霧の朝でした。
天気予報ではぽかぽか陽気だと話していたので春霞かな?
公園のサクラも満開といっていいほど
歩いているとシロバナタンポポに出会いしました。
セイヨウタンポポは季節感がないけど、シロバナタンポポを見ると春だなと思います。
「26日は晴れて 春らしいぽかぽか陽気」(えりの気象日記 3月25日)第1章 道ばた
†タンポポを見分ける
ここまでタンポポ、タンポポとおおまかに表記してきましたが、「花」を観察すると、タンポポにも種類があることがわかります。
タンポポにも、日本に昔から生えているタンポポ(在来種)と、外国から入ってきたタンポポ(移入種)があることを、聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。
この両者の違いがわかる、一番簡単な方法が、「花」のつくりを見分けることなのです。
(『身近な自然の観察図鑑』盛口満 ちくま新書 2017年) タンポポの「花」(正確に言うと、花茎<かけい>と、その先端についている頭状花<とうじょうか>)をもう一度見てみましょう。
黄色い花びらのように見えるものが花であることは、先ほどの自分の手と目を使って確かめました。
その花の集まりの外側には、緑色をした「がく」のようなものが覆っています(31頁の図参照<省略>)。
これは、専門用語で総苞片(そうほうへん)と呼ばれるものです。
この総苞片のうち、外側に位置しているものが反り返って下を向いているのが、外国からやってきたタンポポの特徴です。
一方、総苞片がすべて上を向いている場合は、日本在来のタンポポということになります。
街中の道ばたで見られるのは、ほとんどが外国産のタンポポだと思いますが、皆さんの見つけたものはどうでしょうか。
ただし、1本だけでは判断をするのが難しい場合もあるので、その場合は、同じ株の「花」の様子を見てみましょう。
より詳しく言うと、外国産のタンポポにも、日本在来のタンポポにも複数の種があります。
ただ、外国産(ヨーロッパ原産)にタンポポが、何という種類かを判別するのは難しい問題があります。
どのように見分け、名前を決定するかについては、いろいろな意見があるからです。
この本では、外国産のタンポポの総称としての意味で「セイヨウタンポポ」という呼び名を使うことにします。 一方、日本在来のタンポポは全部で15種類に分けられています。
関東地方の場合、主に見られる在来タンポポは、カントウタンポポです。
また、在来タンポポの中には、白い花をつける、シロバナタンポポという種類もあります。 なお、近年、都市部などでも、タンポポによく似た頭状花をつける草で、もっと花茎が長く、また、一つの花茎が途中で二股に分れている頭状花をつける草がよく目に入ります。
これはタンポポモドキという別名もある、ブタナという移入植物です。
ヨーロッパ原産のブタナは、1933年に北海道で見つかったのが最初でしたが、今は九州から北海道にかけて各地に広がっています。
(『身近な自然の観察図鑑』盛口満 ちくま新書 2017年) 平尾剛さんのTwitterに
聖火リレーが始まりました。
この期に及んでまだ開催するつもりでいることが僕には理解できません。
世間のスポーツを見る目がさらに厳しくなることに、ますます気落ちします。
当事者がこのまま黙認を続けることでスポーツの価値は底無しに下落し続ける。
それをなんとか食い止めるために発信を続けます。
岸見一郎さんのTwitterには
大きな台風が接近する時にJRが前日から運休を決めることがある。
結局、進路が大きく逸れたとしても怒る人は少ないだろう。
それを思えば、なぜオリンピック開催という大きなリスクを冒そうとするのかわからない。
後はどうなってもいいのか。
ウイルスと違って、台風のように過ぎ去らないというのに。
「東京 新型コロナ 376人感染確認 7日連続で前週同じ曜日上回る」(NHK)
「大阪 新型コロナ300人感染300人以上は1月30日以来」(関西NHK)
それでも生きる 旧約聖書・コヘレトの言葉 (6)「それでも“種”をまく」
番組の中で小友聡さんが池田晶子さんの言葉を紹介していました。
「死の床にある人、絶望の底にある人を救うことができるのは
医療ではなくて言葉である。宗教でもなくて言葉である」(『あたりまえなことばかり』)
100分de名著でも若松英輔さんが池田晶子さんを紹介していました。
第4回 池田晶子「14歳からの哲学」 ~「自己」とのつながり」~
『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法(ぼだいさつたしせつほう)」の続きを転記しますφ(..)
利行(りぎょう)とは、貴賤さまざまな衆生に、その利益のために計ることである。
たとえば遠い先のこと、近い将来のために、益するように計ることである。
晋の孔愉(こうゆ)が亀を助け、後漢の楊宝(ようほう)が怪我をした雀を救った故事がある。
この二人は捕らわれた亀を見、怪我をした雀を見たとき、その報いを求めなかったのであり、ただひたすら亀と雀のために計らったのである。
愚かな人は、他人の利益を先にすれば、自分の利益は失われてしまうだろうと思う。
そうではないのである。
利行は全体を包むのであって、あまねく自他を利するのである。
昔、周公旦(しゅうこうたん)は、人に面会するために、沐浴するとき、三回髪を結い直し、食事をしているときに面会を求める者があれば、三回でも食べた物を吐き出して面会した。
それはひたすら他のために計った行いである。
また、他国の人だからといって、何も教えないというようなことはなかったのだ。
(『現代文 正法眼蔵5』石井恭二 河出書房新社 2000年) このようであるから怨みのある人にも親しい人にも変わらずその利益を計らなければならない、その行いは自他にとって同じ利益となるのである。
もしこうした心ばえを持つならば、心身は草木や風や水にも自ずと活らいて、変わることはないのである、その人は自然によって利益を受けとるのである。
ひたすら愚かな人を救おうとせねばならない。(〇五) 同事(どうじ)というのは、違わぬことである。
自分にも違わず、他にも違わぬことである。
たとえば人間界に現われる如来は人間界の境界を共有するのである。
六道のうちの人界を如来が共にするならば、他の地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・天上の五道を共にする仏がいると知るのである。
同事を知るとき、自他は差別なく一如である。 白楽天は三つの友に琴と詩と酒を挙げている、「琴が終われば盃をあげ、酒終われば詩を吟じ、三友は循環して終わる時なし」と。
人を友とし、天を友とし、神を友とするのである。
人は琴を詩と酒を友とする。
琴と詩と酒は琴と詩と酒を友とし、人は人を友とし、天は天を友とし、神は神を友とする道理である、これが同事を学ぶことである。(〇六) ここに云われる「事」とは、振舞である、態度である。
他を自分の振舞いや態度に同化させ、自分を他の振舞いや態度の同化させることもあるはずである。
自他の循環は時にしたがって終わりはないのだ。 管子(かんし)は云う、「海は水を拒まぬところから、大海を成す。山は土を拒まぬところから、高山を成す。明主は人を拒まぬところから、大衆を従える」と。 知るべきである、海が水を拒まず嫌わない事態は同事である。
さらに知るべきである、水も海となることを拒絶しないところから同事の徳を具えているのである。
こうしたことから、水は集まって海となり、土は重なって山となるのである。
次のように云うことができる、海は海となることを拒まないことから、海を成就し、大海と成るのである。
山は山となることを拒まないから、山を成就し、高山と成るのである。
明主は人を厭わないことから、大衆を従えるのである。
ここに云う衆とは国である。
ここに云う明主とは、帝王のことであろう。
帝王は人を厭わないのである。
人を厭わないとはいえ、賞罰を行なわないのではない。
賞罰を行なうとはいえ、人を厭うことはないのである。(〇七) むかし素朴であったころ、国にいわゆる賞罰はなかった。
そのときの賞罰は、今の賞罰と同じでなかったのだ。
今も、褒賞を期待することなく道を求める人があるのは当然である、これは愚かな者の思慮の及ぶところではない。
明主は聡明であることから、人を厭わないのである。
人が集まって必然に国と成り、人に明主を求める心はあっても、明主の明主たる理(ことわ)りを、すべて知ることは少ない、人は明主に嫌われぬことだけを喜ぶのであるが、自分のほうも明主と一体となっていることに気づかないのだ。
明主にも、凡人にも、同事に通ずる道理があるように、同事は菩薩の行願である。
ただただ柔和な容顔をもって、一切に向かわねばならない。
この四つの菩薩の行法には、それぞれに布施・愛語・利行・同事の四つの行法が具わっているところから、十六の行法であろう。(〇八)
仁治癸卯1243端午日、入宋伝法沙門道元記す
『管子』は、法治主義を説く春秋時代の斉の管仲(かんちゅう)が撰したとされる。
(『現代文 正法眼蔵5』石井恭二 河出書房新社 2000年)
4月11日からラジオ第2「宗教の時間」で
「道元『正法眼蔵』を読む」(駒澤大学教授・常圓寺住職 角田泰隆)が放送されます(月1回)。
リアルタイムで聞くことができなくても「聞き逃し配信」で聞くことができます。
見逃し配信は1週間ですが、聞き逃し配信は長い期間、聞くことができます。
今朝の父の1枚です(^_^)v
カワラヒワを写しています。
私も撮ったのですが、露出とピントを合せることが出来ませんでした(^^ゞ