2021年3月30日火曜日

黄砂で…

天気が悪いときでもうっすらと見える山(生駒方面)が黄砂で…

近畿広範囲で黄砂観測 交通への影響など注意を」(関西NHK)
 このキランソウは切り傷から胃腸病までいろんな薬効があるといわれ、そんなところから九州地方で「医者殺し」と呼ばれたり、「地獄の釜のふた」(みなの病気を治してしまい、死んで地獄に行く人をなくしてしまう)との別名があったりもします。
(『花のおもしろフィールド図鑑(春)』 ピッキオ編著 実業之日本社 2001年)

キランソウ 下痢止め、虫刺されに」(日本農業新聞 2012年)
スギナに水滴がいっぱいついているのを綺麗だなぁと思っていました。
そのわけを児童書で知りました!

●スギナのえだ先に水滴がいっぱいついていて、ガラス細工のようです。
このような現象は、スギナののびざかりの季節で、風がなく湿度の高い朝などによくみられます。
●ふだんスギナのからだの水分は、気孔(きこう)から蒸散(じょうさん)させて一定にたもっています。
ところが湿度が高くなったりすると蒸散がにぶるので、水孔(すいこう)というあなから、水滴にしてはきだします。
(『ツクシのかんさつ 科学のアルバム54』鈴木公治 あかね書房 1988年)

普段は、人と出会わない時はマスクをずらしているのですが、黄砂でマスクを外せないので重たいレンズは諦めました。
この時期、マクロで花などを写すのも楽しいのですが…
しゃがんで撮影したあと、急に立ち上がると貧血を起こします。
撮影後は、しばらく下を向いて杖をついて歩いています(^-^;
なんだろうなぁ…????
キノコの仲間だと思いますが、初めて見た。
まわりにもニョキニョキ出ていたので…
カニノツメかな?自信はありません(^^ゞ
カニノツメなら成熟すると悪臭を放つそうです…
 なかのとおるさんのTwitterに

まっとうすぎるくらいまっとうな話。手代木社長、さすがです

国産ワクチン、なぜ出てこない? 塩野義・手代木社長に聞く」(日経ビジネス)

先人たちの底力 知恵泉「国産ワクチンの開発に挑め!小山肆成(しせい)」で
二木芳人(昭和大学医学部感染症内科)さんが、ワクチン開発は「国防」だと話しておられました。
 岩波書店のTwitterに

今日はゴッホの誕生日(1853年)。
激しい色彩と縦長の筆遣いが特徴の作品の数々は、生前はほとんど評価されていませんでしたが、死後ほどなくして高い評価を得ることに。
現在の大変高額な取引状況を知ったら、彼はどういう感想を持つでしょう。


ゴッホの手紙(上)ゴッホの手紙(中)ゴッホの手紙(下)」(岩波文庫)
(「Ⅱ 14歳からの哲学[B] 20 メディアと書物」)

 ちまたにあふれる情報には、本当のものとウソのものがある。
だから、情報に踊らされないためには自分で判断できるようにならなければならないと言う人もいる。
つまり、ある新聞では戦争している国の一方が正しいと言い、別の新聞では他方が正しいと言っている、新聞の言うことをうのみにしないで、自分で判断しようと。
(『14歳からの哲学―考えるための教科書―』池田晶子 トランスビュー 2003年)
 けれど、戦争している国のどっちが正しいかなんてことを、そもそも判断することができるものだろうか。
しょせん人間のすることだ。
どちらにも言い分はあるというそうれだけのことだ。
もしも日本に戦争が起こったとしたら、君が知るべきことは、どちらが正しいか、ということではなく、ということではなく、その中で自分はいかに正しく生きるのかということではないだろうか。
つまり、「正しい」とは、そもそもどういうことなのか、それ以外に人間が人生で知るべきことなどあるだろうか。
 情報はしょせん情報だ。
情報には本当もウソもある。
事実か事実でないかということもある。
本当のこと、真実というのは、外から与えられて知るものではなく、自ら考えて知るものだからだ。
自ら考えて知るより、知りようがないものだからだ。
  自ら考えて知ることだけが、「知る」ということの本当の意味だ。
情報を受け取って持っているだけの状態を、「知る」とは言わない。
正しく生きるとはどういうことか、生きているとはどういうことかという、人生にとって最も大事なことについての知識は、新聞にもネットにも書いていない。
書いてあることもあるけれども、それを受け取って持っているだけでは、自ら考えているのでなければ、あくまでもただの情報だ。
情報は知識ではない。
ただ情報を自分の血肉の知識とするためには、人は自分で考えなければならないんだ。
 なるほど、地球の裏側の戦争の情報を知ることは、人生の大事なことを考えるためのきっかけにはなるだろう。
でも、その前にはやはり、考えるとはどういうことなのかを理解していなければならないはずだ。
そうでなければ、何のための情報だろう。
メディアが手段というのは、その意味では正確だ。
しかし、今や世の人は、何を何のために知りたいかを考えもせず、とにかく知りたいのだと、情報を追いかけて奔走(ほんそう)している。
手段の目的化という完全な本末顚倒(ほんまつてんとう)だ。
 生きるためには、今や情報は絶対に必要なんだという人が大半だ。
実社会で仕事をしている人たちは、毎日毎瞬目まぐるしい変化する株式情報などを追いかけていないと、仕事にならないんだ。
でも、だからと言って、仕事をするために生きているのか、生きるために仕事をするのか、何のために生きているのかという、人生にとっての最も大事なあの問いと、問いの答えとしてのその知識とは、少しも変化していない。
ここではっきりとわかるだろう。
情報は変化するものだけれども、知識というのは決して変化しないもの、大事なことについての知識というのは、時代や状況によっても絶対に変わらないものだということだ。
 考えてごらん。
電話もテレビもなかった百年前も、何もなくて自然とともにあった五千年前も、そして、ネットだグローバルだの現代世界も、人が生まれて、生きて、そして死ぬという事実については、まったく同じなんだ。
何ひとつ変わっていないんだ。
生まれて死ぬ限り、必ず人は問うはずだ、「何のために生きるのだろう」。
数千年前から人類は、人生にとって最も大事なこの問いについて、考えてきた。
考え抜いてきたんだ。
賢い人々が考え抜いてきたその知識は、新聞にもネットにも書いていない。
さあ、それはどこに書いてあると思う?
(『14歳からの哲学―考えるための教科書―』池田晶子 トランスビュー 2003年)
今朝の父の一枚です(^_^)v
母と一緒に登った山に桜の花のトンネルができています。
今朝は、風がなくても花びらが舞いだしました。
雨が降ると一気に散るだろうな…