かたっぱしから、つかまえさせてやるぞ」と、やたら腹立ちまぎれにさけんで、門をたたきながら、よびかけた。盗人はこれを聞いて、「お前らよくきけよ。引きかえして、やつを打ち殺してくれよう」と言って、ばらばらとはしりもどってきた。
善澄はあわてて家のなかに逃げこみ、縁の下に急いでもぐりこもうとしたが、その拍子にひたいを縁にぶつけて、とっさにもぐりこめないでいたところへ、盗人がかけてきて、手足をとって引きずり出し、太刀でその頭をさんざんに打ちわり、殺してしまった。
盗人は、そのまま逃げていってしまったので、どうしようもないままに終わってしまった。 善澄は、学才はすばらしかったが、思慮分別のまるでない男で、そのためこんな幼稚なことを口にして、最後は死ぬはめになったと、これを聞く人々すべてにそしられた、とこう語り伝えているということである。典籍未詳。
明法博士…大学寮において、明法道(法律学)を教授する職。定員2名。正七位下相当。
助教…大学寮において明経道(経書学)を教授し、明経博士を補佐する職。定員2名。正七位下相当。
清原善澄…元の姓は、海宿禰(あまのすくね)。吉柯の子。広澄の弟。学生から直講(助教の下)をへて、助教となった。一条天皇時代の代表的な明経家。ただし、「明法博士」ではなかった。広く「明経博士」とよばれたものか。
七十…善澄の没年は、寛弘7年(1010)7月。68歳。
思慮分別…原文「和魂(やまとだましひ)」。理性的な学問的知識才能をいう「漢才」に対して、繊細な精神、日常的な心がまえ、ことに処しての冷静な態度などをいうのに用いられた。
(『今昔物語集 本朝世俗篇(下)』武石彰夫訳 講談社学術文庫 2016年)
今朝の父の一枚です(^_^)v
1 人が創ったサトザクラ
自生のサクラと人が栽培するサクラ
(前略)
平安時代では、桜の一般的な増殖は種子からの増殖であっただろう。
そうすると、栽培品種化した最初のもっとも古い桜は‘枝垂桜(しだれざくら)’ということになる。
平安時代にすでに「糸櫻(いとざくら)」や「しだり櫻」という名称が文献にあらわれている。
この名称がつけられた桜の固体がそのまま現在でも生きているわけではないが、現在栽培されている‘枝垂桜’は、この文献にある桜の子孫である可能性が高い。
というのも、枝垂れるという形質は遺伝するからである。
‘枝垂桜’は、種としてエドヒガンに分類されるが、枝垂れるという性質以外にふつうのエドヒガンと違いはない。
‘枝垂桜’から種子をとって発芽させると、すべての子どもが枝垂れるわけではないが、枝が垂れた樹形をもつ子どもも見られる。
こうして、種子から比較的容易に増殖できることから、‘枝垂桜’が栽培品種化したと思われる。
(後略)
(『桜』勝木俊雄 岩波新書 2015年)