4月下旬のぽかぽか陽気にシジュウカラとメジロが水浴びをしていました(*´▽`*)
「19日午後天気崩れ 念のため折りたたみ傘」(えりの気象日記 3月18日)を読むと、
大阪では、まだ「春一番」がまだ観測されていないそうです。
母が座って桜を眺めるのが好きだった場所の
枝垂れ桜が咲き出しました(^^♪
そう言えば、大阪の開花予想は明日、20日でしたね(*´▽`*)
2,3年生かな?素直そうな姉妹でした。
おじいちゃんと階段前でジャンケン遊びを楽しんでいた(*´▽`*)
学校が休校になり、子どもたちは、どう過ごしているのかな?
前にも書いたけど、日差しを浴びて外で体を動かした方が病気に対する抵抗力が増すと思います。
家の中に閉じこもっていると、ストレスがたまり、免疫力が落ちると思います。
昨日の朝日新聞朝刊に「『コロナ、そこまでのものか』専門家会議メンバーの真意」
という岡部信彦氏へのインタビュー記事が載っていました。
岡部信彦氏の話は納得できます。
一部抜き書きをしますφ(..)
――安倍首相は2月26日にイベントの自粛、翌27日に全校一斉休校を養成しました。専門家会議には相談がなかったそうですね。
「どちらも専門家会議からは提言していません。休校に関してはもし学校で流行したらという意見交換はしていましたが、全国一斉休校についてどう考えるかといった諮問はありませんでした。09年の新型インフルでは大阪府と兵庫県で一斉休校をしました。ですが今回は患者層も重症度も異なります。メリット、デメリットについて、専門家に聞いてくれたらと思いました」
「新型コロナは8割ぐらいは普通の風邪同様3、4日で治ります。高齢者は季節性インフルでも普通の風邪でも肺炎などになりやすいので、この間に悪くなったり長引いたりする人が要注意です」
――中国政府が武漢封鎖などの強硬手段を使い、その後の各国の対策に影響を及ぼしたようです。
「ずいぶん古典的なことをしたな、と思いました。国内での封じ込め、日本を含む海外への感染拡大を抑える意味はあり、日本への侵入は検疫で食い止められると考えた人もいましたが、私は絶対無理だと言っていました。感染症の侵入をゼロにすることは、不可能に近いことです」
話の中には出てこなかったのですが
「中国の流行実態が分からず、調べに行きたかったのですが、市から止められました」
と話されたようです。
1月28日の記事の中でチャーター機第1便に
「何故、中国へ医療団を派遣するなどの支援を提案しなかったのかな?
医療団を派遣することで新型コロナウイルスの情報を得ることできると思う」
と書きましたが、感染症の専門家の中には岡部氏のように歯がゆい思いをされた方が多かったと思います。
私が、コロナに感染したらかなり危険な状態になると思います。
でも、岡部氏が仰るようにこの季節、インフルに感染、発症したら危険だという思いが
心筋梗塞を発病して以来、毎年あります。
発病前に一度、39度以上の発熱を経験しています(予防接種を受けていました)。
その日、一日、水分補給として枕元にスポーツ飲料を置き、寝ていたら37度台に下がりました。
今回、相談の目安に「かぜの症状や37度5分以上の発熱が4日以上続いている人」とあります。
今まででしたら、これくらいの熱で休むなんて言われていると思います。
日本人の働き方を考える機会だと思います。
また、インフルを発症しても入院することは、まれで、多くは自宅で療養だと思います。
岡部氏が仰るように、これからは、軽症の人は、自宅療養になると思います。
でないと病院が機能しなくなる。
また、解熱剤について情報が錯綜しているみたいです。
本来、発熱は病原菌に対して体が闘っている証拠です。
それを薬剤を使って、体の抵抗力を抑えることになりかねません。
高熱が長引くと脳に与える影響が心配されますが
すぐに市販薬の解熱剤を服用するのは、止めた方がいいと思うのです。
「WHO新型ウイルスへのイブプロフェン影響は『調査中』」(NHK)
3月19日
幕府が水油・呉服など五品の江戸廻送(かいそう)を命じた。 1860(万延<まんえん>元)年
大老井伊直弼(なおすけ)のあと幕政をひきついだ老中安藤信正(のぶまさ)、久世広周(くぜひろちか)らは、閏(うるう)3月19日のこの日、次のように全国に布令した。
「去年の六月に神奈川(横浜)を開港し、外国との貿易をはじめたのだが、商人たちは値段をせりあげ、直接品物を横浜に送っている。このため、江戸では商品が底をついてしまった。これからは、雑穀・水油・蠟(ろう)・呉服・生糸(きいと)の五品は、必ず江戸の問屋にまわすようにせよ。」
こうして幕府は、江戸問屋の力で、貿易による混乱を解決しようとした。
しかし、物価の上昇や貿易による品不足はたいしてやわらぐことはなかった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
なんか、今、政府のコロナ対策や支援策が、株価に反映しないのと同じような…
マスクや消毒薬の品不足と重なるような気がします。
安藤信正のことを知らなかったのですが、なかなか面白い人物のようです。
また、後日、調べて紹介したいなと思います。
芥川龍之介の『槍ヶ嶽紀行』の続き「三」を転記しますφ(..)
槍ヶ嶽紀行
三
その日の午後、私(わたし)たちは水の冷たい梓川(あずさがわ)の流を徒渉(としょう)した。
(『芥川龍之介全集 第五巻』編集者:伊藤整、吉田精一 角川書店 昭和43年)
川を埋め残した森林の上には、飛驒信濃境(ひだしなのざかい)の山々が、
――ことにうす曇った穂高山(ほたかやま)が、巑岏(さんがん)と私たちを見下(みおろ)していた。
私は水を渡りながら、ふと東京のある茶屋を思い出した。
その軒(のき)に懸(かか)っている岐阜提灯(ぎふぢょうちん)も、ありありと眼に見えるような気がした。
しかし私を繞(めぐ)っているものは、人煙(じんえん)を絶った谿谷(けいこく)であった。
私は妙な矛盾の感じを頭一ぱいに持ちながら、無愛想(ぶあいそう)な案内者の尻について、漸(ようや)く対岸を蔽(おお)っている熊笹(くまざさ)の中へ辿(たど)り着いた。
対岸には大きな山毛欅(ぶな)や樅(もみ)が、うす暗く森々(しんしん)と聳(そび)えていた。
稀(まれ)に熊笹が疎(まばら)になると、雁皮(がんぴ)らしい花が赤く咲いた、湿気の多い草の間(あいだ)に、放牧の牛馬の足跡が見えた。
ほどなく一軒の板葺(いたぶき)の小屋が、熊笹の中から現れて来た。
これが小島烏水(こじまうすい)氏以来、しばしば槍ヶ嶽の登山者が一宿(いっしゅく)する、名高い嘉門治(かもんじ)の小屋であった。
案内者は小屋の戸を開けると、背負っていた荷物をそこへ下した。
小屋の中には大きな囲炉裡(いろり)が、寂しい灰の色を拡げていた。
案内者はその天井に掛けてあった、長い釣竿(つりざお)を取り下(おろ)してから、私一人(ひとり)を後(あと)に残して、夕飯(ゆうめし)の肴(さかな)を供すべく、梓川の山女(やまめ)を釣りに行った。
私は蓙(ござ)や雑嚢(ざつのう)を捨てて暫(しばら)く小屋の前をぶらついていた。
すると熊笹の中から、大きな黒斑(くろまだ)らの牛が一匹、のそのそ側へやって来た。
私はやや不安になって小屋の戸口へ退却した。
牛は沾(うる)んだ眼を挙げて、じっと私の顔を眺めた。
それから首を横に振って、もう一度熊笹の中へ引き返した。
私はその牛の姿に愛と嫌悪(けんお)とを同時に感じながら、ぼんやり巻煙草に火をつけた。……
曇天の夕焼が消えかかった時、私たちは囲炉裡の火を囲んで、竹串(たけぐし)に炙(あぶ)った山女を肴に、鍋で炊(た)いた飯を貪(むさぼ)り食った。
それから毛布に寒気を凌(しの)いで、白樺(しらかば)の皮を巻いて造った、原始的な灯火をともしながら、夜が戸の外に下(さが)った後(のち)も、いろいろ山のことを話し合った。
白樺の火と榾(ほた)の火と、――この明暗二種の火の光は、すでに灯火の文明の消長を語るものであった。
私は小屋の板壁に、濃淡二つの私の影が動いているのを眺めながら、山の話の途切(とぎ)れた時には、今さらのように原始時代の日本民族の生活なぞを想像せずにはいられなかった。……
梓川 犀川の上流。槍ヶ嶽に発源し、上高地を経て北アルプスの断崖に深い谷をつくって下る。
小島烏水 小島久太(1875~1948)。登山家、山岳文学者。日本アルプスの開拓者。明治35年、槍ヶ嶽に登る。山岳・浮世絵に関する著が多い。
嘉門治の小屋 長野県南安曇郡安曇村、明神池のほとりの山小屋。上高地の主といわれた名ガイド上条嘉門治が建て管理していた。
(『芥川龍之介全集 第五巻』編集者:伊藤整、吉田精一 角川書店 昭和43年)
「嘉門治小屋 歴史」