昨日は啓蟄(けいちつ)なのに虫たちも土の中に引っ込んでしまう寒さでした。
今朝も冷たかったけど、日向は一枚脱ごうかなと思うほどの暖かさ。
夕刊に
「被爆電車のトミカ まちを勇気づけた歴史と路面電車愛」(朝日新聞)
欲しいな(*´▽`*)
(トミカシリーズ No.66 広島電鉄 650形)
「広島の路面電車 8月6日を乗り越えて」(NHK 動画 みちしる)
原爆投下、わずか3日後に走り始めました。
高校入試の時期、例年、インフルエンザに神経を使うのに
今年は、新型コロナウイルスまでも…
受験生が体調を崩さず、実力発揮できますようにp(^^)q
「京都 公立高入試でも感染防止策」(NHK関西)
「中韓入国者に2週間待機要請 国内対策と合わせ終息へ全力 政府」(NHK)
なんか唐突で、いまさらという感じですよね…
「2週間待機要請の日本に『遺憾』 大使呼び抗議予定 韓国外務省」(NHK)
「成果が見えてきた段階で今回の措置が取られたことに水際対策以外の意図があるのではないかと疑うほかない」
とコメントするのも無理ないと思います。
首相は、一部の声をだけを聞いてやっているのではと疑いたくなるのは
中沢けいさんが呟かれていることが、
首相のこれまでの言動を見るとありうるなと思うから…
これまでの後手の政策(先手の帰宅)を取り繕うために
やっている感を出そうとしている。
これから何をしでかすか分からない…
首相に「緊急事態宣言」など出されたらトイレットペーパー・パニックだけでなく
次々とパニックが起きると思う…
「クルーズ船で何が起きた」(NHK)
3月6日
永仁(えいにん)の徳政令が発布された。 1297(永仁5)年
文永(ぶんえい)・弘安(こうあん)の役(えき)が終っても御家人(ごけにん)は満足な恩賞もあたえられず、蒙古軍襲来の危機もまだ去らなかった。
御家人の窮乏は深刻となり、不満がつぎつぎと幕府のもちこまれた。
幕府としても御家人の救済策をもりこんだ施策を打出す必要にせまられていた。
いくつかの試みが失敗したあと、執権(しっけん)北条貞時(さだとき)はどんな反対をも押切る決意をもって三カ条の徳政令を発布した。
それは再審請求を意味する越訴(おっそ)を禁止する、御家人の所領の質入(しちいれ)・売買を禁止する、金銭貸借についての訴訟を受理しない、という内容であった。
このうち二条では、以前の売却地について、買主が御家人で、すでにその買得(ばいとく)から20年以上経過した土地などを除き、もとの所有者がただで土地を取りもどすことを認めた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
北海道知事が緊急事態宣言を出したのは理解できる。
「北海道知事 道民に『緊急事態宣言』 外出控えるよう呼びかけ」(NHK)
それを見て真似をしてやっている感をだそうとしか思えない首相。
首相がなんの相談もせずに全国一斉休校を宣言したおかげで
一気に仕事が増えた官僚や職員が気の毒だなと思います。
一番、迷惑を受けているのは保護者のみなさん
そして
「休校 世界で広がる 3億人近く学校に通えず 新型ウイルス」(NHK)
休校によって子どもたちがかえって危険な状態になっているのではと危惧します。
ワクチンや治療法がある季節性インフルエンザのについて
厚生労働省の「新型インフルエンザに関するQ&A」には、
Q10.通常の季節性インフルエンザでは、感染者数と死亡者数はどのくらいですか。
例年のインフルエンザの感染者数は、国内で推定約1000万人いると言われています。
国内の2000年以降の死因別死亡者数では、年間でインフルエンザによる死亡数は214(2001年)~1818(2005年)人です。
また、直接的及び間接的にインフルエンザの流行によって生じた死亡を推計する超過死亡概念というものがあり、この推計によりインフルエンザによる年間死亡者数は、世界で約25~50万人、日本で約1万人と推計されています。
ところで去年の自殺者数は2万人ほど(毎日50~60人ほどの方が自殺している…)
「令和元年中における自殺の状況」(警察庁)
数年前に日本では自殺者が多いことが問題だと報道されていたと思うのだけど…
新型コロナウイルスで
「中国人を中傷する手紙 横浜中華街の複数の店に 市が調査」(NHK)
などを見ると、人の心をここまで蝕むものなのかなと思う。
この人は、どんな闇を抱えているのだろう…
これを放っておくと、いろんな場面で真似をする人が出てくる。
2003年に放送された番組のテキスト『NHK人間講座 新・魯迅のすすめ』より
「太宰治『惜別』と竹内好『魯迅』」を転記したいと思いますφ(..)
第7回 日本人と魯迅
太宰治『惜別』と竹内好『魯迅』
太宰治(1909―48)には、日本留学時代の魯迅をモデルとした青春小説がある。
それは『惜別』(1945)という作品で、「東北の片隅のある小さな城下町」出身で、その後は東北地方の某村で開業している老医師が、「四十年も昔」に仙台医学専門学校で同級生であった魯迅との交友、担任教授の藤野先生との交流を回想するという形式で語られた青春物語である。
(『NHK人間講座 新・魯迅のすすめ』藤井省三 日本放送出版協会 2003年)
太宰治は「走れメロス」(1940)のような友情をめぐるメルヘンを書いており、『惜別』もまた国境を越えた友愛の物語といえよう。
この『惜別』の一場面では、仙台医専の同級生で語り手の「私」が名勝松島に遊びに行った際、魯人が歌う小学唱歌「雲の歌」を偶然耳にする。
そのときの魯迅の歌いっぷりを、語り手の「私」は「調子はづれと言はうか、何と言はうか、実に何とも下手くそ」と評しているのだ。
すでに述べたように、魯迅は幼少期から美術に、上海時代には映画にも深い関心を寄せていたが、ふしぎと音楽にはほとんど興味を示していない。
太宰の魯迅音痴説はなかなか鋭い洞察といえよう。
この松島での音痴ぶりを披露した魯迅が、同級生「私」と旅館に一泊することになると「周さん(註=魯迅の本名は周樹人)は、宿のどてらに着換へたら、まるで商家の若旦那の如く小粋(こいき)であつた」とも描かれている。
魯迅が東京の下宿で和服に袴を履いて畳に端座している写真は、現在では各種の図録『魯迅全集』などで容易に見ることができるが、『惜別』執筆時の太宰は、そんな留学生魯迅の写真に接する機会は得られなかったことであろう。
「商家の若旦那の如く小粋」などてら姿の魯迅というのも、太宰の優れた想像力による迫真の描写であった。
このように『惜別』は、音痴だがキザな魯迅、笑う青年魯迅を見事に描き出しているにもかかわらず、「走れメロス」などと比べても評価は低い。
それはなぜだろうか。
太宰と同世代の魯迅研究者でカリスマ的批評家であった竹内好(よしみ 1910―77)が、「おそろしく魯迅の文章を無視して、作者の主観だけででっちあげた魯迅像――というより作者の自画像である」(「花鳥風月」1956)と酷評したこともその一因であろう。
竹内は戦時中の43年11月に評論『魯迅』を書き上げ、その翌月に召集令状を受けて入隊、中国戦線へと送られ、『魯迅』が盟友武田泰淳(たけだたいじゅん)の校正により44年11月に刊行された際には、竹内の希望で太宰にも献呈されている。
いっぽう、太宰は作家仲間の小田嶽夫(たけお)による『魯迅伝』や日本語版『大魯迅全集』全7巻(改造社)を読んだ上で、「仙台医専の歴史……仙台市の歴史を知るため」現地調査も行い、さらには竹内の『魯迅』も熟読して『惜別』を執筆したのである。
その経緯について、太宰自身「『惜別』あとがき」で次のように記している。
小田氏にも、「魯迅伝」といふ春の花のやうに甘美な名著があるけれども、いよいよ私がこの小説を書きはじめた、その直前に、竹内好氏から同氏の最近出版されたばかりの、これまた秋の霜の如くきびしい名著「魯迅」が、全く思ひがけなく私に恵送せられて来たのである……その本の跋に、この支那文学の俊才が、かねてから私の下手な小説を好んで読まれてゐたらしい意外の事実が記されてあつて、私は狼狽し赤面し、かつはこの奇縁に感奮し、少年の如く大いに勢ひづいてこの仕事をはじめたといふわけである。
太宰がここで小田『魯迅伝』を「春の花のやうに甘美」と評したのは、同書がもっぱら感動的偉人伝に始終していたからであろう。
これに対し竹内『魯迅』は、なんの批評も解説もせぬまま、単刀直入に「魯迅の小説はまずい」と断定し、「『石鹸』は愚作であり、『薬』は失敗作である」「『傷逝』を私は悪作と思う」などと魯迅の作品をこき下ろしている。
太宰が竹内『魯迅』を「秋の霜の如くきびしい」と評したのは、多分に魯迅に対する作家としての同情を交えてのことであったろう。
また竹内は、政治と文学との対立という構図で魯迅論を展開していた。
戦時下に生きていた竹内にとって、「政治と文学」は極めて深刻な意味を持っていたのであるが、魯迅が生きた1900年代から30年代の中国における政治と文学の状況は、竹内が直面していた戦時日本的状況とは相当に異なっていた。
魯迅論としては竹内の議論は不毛な観念論であったといえよう。
太宰は竹内『魯迅』に対し「少年の如く大いに勢ひづいて」「中国の人をいやしめず、また軽薄におだてる事もなく、所謂潔白の独立親和の態度で若い周樹人(しゅう じゅじん)を正しくいつくしんで」描いたのであろう。
もし太宰が冥途で竹内の「作者の主観だけででっち上げた魯迅像――というより作者の自画像」という批評を読んだとしたら、そっくりそのままこの批評を竹内に返したことであろう。
ところが太宰の「秋の霜の如くきびし」という竹内『魯迅』評を捉えて、太宰が竹内『魯迅』に「深い衝撃を受けた」という神話が形成されたのである。
たとえば奥野健男(1926-97)は、新潮文庫版『惜別』の解説(1973)に次のように記している。
自分と違う、つまり自分には引き寄せ切れぬ魯迅像を知り、小田嶽夫の『魯迅伝』をもとに形成された小説世界の破綻(はたん)を感じた。しかし戦争最末期の何が何でも小説を書こうという百姓の糞意地である。竹内好の魯迅をも、自分に引き寄せ、魯迅を借りて内容は魯迅ならぬ太宰自身の自己表白の物語を書いた。
また『惜別』が戦争協力の文学であった点も、作品評価に影響を与えたことであろう。
作品刊行は日本敗戦の翌月である1945年9月であるが、尾崎秀樹が『旧植民地文学の研究』で指摘するように、この作品は大東亜会議(1943年11月)における「大東亜各国は相互に自由独立を尊重し……大東亜の親和を確立する」という共同宣言にのっとり、内閣情報局と日本文学報国会との委嘱と助成金を得て書かれたものなのである。
日本にとって太平洋戦争開戦の目的は、米英の経済封鎖に対し資源と市場を確保するためのいわゆる「自存自衛」であり、1941年12月の開戦後は、東アジアにおいて米・英・蘭の帝国主義諸国に代わる新たな侵略者として君臨していた。
だが43年4月中国大使から外相に就任した重光葵(しげみつまもる)は、来るべき日本の敗戦を予測したうえで、アジア諸国に独立を与え、アジア解放の理念を戦争目的の正面に据えようと図った。
日本が南京政権に対し、43年1月外国租界を還付し治外法権を撤廃したのを皮切りに、アジア諸国に次々と独立を与えたのはこのような大東亜外交の実践であり、東京における大東亜会議はその総仕上げであったのだ。
戦後の太宰が『斜陽』『人間失格』を書いて48年に心中したのに対し、竹内は魯迅および近・現代中国文学の紹介に努め、『世界文学はんどぶっく・魯迅』(1948)、『魯迅雑記』(1949)などの魯迅論や、岩波新書『魯迅評論集』、筑摩書房『魯迅作品集』(ともに1953)などの翻訳を相次いで刊行し、その魯迅解釈は「竹内魯迅」とさえ称されるに至る。
だがその間にも竹内の魯迅論は大きく変化していく。
たとえば魯迅の代表作「狂人日記」をめぐって、戦時中には作品の価値は口語による創作とか反封建のテーマにあるのではなく、「この稚拙な作品によってある根柢的な態度が据えられたことに」あるのだと発言していたが、66年の『魯迅作品集1』解説では、この「回心」説は「中国の古い社会制度、とくに家族制度と、その精神的支えである儒教倫理の虚偽を曝露するという、魯迅の根本の、また最大のモチイフによって書かれた作品である」と、大変貌を遂げているのだ。
このような竹内の魯迅論が変質する際には、49年の中華人民共和国建国、いわゆる人民革命の成功が大きな影響を与えていたと考えられよう。
幕末以来の百年近い歴史において、日中両国は共に欧米にならい国民国家建設に邁進するライバル同士であったが、日清戦争(1894~95)以後、近代化競争に優位を占めた日本は、欧米の植民地主義にならって中国への進出を開始し、ついには満州事変を経て日中戦争という全面侵略に至るのである。
しかし戦後には敗戦国日本が52年の独立回復までアメリカ占領下に置かれていたのに対し、中国では国共内戦を経て共産党が国民党を駆逐し、バラ色の社会主義国家を建設した。
戦前の先進日本、後進中国という構図は逆転して、多くの日本人の眼に社会主義の新中国が輝いて見えたのである。
竹内好ら中国文学者をはじめ多くの日本人が、中華人民共和国に過度の期待を抱き、社会主義中国を讃美した。
それは蔑視と侵略の半世紀に対する反動でもあったのだろう。
その後も竹内は最晩年まで『現代中国論』『国民文学論』を上梓(じょうし)し、中国を鏡としる近代日本批判の評論家として活躍した。
このような戦後竹内の魯迅研究者としての名声は、彼が戦中の著『魯迅』で描き出した政治と文学の対立に苦悩する魯迅像を日本の読書界に広め、太宰が『惜別』で描いたにこやかに笑う人間臭い個性的な魯迅像を駆逐していったのである。
(『NHK人間講座 新・魯迅のすすめ』藤井省三 日本放送出版協会 2003年)