2020年3月11日水曜日

春が一歩ずつ…

昨日は、雨で来ることができなかったけど
一雨ごと春がやって来ています。
月曜日には気がつかなかったけど、
今朝見ると、土筆(つくし)がニョキニョキ出ていたp(^^)q

飛び出す胞子 ツクシの秘密」(ミクロワールド)
朝日新聞の別刷り特集「春へ 一歩ずつ」に
夜の森(よのもり)地区の桜並木(2019年4月10日撮影)が一面に載っていました。

 福島の被災者がこんな話をしていた。
 震災直後は、いつもと同じように咲く桜を恨めしいと思った。
次の年は、誰にも見られずに咲く桜をかわいそうだと思った。
その次の年にやっと、春が来たと思えるようになった。

(後略)
昨日は、風雨が強かったので、散歩を諦めて眼科を受診しました。
事前に、受付の方や先生に花粉症なのでクシャミが出るかもしれませんと自己申告しました。
この季節、花粉症の目薬を処方してもらっているので
わかってもらっていますが念のために伝えました。
内科医の先生が感染されていますが、
患者さんともっと接近する眼科や耳鼻咽喉科、歯科の先生は大変だろうなと思います。
話は変わりますが、昨日、3月10日は…
3月10日
 東京大空襲でおよそ10万人もの都民が焼け死んだ。 1945(昭和20)年
 東京都民が眠りについた午前零時8分、アメリカのB29爆撃機約300機からなる大編隊が房総半島方面から超低空飛行で東京の深川地区(現在の江東区内)に侵入した。
B29はまずこの町の周囲を火の壁で包み、そのあと焼夷弾(しょういだん)を投じてその内部をしらみつぶしに爆撃していった。
またたく間に下町の人口密集地帯は火の海となり、逃げ場を失った人々は焼け死んだ。
2時間半の間に2千トンの焼夷弾が落とされ、およそ10万人もの非戦闘員が殺された。
焼夷弾は、日本の木造家屋を焼き払うのにはもっとも安価で効果的であった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)

東京大空襲」(中学・高校 動画)
B面昭和史 1926-1945』より「人道無視の無差別爆撃」を転記しますφ(..)
猛火に追われ川で溺れる 半藤一利」(戦争証言アーカイブス)も参照してください。
人道無視の無差別爆撃
 3月、5日間で攻略できるであろうと予定されていた硫黄島の激戦がなおつづいているとき、マリアナ諸島の米第二十空軍司令部の不満は、爆発点に達しようとしていた。
本土爆撃開始いらいすでに四ヵ月に及んでいるのに、日本上空の強い偏西風に影響されて、回数22回、のべ2148機の出撃、5千トンの投弾によっても、優先的に設定された主目標11のどれ一つとして壊滅し得なかったからである。
隊の士気は日ましに落ちていくのに業(ごう)をにやしたカーチス・ルメイ少将は、ついに決断を下した。
それまで守られてきた〝爆撃の騎士道〟をかなぐり捨てたのである。
(『B面昭和史 1926-1945』半藤一利 平凡社ライブラリー 2019年)
 一、日本の主要都市にたいして夜間の焼夷弾攻撃に主力をそそぐこと。
 二、爆撃高度を5千~8千フィートとす。
 三、各機は個々に攻撃を行なうこととす。(以下略)

 作戦の根幹は焼夷弾による低空からの市街地への無差別爆撃である。
 「日本の一般家屋は木と紙だ。超低空からの焼夷弾攻撃で十分効果があげられる」
とルメイは自信たっぷりにいった。
 この新戦術によるB29の大群の無差別絨毯(じゅうたん)爆撃が開始されたのが3月10日未明。
それは東京の下町にたいする猛火と黒煙とによる包囲焼尽作戦であった。
 その夜、わが家は焼夷弾の直撃をうけ、自分の家の火は何とか消したが、燃え上がった付近の家の火はもう消すどころではなかった。
「それは世界最大の火災であった。ふき上がる火炎の明りで時計の文字盤が読めた」とアメリカ兵搭乗員は語ったという。
わたくしはその火煙の海の中で「焼夷弾は消せる」と真面目に消火活動をしたばかりに逃げ遅れて、猛火と黒煙に追いたてられ、ついには川に落ちて危うく生命を落としそうになるというひどい体験をした。
しかし、そのことについてはすでに何度もかいているから略すことにする。
 この無差別爆撃の惨状について、わたくしがウムと唸らせられた描写がある。
戦後の21年春にかかれたものであるが、作家坂口安吾の『白痴』という小説である。
この夜の絨毯爆撃後の下町の情景を、大森に住んでいた安吾はわざわざ〝見物〟にきたのである。
わたくしが同じ話をくり返すよりも、これを引用したほうがずっといいことかと思われる。
 「人間が焼鳥と同じようにあっちこっちに死んでいる。ひとかたまりに死んでいる。まったく焼鳥と同じことだ。怖くもなければ、汚くもない。犬と並んで同じように焼かれている死体もあるが、それは全く犬死で、然(しか)しそこにはその犬死の悲痛さも感慨すらも有りはしない。人間が犬の如く死んでいるのではなく、犬と、そして、それと同じような何物かがちょうど一皿の焼鳥のように盛られ並べられているだけだった。犬でもなく、もとより人間ですらもない」
 このリアリズム! そう思う。
辛うじて生きのびたわたくしが、この朝に、ほんとうに数限りなく眼にしたのはその「人間ですらない」ものであった。
たしかにゴロゴロ転がっているのは炭化して真っ黒になった物。
人間の尊厳とかいう綺麗事はどこにもなかった。
しかし、いま思うと、わたくしはそれまでにあまりにも多くの爆弾で吹きちぎられた死体の断片を見てきていたために、感覚がすっかり鈍磨しきっていて、転がっている人間の形をしたそれらがもう気にもならなかったのである。
 戦争というものの恐ろしさの本質はそこにある。
非人間的になっていることにぜんぜん気付かない。
当然のことをいうが、戦争とは人が無残に虐殺されることである。
焼鳥のように焼け死ぬこと。
何の落ち度もない、無辜(むこ)の人が無残に殺され転がるだけのことである。
とくに21世紀の戦争は、人間的なものなど微塵もないほどにいっそう非人間的な様相を呈することになっている。
しかも非情な兵器の威力は人間の想像を超えた、殺人に容赦なく、大儀の有無や正邪などは問われることなく、われら民草はただ殺戮されることになる。
楽しく語れるB面の話などまったくない。
 余計な余計な談義であった。
急いで本筋に戻ると、この9日から10日にかけての夜間攻撃による死者は、いまでも約10万ということになっている。
焼失家屋26万戸、罹災者101万人。
「東京空襲を記録する会」の調査報告によると、正確な死者9万2778人であるというが、それにしても一夜にしてこれほどの死者をだした戦闘の例は有史いらいない。
しかも死者は全員がまったくの非戦闘員であり、それを百も承知でホロコースト(焼き殺し)を、日本の民草はただただ運命と堪えるしかなかった。
これを「受忍(じゅにん)」というのであるそうだが、それが国家の命令に忠実な当時の日本人であった。
そして10日正午のニュースで「帝都に来襲、市街地を盲爆せり。右盲爆により都内各所に火災を生じたるも、八時ごろまでに鎮火せり」とだけ大本営は発表した。
 3月11日、蕭条(しょうじょう)たる焼野原からは離れた赤坂で帝国議会が再開され、首相、陸海相、内相らが決意そして戦況報告などを演説した。
小磯首相は勇ましくもいい切った。
 「驕慢(きょうまん)なる敵を洋上に撃滅し、水際に叩き、陸上で殲滅する!」
 また焼けくすぶる焦土を眼の前にして、どこを押せば三段構えの殲滅戦の大言壮語が生まれるのであろうか。
 敵はそんな強がりを歯牙にもかけない。
2日後の12日に名古屋、14日大阪、17日神戸、18日北九州、20日ふたたび名古屋、28日北九州に艦載機、翌4月13日に東京・山手、15日は東京と無差別な絨毯爆撃がつづく。
それらの「悲惨」は略とする。
 ただ一ついえることは、この3月10日の空襲でわれら民草は大いに学ぶところがあったのである。
要はそれまでの防空演習などお遊びにすぎないということ、焼夷弾は消せないということ。
防空壕などというものは身を守るどころか、坐して蒸し焼きにされるところ。
川や運河に飛びこんで助かろうとしても、火焔は水面を走って顔面を焼き頭髪を燃え上がらせ、黒煙が蔽いかぶさり窒息させられるだけということ。
 そしてわたくしが得た教訓はただ一つ。
黒澤明監督『七人の侍』という名画のなかで、侍のひとりが百姓に戦い抜くための訓練をつけながらいっていた言葉、「いいか、戦さというものは走って走り抜くことだ。走っていれば生きられる。走れなくなったときは死ぬときだ」と。
まったく然り。
焼夷弾攻撃をうけたならばいち早く逃げて逃げて逃げ、火の及ばないところにゆくしか助かる道はない。
 4月、5月にも東京は大空襲をうけたが、死者は数千人程度であったように思う。
それは民草がお上のいうことより実体験のほうを最大の教訓としたからにほからないと、わたくしは不遜かもしれないが考えている。
 いずれにしても、じつに情けないことに、その悪魔の使者のごときルメイどのに、昭和39年12月にわが日本国は勲一等旭日大褒章を授与している。
これを知らされたときのわたくしの怒髪(どはつ)が天をついたのは、いかがであろうか、無理はないことと読者は思われぬか。
同時に、日本人の人の好さにホトホト愛想をつかした、いや感服したことも事実である。
(『B面昭和史 1926-1945』半藤一利 平凡社ライブラリー 2019年)

授与した時の首相は佐藤栄作です(安倍晋三は大甥)。
検索すると、このとき昭和天皇はどうなされたのかも知ることができます。
今朝の父の一枚です(^^)v
逆転人生「美智子、86才 ゴールデン街 伝説の“マリア”」
一緒に見ていた父が凄いなと唸っていました!
お店の壁一面に貼られていた顔写真の中に「秋田明大」の名前があった。
佐々木美智子さんは、日大の学生の中に入って取材をしていたのだなぁ…
テレビの中にも映っていたけど、
顔写真を写していたカメラは、「写ルンです
昔、お世話になったけど、まだ現役なんだp(^^)q

新宿ゴールデン街のママが写した「顔」と「時代」と 写真家・佐々木美智子さんの流転の人生〟(好書好日)