今朝は、青空が見えましたが、天気が変わりやすかったです。
雨が降ると困るので短いレンズ(MF50㎜マクロ)で撮影することにしました。
帰ろうと出口に向かっているときに雨が降り出した。
昨日も書いたけど、子どもたちは外で遊んだほうがいいと思う。
学校を再開できない場合は、せめて運動場を開放したらいいと思う。
子どもの数が多い学校では、午前中は、1年生~4年生
午後は、5年生~6年生とに分けて開放するなり工夫したらどうかな?
「臨時休校続く中…学校を再開する動きも 新型コロナウイルス」(NHK)
3月16日
婦人民主クラブの創立大会がひらかれた。 1946(昭和21)年
東京神田の共立(きょうりつ)講堂で「民主婦人大会」がひらかれた。
発起人は宮本百合子(ゆりこ)・松岡洋子(ようこ)・羽仁説子(はにせつこ)など23人で、朝日新聞社が後援した。
そして
(一)婦人がふたたび戦争協力のあやまちをおかさないようにする、
(二)職場や家庭の民主化のために幅広い婦人の組織をつくることをよびかけた。
この日の参加者のなかからだけでも二百名が入会して、「婦人民主クラブ」が発足した。
その後、職場や地域に支部がつくられ、子どもの教育を守る運動や平和運動にとりくみ、戦後の婦人運動の中核となって活発な運動をつづけた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
新型コロナウイルスで一番怖いのは、イタリアのおばあちゃんが教えてくれた
「コロナは去るが、差別は残る」ことだと思う。
イタリアで29歳からの13年をイタリアで生活された須賀敦子さんの言葉を転記したいと思いますφ(..)
「聖心(みこころ)の使徒」(日本祈禱の使徒会)1967年12月号に掲載された
「諸民族間の兄弟的愛」は、50年以上も前に書かれた文章です。
須賀敦子さんの言葉が届いていないというより
ひどくなってると思う本が書店で並び。
心ない言葉がSNSで目につきます。
諸民族間の兄弟的愛
アメリカがベトナムで戦争をしている。
多くのアメリカ人は、それを、アジアを共産主義から守るための聖戦と考えているらしい。
西ドイツでは、ネオ・ナチズムが頭をもたげていて、ユダヤ人排斥の風潮が、またまた世論にあらわれているという。
そのユダヤ人排斥は、聖書のむかしからの伝統(といより、これこそは、仏教でいう、業<ごう>とでもいいたいようなものだが)にしたがって、ひろく、アラブ諸国に根をはり、最近の、中東紛争をひきおこした。
コンゴなど、アフリカの新興諸国でも、国境問題、その他で、平和は、つねにおびやかされている。
第一、れっきとした独立国の、しかも世界人口の五分の一を擁する大国の中共が、世界の平和を目標として組織された国連にいまだ参加していない。
その中共は、ソビエトとの不和にはじまり、かれらのいう文化大革命以来、世界の輿論から、日一日と孤立の道を歩んでいるようである。
国内の政治的葛藤も絶えないらしい。
以上のいずれをとっても、諸民族、諸国民の間の兄弟的愛が、今日世界に浸透しているとは、どうしても思えない。
だが、諸民族、諸国民というのは、具体的にいって、一体、だれなのであるか。
(『須賀敦子全集 第8巻』河出書房新社 2007年)
「だれ」に脇点「、、」(以下同じ)
ある日本の小都市の幼稚園でこんなことがあった。
ひとりのこどもが家にかえってきて、こう言った。
「ママ、みっちゃんのおかあさんは、ちょうせんじんなんですって」。
わかい母親は、なによりも前にこう考えた、「まあ、失礼な。そんなことが、ほかのこどもに知れたら大変だ」と。
「だれにそんなことをきいたの」と。
母親は、真顔で子供にたずねた。
「まあちゃんのおかあさんよ」。
そこで、その母親は、大いそぎで、まあちゃんのおかあさんに電話をかけて言った。
「みっちゃんのおかあさんが、朝鮮人なんていううわさがたったら大変です。どうぞ、これからは、そんなことをだれにもおっしゃらないでね」
この話を、読者は、どのように読まれるだろうか。
たしかに、どこかがへんなのである。
それに気づかれただろうか。
みっちゃんのおかあさんが朝鮮人だといううわさが、どうして、いけないのか、どうして、そのような事実が知れたら大変なのか。
あの苦しい太平洋戦争をたたかって、せめて私たちの得た、貴重な自覚、すなわち、世界の国民、民族が、すべて平等に、平和と幸福への権利をもっているという自覚を、たった二十年やそこいらで、私たちは、もう、忘れさろうとしているのだろうか。
「あら、そう。朝鮮人なの。いいわね」と、その母親が、すなおに言えない何かが、まだ私たちの国にあるのだろうか。
日本は島国である。
日本人そのものは、はっきりした始原もわからぬうえに、他の土地からこの島々に漂着した民族と原住民族、それから、朝鮮、中国等、隣接した国々との盛んな交流にしたがって、かぎりなく血のまざった国民なのである。
それが、鎖国以来なのであろうか、西欧人はもとより、もっとも近い国の人びとをも、白眼視とまではゆかなくとも、なにを差別して、自分たちはちがうものとしてみるくせがついてしまった。
明治以来の植民地主義が、この傾向を悪化させたことは、いうまでもない。
たまらなく恥ずかしいことである。
そして不幸にも、この傾向は、島国である日本だけでなく、ヨーロッパのように、私たちからみると、ほとんど同一といいたくなるような文化圏の人びとの間にさえみられるのである。
アジア人がヨーロッパ人(アメリカ人をも含む)を、根本から信用していないように、ヨーロッパ人も、単に、かれらおたがいの国民と国民の間で信用していないばかりでなく、アジア、アフリカ人を心から信用していないことは、やはり否めない。
そしてそのアジア人、ヨーロッパ人、アフリカ人たちでさえ、おたがいの民族の種族中でいがみあいっているのがかなしい現状である。
これではならないとおもう。
しかし、諸民族とか、世界ということばを、自分たちの日常の具体的なことばになおして考えてみないかぎり、この問題は、いつまでたっても、私たちにとって関係のうすい、抽象的な存在であることをやめない。
1965年10月、パウロ六世が国連の総会においてされた演説の中に、次のような一節がある。
「……謙虚さをおいて、兄弟愛をそだてることは不可能である。一見、不可避とおもわれる、(民族的、国民的な)プライドこそ、国々のあいだの緊張を生み、われこそは他に先んじようとする意識、他を支配しようとする意欲を生むものなのである。傲慢、これこそは、エゴイズムのもとであり、ひいては植民地主義の根源なのである。兄弟愛をうちこわすもの、それは、傲慢において他ならない」
教皇も言っておられる。
この民族的、国民的なプライドは、一見不可避である、と。
と言って、手をつかねて、絶望に身をゆだねるのは、キリストを神の子と信じる私たちにゆるされることではない。
キリストを神の子と信じることは、託身の秘儀を信じることなのであり、託身を信ずることは、人間性が神のいのちにあずかるものでると信ずることなのである。
すなわち、人を信じないこと、他国民の、善への可能性を信じないことは、キリストの御託身をいわば、傷つけることなのである。
だから言おう。
私たち、キリスト者は、キリスト者としての召命そのものにおいて、人と人との、また国や民族間の愛をつちかうことに努力するべく召されているのである。
あらゆる機会をうしなってはならないとおもう。
まず、私たちの周囲にはんらんしている、ことばから気をつけて行ってはどうだろうか。
毎日つかっていることばが、案外、私たちの、人にたいする、ひいては、他国の人たち、他民族のひとたちを、直接的・間接的に、軽蔑し、傷つけることになるのではないかとおもう。
毛唐などといわないようにしよう。
ニグロ、とあるニュアンスをもって、発音しないようにしよう。
第三国人と言ったとき、また、ユダヤ人と言ったとき、私たちの心のどこかで、それらの国に、民族に属していないことを、ひそかによろこんでいるのではないか。
もちろん、いじのわるいよろこびという意味で、である。
危険なことばが他にもある。
たとえば、――この言葉は、もう日本人にはふたたび用のないものと思いたいのだが――聖戦ということばである。
「正義のための戦争」ということばである。
核戦争の時代となったいま、この言葉が、どんないいわけの余地もなく、反キリスト教的なことばであることは、あまりにも明らかである。
正義のためなら人を殺してもよいということは、私たちを、正義の側にあるものと、まことに僭越な判断を下したうえでの考え方であり、「神のみが正義にてまします」という事実から、はっきりと顔をそむけた思想にほかならない。
人をさばいてはいけなのである。
人をさばくことは、自分の神の座におくという、かぎりなくおそろしい冒瀆行為なのである。
国民を、民族を、抽象的な存在として考えるのを避けるようにしよう(抽象化は、託身の秘儀を生活の要<かなめ>とするわれわれキリスト教徒にとっては、常に、危険な行為である)。
その国家に属する、その民族に属するひとりひとりを、自分の兄弟姉妹にあてはめて、家族にあてはめて考えてみよう。
道ばたで遊んでいる、電車の中で、あまえている子供たちを見たら、その子たちとおなじような子供たちが、ある国では、戦火にさらされ、ある国では、同じ年ごろの子供たちから仲間はずれにされ(これは遠い国の話ではない)、また、多くの国では、飢えにくるんしでいることを思いおこそう。
そこで、「ああ日本人にうまれてよかった」と言い、安心してしまっては、教皇の言われるエゴイズムの擒(とりこ)たること、はなはだしいのである。
「世界ぜんたいが幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」という、宮沢賢治のことばこそは、キリストの神秘体たる世界を信じる私たちの、いくら黙想しても足りぬ事実なのである。
「個人の革命なくしては、社会革命はあり得ない」と言う、シャルル・ペギイの言葉も、朝な夕な、考えてみなければならないと思う。
個人の革命とは、回心、すなわち、たえず神に眼をむけようとすることにほかならない。
子供たちに、若い人たちに、他民族を愛することをおしえよう。
いのちがけで、人を愛することをおしえよう。
その手はじめとして、人を理解すること、忍耐をもって理解することをまなぼう。
理解せずに愛することはむずかしいからである。
理解ということばは、よくあたっていないかもしれない。
わかるということばのほうがよいように思える。
というのは、わかるということは、理屈だけでなく、心と共になされる行為だからである。
理解できないことは、神の善にてましますのを信ずることによって、うめあわそう。
自分たちとちがった肌のいろ・からだつき・言語・風習・宗教をもつがゆえに、人を、尊敬したり、けいべつしたりするのを、できるだけさけよう。
カトリックでないからといって、人を差別して考えてはいないだろうか。
カトリック国だからといって、どこかの国を理想視してはいないだろうか。
人類すべてが、キリストにおける兄弟だというのは、単なる美しい標語などではない。
託身において、それは、私たちが、日々、生きなければならない、現実となったのである。
日本万歳主義は今日からすてよう(これは、もちろん、自分の国を愛さないということではない)、世界の人を愛せるように、今日から、自分の周囲にいる人をわかり、愛することを、きずつけぬことをおぼえよう。
(『須賀敦子全集 第8巻』河出書房新社 2007年)
今朝の父の一枚です(^^)v
シジュウカラが何羽も騒いでいたそうです。
下を見ると猫がいることに気がつきました。
というのは、昨夜の番組でシジュウカラのことを興味深く見ていたからです(^_-)
ダーウィンがが来た!第635回「都会に進出!森の小鳥シジュウカラ」