「24日日中 春本番の暖かさ」(えりの気象日記 3月23日)「大阪府と大阪市の一元化条例案 公明党大阪市議団が賛成表明」(関西NHK 3月23日)
なんのために感染拡大を招くような住民投票をしたんでしょうかね…
住民投票の予算を新型コロナ対策にまわせばいいのに
大阪モデルの基準を甘くして強行した。
公明党も支持者の意見が分かれたことを忘れている。「EU “人権侵害に関わった”新疆ウイグル自治区 当局者らに制裁」(NHK 3月23日)
アメリカ イギリス カナダもEUに歩調合わせ制裁に踏み切るのに
日本政府は腰が引けている。
人権に対する感覚はひどいレベルだからなぁ…
「柔道 金メダリスト 古賀稔彦さん死去 53歳」(NHK)
速報を見た時になんでと思った。
若すぎるよね…
浦沢直樹さんのTwitterに
古賀稔彦さんの柔道がなければYAWARA!はありえませんでした。
あんなに見事な一本背負いを漫画でも表現してみたい。
でもあの本物の迫力はなかなか出せませんでした。
古賀さんの柔道はすごい刺激をいつも与えてくれました。
本当にありがとうございました、古賀稔彦さん。
謹んでご冥福をお祈りします。
義弟がくも膜下出血で亡くなったのは55歳だった。
私が心筋梗塞を発症したのが57歳。
同じような頃に高校の同級生がガンと脳出血で3人も旅立った。
50代はそんな年齢なのかな?
若いというより幼い安徳(あんとく)天皇が8歳で二位の尼平時子(ときこ)に抱かれて入水しています。
大和猫さんのTwitterに
3月24日【#連子鯛の日】
1185(寿永4)年のこの日の壇ノ浦の合戦で、安徳帝と共に入水した平家の女性たちが連子鯛に化身したという伝承があることから、山口県下関市の下関漁港沖合底びき網漁業ブランド化協議会が2010年に制定しました。
「下関・赤間神宮 平家一門の墓がある神社」(NHK みちしる)
明治44年(1911)、洋画家の青木繁(あおきしげる)が30歳。
昭和7年(1932)、小説家の梶井基次郎(かじいもとじろう)が32歳の若さで亡くなっています。
梶井基次郎の短編を転記したいと思いますφ(..)
筧(かけひ)の話
私は散歩に出るのに二つの路を持っていた。
一つは渓(たに)に沿った街道で、もう一つは街道の傍から渓の懸った吊橋(つりばし)を渡って入ってゆく山径(やまみち)だった。
街道は展望を持っていたがそんな道の性質として気が散りやすかった。
それに比べて山径の方は陰気ではあったが心を静かにした。
どちらへ出るかはその日その日の気持が決めた。
(『檸檬・冬の日 他九篇』梶井基次郎 岩波文庫 1954年) しかし、いま私の話は静かな山径の方をえらばなければならない。
吊橋を渡ったところから径(みち)は杉林のなかへ入ってゆく。
杉の梢(こずえ)が日を遮(さえぎ)り、この径にはいつも冷たい湿っぽさがあった。
ゴチック建築のなかを辿(たど)ってゆくときのような、犇々(ひしひし)と迫って来る静寂と孤独とが感じられた。
私の眼はひとりでに下へ落ちた。
径の傍(かたわ)らには種々の実生(みしょう)や蘚苔(せんたい)、羊歯(しだ)の類がはえていた。
この径ではそういった矮小(わいしょう)な自然がなんとなく親しく――彼らが陰湿な会話をはじめるお伽噺(とぎばなし)のなかでのように、眺められた。
また径の縁(へり)には赤土の露出が雨滴にたたかれて、ちょうど風化作用に骨立った岩石そっくりの恰好(かっこう)になっているところがあった。
その削り立った峰の頂(いただき)にはみな一つずつ小石が載っかかっていた。
ここへは、しかし、日が全く射して来ないのではなかった。
梢の隙間(すきま)を洩れて来る日光が、径のそこここや杉の幹へ、蠟燭で照らしたような弱い日なたを作っていた。
歩いてゆく私の頭の影や肩先の影がそんなかへ現われては消えた。
なかには「まさかこれまでが」と思うほど淡いのが草の葉などに染まっていた。
試しに杖をあげて見るとささくれまでがはっきりと写った。
この径を知ってから間もなくの頃、ある期待のために心を緊張させながら、私はこの静けさのなかを殊にしばしば歩いた。
私が目ざしてゆくのは杉林の間からいつも氷室(ひむろ)から来るような冷気が径へ通っているところだった。
一本の古びた筧(かけひ)がその奥の小暗(おぐら)いなかからおりて来ていた。
耳を澄まして聴くと、幽(かす)かなせせらぎの音がそのなかにきこえた。
私の期待はその水音だった。
どうした訳で私の心がそんなものに惹きつけられるのか。歩いてゆく私の頭の影や肩先の影がそんなかへ現われては消えた。
なかには「まさかこれまでが」と思うほど淡いのが草の葉などに染まっていた。
試しに杖をあげて見るとささくれまでがはっきりと写った。
この径を知ってから間もなくの頃、ある期待のために心を緊張させながら、私はこの静けさのなかを殊にしばしば歩いた。
私が目ざしてゆくのは杉林の間からいつも氷室(ひむろ)から来るような冷気が径へ通っているところだった。
一本の古びた筧(かけひ)がその奥の小暗(おぐら)いなかからおりて来ていた。
耳を澄まして聴くと、幽(かす)かなせせらぎの音がそのなかにきこえた。
私の期待はその水音だった。
心がわけても静かだったある日、それを聞き澄ましていた私の耳がふとそのなかに不思議な魅惑がこもっているのを知ったのである。
その後追々(おいおい)に気づいて行ったことなのであるが、この美し水音を聴いていると、その辺(あた)りの風景のなかに変な錯誤が感じられて来るのであった。
香(かおり)もなく花も貧しいのぎ蘭がそのところどころに生(は)えているばかりで、杉の根方(ねかた)はどこも暗く湿っぽかった。そして筧といえばやはりあたり一帯の古び朽ちたものをその間に横(よこた)えているに過ぎないのだった。
「そのなかからだ」と私の理性が信じていても、澄み透った水音にしばらく耳を傾けていると、聴覚と視覚との統一はすぐばらばらになってしまって、変な錯誤の感じとともに、訝(いぶ)かしい魅惑が私の心を充(み)たして来るのだった。
私はそれによく似た感情を、露草の青い花を眼にするとき経験することがある。
草叢(くさむら)の緑とまぎれやすいその青は不思議な惑(まど)わしを持っている。
私はそれを、露草の花が青空や海と共通の色を持っているところから起る一種の錯覚だと快く信じているのであるが、見えない水音の醸(かも)し出す魅惑はそれにどこか似通っていた。
すばしこく枝移りする小鳥のような不定さは私をいらだたせた。
蜃気楼(しんきろう)のようなはかなさは私を切なくした。
そして深秘(しんぴ)はだんだん深まってゆくのだった。
私に課せられている暗鬱な周囲のなかで、やがてそれは幻聴のように鳴りはじめた。
束(つか)の間(ま)の閃光(せんこう)が私の生命を輝かす。
そのたび私はあっあっと思った。
それは、しかし、無限の生命に眩惑されるためではなかった。
私は深い絶望をまのあたりに見なければならなかったのである。
何という錯誤だろう!
私は物体が二つに見える酔っ払いのように、同じ現実から二つの表象を見なければならなかったのだ。
しかもその一方は理想の光に輝かされ、もう一方は暗黒な絶望を背負っていた。
そしてそれらは私がはっきりと見ようとする途端(とたん)一つに重なって、またもとの退屈な現実に帰ってしまうのだった。
筧は雨がしばらく降らないと水が涸(か)れてしまう。
また私の耳も日によってまるっきり無感覚のことがあった。
そして花の盛りが過ぎてゆくのと同じように、何時(いつ)の頃からか筧はその深秘がなくなってしまい、私ももうその傍に佇(たたず)むことをしなくなった。
しかし私はこの山径を散歩しそこを通りかかる度(たび)に自分の宿命について次のようなことを考えないではいられなかった。 「課せられているのは永遠の退屈だ。生の幻影は絶望と重なっている」
――『近代風景』1928年4月――
(『檸檬・冬の日 他九篇』梶井基次郎 岩波文庫 1954年)今朝の父の一枚です(^_^)v
会いたいと思っていると叶うものです!
私のようにぶらぶら歩いているとなかなかチャンスが訪れない(-_-;)
カワセミ〔川蟬、翡翠〕
ブッポウソウ目カワセミ科。
全長17センチ、体重30グラム位。
背は金属光沢のある青色、体の上面は青緑色で、下面は橙赤(とうせき)色。
嘴(くちばし)は長い。
ヨーロッパならびにアジアの、北緯60度以北を除くほぼ全域とアフリカなど極めて広い分布をしている。
温帯、熱帯にすむが、熱帯系の鳥。
日本でも全国から記録があり、沖縄県以北で繁殖もしている。
河川、池沼など水辺を生息場所にしており、時に海岸にも出る。
川にすむ鳥、川すみ、川せみが名前の由来らしい。
小魚を主食としており、水面にのびている枝や杭(くい)、石などに止まって餌をさがし、嘴から水中に飛び込んでいくか、止まり場所のない場合には空中の一点に留まる飛び方をし、そのまま飛び込んでいく。
農薬の過剰使用で一時激減したが、最近はまた元に戻りつつある。
しかし、河川の護岸工事の進行や水の汚れのひどさなど、全体の環境破壊は進んでいるので、完全には元に戻り得ないであろう。
巣は土の切り立った崖(がけ)に自分で、体が入るほどの穴を掘る。
この穴は1メートルほども続き、奥にやや広い場所があって産座となる。
(『野鳥の歳時記1 春の鳥』日本鳥類保護連盟監修 小学館 昭和59年)