雨が止むのを待って出かけました。
途中で降るかなと思ったけど、一気に青空になりました。
おかげで日差しが暖かかったので助かりましたが、
東京で季節外れの雪が降っているのですね(*_*)
「関東甲信の広範囲で雪 東京都心でも積雪1センチ」(NHK)
春の気象
(略)
季節風の交代する春は、北寄りの風と南寄りの風が日本付近で入り乱れ前線の活動も活発になる。
東京における顕著な前線の通過回数を、5年間の資料で、月別にその回数を平均してみると春が最も多い(図省略)。
前線は、春雷、雹(ひょう)、砂あらし、たつまきなどを伴う。
春に天気が変わりやすく、気温の変動が大きいことも、北風と南風の入り乱れによって説明できる。
春の天気は「降る、吹く、ドン」だと、東海地方ではいう。
北風と南風の衝突する前線上に低気圧が発生し、それが通るときに雨が降る。
翌日は低気圧が発達しながら通りすぎ、青空の下を風が吹く。
多くは冴え返る北風である。
その翌日は、早くも移動性高気圧が通りすぎ、薄雲が広がり次第に厚くなってドン(曇)になる――春の天気の変わり身の速さをいい表したことわざといえる。
「涅槃西風(ねはんにし)」「彼岸西風(ひがんにし)」「春一番」「桜まじ(サクラの花の咲くころの南風)」「春疾風(はるはやて)」など春の強風をいい表す季語も多い。
冴え返る寒さは「春寒」「春寒し」などともいわれる。
サクラの花の咲くころなら「花冷え」、5月なら「若葉寒(わかばざむ)」である。
春の寒さの戻りをいい表す言葉は外国にもある。
たとえばロシアでは「マハレブ桜冷え」「カシの若葉冷え」、ポーランドでは「庭師の冬」。
そしてお隣の韓国では「コッセムチュウイ」と呼ぶという。
コッは花、セムはねたみ、チュイは寒さの意味である。
(後略)
(倉嶋 厚)
(『四季の博物誌』荒垣秀雄編 朝日文庫 1988年)
昨日今日と外出自粛になっています。
で、望遠レンズを自粛してリハビリで歩いています(^^ゞ
顔見知りの愛犬家の方たちと出会いました。
ワンちゃんは、散歩をすることで排便などのリズムをつくっている。
私は、歩くことで心機能を高めています。
と、言っても無理せずに1時間ほどのリハビリ散歩です。
〝「外出自粛」大阪 花見客少なく〟(関西 NHK)
3月29日
児童・女子労働者を保護する工場法が公布された。 1911(明治44)年
明治維新以後、近代工業は急速に発達したが、工場法が制定されるまでは労働者を保護する法律はなかったから、資本家は自由に労働者を酷使することができた。
労働者の大部分はローティーンもふくむ20歳以下の若い女工たちであった。
女工たちは、押入れもない粗末な寄宿舎に住まわされ、蒲団は二人に一組しかあたえられない有様だった。
諏訪(すわ)の製糸工場では、時には1日18時間も働かされた。
食事時間を5分に制限した工場さえあった。
この日公布され5年後に施行された工場法は徹夜業や児童の使用を禁止したが、なお抜け道があったので「女工哀史」はその後もつづいた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
新型コロナウイルスの感染拡大で外国人労働者に頼っている産業が打撃を受けています。
「新型コロナ感染拡大 技能実習生来日できず 農家に大きな影響」(NHK)
先日テレビで、消毒液を製造している会社で外国人実習生が働いている所をみました。
外国人実習生が勤める会社によっては、かつての女工哀史のような差別を受けている。
「ベトナム人実習生の心の声 夢見た日本に失望」(朝日新聞 2019年9月1日)
昨夜の首相の会見、チラッとしか見ていないのに批判するのは失礼なのですが、
メルケル首相や他の国の多くの指導者は、カメラの向うで不安になっている国民をしっかりと見つめて語りかけているけど
日本の首相はあっちこっち向いて話すのは何故なんだろうと思う。
それに対策会議の前に会見をするのは、記者の質問を制限するためだと思ってしまう。
(首相動静3月28日 時事ドットコム)
不安な毎日を過ごしていますが、こんな時は、好きな文章を読んでいます。
その中から志村ふくみさんの「慶州の春」を転記したいと思いますφ(..)
慶州の春
車が慶州に近づくにつれ、時間があとへあとへ流れてゆく。
行き交う車も、人影もまばらになり、土塀をめぐらした村落はひっそりとしたたたずまいをみせ、ゆるやかな反りの瓦屋根の線がいかにも美しく、心やすらぎ、われわれは千年の歳月をさかのぼって新羅(しらぎ)の都にみちびかれてゆくようであった。
(『語りかける花』志村ふくみ ちくま文庫 2007年)
三月下旬の慶州は春まだ浅く、柳がかすかに芽吹いていた。
水清い普門湖のほとりに宿り、翌日佛国寺を訪れた。
塵ひとつない寺内は、さえざえとした松林が回廊のかなたにつづき、梅もところどころほころびている。
慶州は到るところ連翹(れんぎょう)が植えられていて、ここも連翹の垣が寺をめぐっている。
桜や桃の木も多く、いずれも蕾はかたいが、これらが一斉に咲きそろうころは、黄の幕をめぐらした花苑のようであろう。
さまざまな鳥が枝をとび交い、久しく味わったことのなかった浄福の気配にみたされる。
韓国の寺院の中で最も美しい建築といわれるこの佛国寺は、木造の部分を秀吉の朝鮮出兵で失い、石畳の見事な垣や橋、塔などに当初の姿が偲ばれる。
わが国との交流の縁も深く佛国寺建立の設計図が、近年東大寺の収蔵庫から見出されたと聞く。
本堂の中心に左右に白い石塔が建っている。
多宝塔を有影塔といい、釈迦塔を無影塔と呼ぶという。
千三百年の昔、この塔の建立にあたって、百済の国より若い石工が招かれた。
彼の名を阿斯達(あさだり)といい、新婚間もない妻の阿斯女(あさにょ)を国もとへのこしてきた。
阿斯女は夫を慕って、はるばる慶州を訪れ、佛国寺の門前で、夫に会わせてくれるようたのんだが、石塔の出来上がるまでは会わせることが出来ない、この山の麓の、影池のほとりで待っているように、やがて塔が完成すれば、池にその姿は映るであろう、といわれ、阿斯女は、影池のほとりで、朝な夕な塔の姿が池の面にあらわれるのを待つ中、いつしか二十八年の歳月が流れた。
ある朝、いつものように小高い丘にのぼって池の面をみつめると、白い塔がくっきり浮かび上がっている。
阿斯女はその塔をみつめる中、塔の姿が夫のように思われ、そのまま池に沈んでしまった。
伝説とはいえ、何か心打たれて、白石の塔を見上げると、千古の風雪に洗い清めれたこの塔は、韓国の美の象徴とも思われ、ふしぎなほど清雅である。
折から、数人のチョゴリをまとった若い男女が境内の石組の階段や、柳の下にたたずんでいる。
聞けば新婚の旅の途中の幾組かであるとか。
真紅のチョゴリの裳裾をなびかせ、楚々とした女性に、私は思わず阿斯女をみたように思われた。
雅やかな古寺の千年の昔がよみがえったようであり、それにしても現代の阿斯達たちは、何と潑剌と、幸せにみちていることか。
翌朝、目ざめて、ふと、影池は本当にあるのだろうか、地図をひろげると隅の方に影池としるされている。
私は友人をさそって、朝まだき、車を走らせた。
佛国寺を真正面に仰ぐ影池は朝靄につつまれていた。
はるか山腹の塔は、木立にさぎられて、その影さえみえない。
小高い丘の上に、妻の死を悼んで刻んだという菩薩が立っているということだったが、私たちはそれをしらなかった。
(京都新聞<現代のことば>1985年4月19日)
(『語りかける花』志村ふくみ ちくま文庫 2007年)
「佛国寺 文化遺産 国宝 釈迦塔(国宝 21号)」