2021年3月17日水曜日

春らしくなりました

予報では、春らしいぽかぽか陽気だと
でも、朝夕と昼間の気温差が大きいとも話していました。
たしかに朝の風は冷たかったです。

17日 春らしいぽかぽか陽気」(えりの気象日記 3月16日)
枝垂れ桜を見ているときに挨拶を交わす方が通りかかったので
「去年、来年もサクラを見ることができるかなと思っていました」と話すと
「元気そうなのに」と仰ったので
「コロナを乗りきれるかなと思っていました」と話すと納得されていました。
今朝の朝刊第一面に
LINE、中国に情報漏れうる実態 識者「重大事案だ」〟(朝日新聞)
テレビでは
LINE 個人情報 十分な説明無く中国の委託先でアクセス可能に」(NHK)

働いていた頃、職場のパソコンに中国のソフトがいつの間にかインストールされていたので慌てて削除をしたことがある。
他の人が無料ソフトをインストールした時に一緒にインストールされていたようです。

百度のIME、中国製の日本語入力ソフトが入力情報を無断送信 パスワードなども」(HUFFPOST 2013年12月25日)
中国は、監視社会になっていると思う。
画期的な判決だなと思う。
同性婚認めないのは「違憲」、札幌地裁が初の司法判断…原告の賠償請求は棄却〟(読売新聞)
日本で同性愛が異端視されるようになったのは明治以降だと思います。
例えば、
信長も!家康も!芭蕉も!ニッポンのBLの歴史は奥が深いぞ!」(Aimu Ishimaru 和樂 2020年4月9日)
裁判で争点になった日本国憲法第二十四条について古いテキストですが…

第二編 日本国憲法
 第三章 国民の権利及び義務
第二十四条 

 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなかければならない。
 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 本条は婚姻および家族関係における個人権および平等権に関する規定である。
(『日本憲法史と日本国憲法』大石義雄 嵯峨野書院 昭和59年)
第一 婚姻関係における個人権および平等権
 憲法上、婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
それ故に、国家が両性の合意に基づかない婚姻を認めるが如きは、婚姻関係における個人権の侵害となる。
又、国家が夫婦の間にその法的地位に差別を設けることは、婚姻関係における両性間の平等権の侵害となる。
例えば、民法などで、両性の合意に基づかない婚姻を認めたり、夫婦間の法的地位に差別を設けたりすることは、両性間の個人権および平等権の侵害となる。
 しかし、この個人権および平等権も公共の福祉の限界を無視することはできないのであって、公共の福祉の維持のため必要な範囲においては、制限を免れないものであることは、他の基本的人権におけると異ならない。
それ故に、今日でも、例えば、民法上、婚姻関係における両性の個人権および平等権について一定の制限を設けている。
例えば、民法は、「男は、満十八歳に、女は、満十六歳にならなければ、婚姻をすることができない」、「配偶者のある者は、重ねて婚姻することができない」、「女は、前婚の解消又は取消の日から六ヵ月を経過した後でなければ、再婚することができない」と定めているが、これは、婚姻関係における両性間の個人権および平等権の制限である(民法731条以下)。

(転記者注:民法改正により6ヵ月から100日に短縮されています。
民法の一部を改正する法律(再婚禁止期間の短縮等)の施行に伴う戸籍事務の取扱いについて」法務省)
第二 家族関係における平等権
 憲法上、配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚、婚姻、および家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
 しかし、この家族関係における個人権および平等権にも、公共の福祉による限界のあること、他の基本的人権におけると異ならない。
それ故に、例えば、民法は、「未成年の子が婚姻をするには、父母の同意を得なければならない」、「成年に達しない子は、父母の親権に服する」、「子は、親権を行う者が指定した場所に、その居所を定めなければならない」、と定めている(民法818条、821条)。
(『日本憲法史と日本国憲法』大石義雄 嵯峨野書院 昭和59年)
大石義雄氏(1903年-1991年)は保守派の憲法学者でした。

本居宣長について加藤周一さんの「『日本文学史序説』補講」より転記したいと思います。
この本も合宿学習会の記録ですので、読みやすいと思います。
最終講義 自由討論
<文学>の定義――国学の影響

 では、なぜあのような形で狭くなっていったのか。
 二つの非常に大きな力が働いたと思います。
第一の力は国学。
これからお話することは、この合宿でもすでにふれたことに係りますが、国学というのは賀茂真淵以来なんだけれども、ことに本居宣長の力が強かった。
その影響下にあった国学の、政治的な面ではなくて文学的な面からいうと、18世紀後半に宣長が日本文学を定義するわけですが、たとえば『源氏物語』を代表的な文学作品として擁護したのは宣長です。
『源氏物語』というのはそれまで批判のほうが強かったのです。
誰が批判していたかといえば、漢学者、儒者。
江戸時代のインテリゲンチャとは儒者であり、医者であり、中国古典の教養を備えていました。
中国の儒教はたいへん道徳主義的だから、ああやたらに恋愛ばかりしていたのでは困ったものだと(笑)、あのようなものは教育上よろしくないというので儒者は反源氏的だった。
(「『日本文学史序説』補講」 加藤周一 ちくま学芸文庫 2012年)
 宣長の著作は『紫文要領(しぶんようりょう)』とかいろいろありますが、はじめてやった仕事は道徳と文学作品の分離、つまり子どもに道徳を説くことと文学は違うんだといったことです。
文学は倫理的にいいとかよくないとかをいうためにあるのではなく、<もののあはれ>といったような美的な感動の表現である。
intensiveな強い感動の表現が文学であり、具体的に代表的な作品は『源氏物語』だと言い切った。
『源氏物語』は文学的傑作であって倫理の教科書ではないと批判したのです。
 しかも宣長は京都ではなく伊勢の松坂ですから田舎の少数派です。
彼の学問=国学は圧倒的に独創的で、広範な学識を踏まえていましたが、多数派とは勝負になるものではなくて、100倍の儒者にわずか数人の支持者と共に対立していたのです。
滅びないために戦闘的になるのは仕方がない。
圧倒的な力をもつ儒者たちに敢えて少人数で反抗していたわけですから、彼は非常に攻撃的で、だいたい漢文なんてものは中国語で書かれたもので、中国語で書かれたものは日本文学とはいわない、日本文学は日本語で書かれた文学だと主張しました。
歴史とか社会の方角とか政治とか倫理とか、そういうことはすべて文学ではない、文学は<もののあはれ>の自然な感情的反応の表現だということを宣長は強調した。
少数派だから戦闘的になったのです。
 そこで、明治維新以後の国学はどうなったか。
漢文の能力は一世代ごとに急激に落ちていきます。
漢文の教養の水準がどんどん下ってきたために、二世代くらい経つと儒者が支配しているとはいえなくなりました。
義務教育の小学校から官立の大学まで漢文をあまり教えなくなって、どんどん事情が変っていく。
宣長がたたかった、圧倒的多数派の儒者対圧倒的少数派の国学者という対立はもはや過去の話になってしまった。
明治以後は誰もそんなことでたたかってはいません。
 ところが、国学に影響された「国文学者」は、宣長の「文学」の定義をそのまま継承した。
国文学者は国学者の系統を引くのです。
文学の主題は哲学的、社会的問題ではなくて、恋愛問題ということになり、言語は漢文ではなくて日本語ということになった。
例外的に、新渡戸稲造(にとべいなぞう)は『武士道』の本を、その前には岡倉天心が『茶の本』の原文を英語で書きましたが、岡倉が英語で書いた文章は、日本文学ではないということになりました。
文学の狭い定義にはまさにそういうところがある。
言葉は日本語、内容は美学。
感情生活だけで知的生活は文学の領域に入れないという、宣長のたたかいの継承みたいなものです。
 そうすると、そういう国学者が大学で教えるようにってきて、彼らが日本文学の定義を狭くしていきます。
ところが敵はもういなくなったわけで、いわば存在しない敵とボクシングしていたようなものです。
それが国学の伝統、日本文学の定義を狭くした第一の要素です。
 宣長自身は、国文学だけではもたないから、知識人としてこっそり漢文を読んでいました(笑)。
その漢文の読み書きの水準についていろんな人が指摘していますが、吉川幸次郎さんの指摘によれば、<漢意(からごころ)>の漢文は何の価値もなくて日本語を破壊しただけと宣長がいったのは表向きの話で、なかなか上手な漢文を書いていたということです。
そんなものを冗談では書けない。
日本人にとっては外国語ですから、よほど熱心に勉強しなければ書けないという漢文です。
要するに宣長はうそをついていた。
しかしそのうそは好都合ですから、一部の国文学のエスタブリッシュメントはその話をひとこともしない。
吉川さんは国文学者ではありません。
 そういうわけで、影の敵のために、見当違いの、時代錯誤のたたかいで国文学者は文学の定義を狭くしました。
(「『日本文学史序説』補講」 加藤周一 ちくま学芸文庫 2012年)
今朝の父の一枚です(^_^)v
私は、ほとんど鳥を写せなかったのですが、
父は、マヒワの他にジョウビタキ♀、ヤマガラ、カワセミ、アトリなどと出会っていました。

マヒワ スズメ目アトリ科
 全長12センチほと、スズメより一回り小さい。
にもかかわらず、ユーラシア大陸北東部から日本海を渡ってくる。
マヒワという語感がぴったりの、色合いと印象。
よく、陽のあたる木立で、ビュウィーン、チュウィーンと賑(にぎ)やかに鳴き交わす群れを見かける。
陽光の降り注ぐ冬の林の中で、この群れに出会うと、全体に黄緑がかった黄色の、ふわふわしたぼんぼんが、天から尽きることなく降ってくるような、祝福されているかのような喜びである。
(『渡りの足跡』梨木香歩 新潮文庫 2013年)