出かけようと外に出ると、天気予報では曇りでしたが
さっきまで雨が降っていたような雰囲気。
歩いている時は、曇り空で寒さを感じたほどでしたが
日ざしが出ると気温が上がり一枚脱ぎました(^-^;
途中で顔見知りの方にお会いして、お話を伺うと
昨日、山田池公園でレンジャクに出会って、1000枚も写したそうです。
撮影したのはいいのだけど編集がまだ終わっていないと話されていた。
野鳥の撮影には、連写がいいのですが
私は、野鳥専門ではないし、撮影枚数が多くなり、後の編集が大変なのでシングル撮影です。
その方が、野鳥を撮影する人が使った中古カメラは避けた方がいいよと教えてくれました。
連写機能を使っているのでカメラがかなり傷んでいると話していました。
でも、カメラを売る人はそんなこと言いませんよね(^_-)
3月1日
朝鮮で日本の支配に反対して独立運動がおこった。 1919(大正8)年
ソウルのパゴダ公園は人々で埋めつくされていた。
一人の青年が壇上にかけのぼり、興奮した口調で一枚の紙を読んだ。
「われわれはここにわが朝鮮国が独立国であること、朝鮮人が自由民であることを宣言する。」
これに呼応して「独立万歳」の歓声がわきあがった。
これをきっかけに、日本の植民地支配に抵抗する運動は朝鮮全土に広まり、参加者総数は200万にも及んだが、軍隊・警察の力で、むざんに弾圧された。
水原(スウオン)では、日本軍が村のキリスト教徒ら数十人を教会堂に集め、窓や戸を閉めて中にとじこめ、堂内に一斉に射撃を加えた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
韓国では、独立運動の記念式典が行われました。
「韓国大統領 日本に『共に危機を克服しよう』と呼びかけ」(NHK)
欲望の時代の哲学ガブリエルNYドキュメント 第一夜「欲望の奴隷からの脱出」の中で
ガブリエル氏は「SNSは民主主義を損なう」と語っていました。
嫌韓などの本が書店に並び、SNSで発信されています。
過去に向き合わないで、本当の未来志向はないと思います。
『物語 韓国史』より「Ⅷ 日本帝国主義下の朝鮮、そして独立」を転記したいと思いますφ(..)
著者は金両基(キム・ヤンギ)さんなので在日側からの視点の本です。
違う立場のもののみ方を学ぶことが大切だと思っています。
Ⅷ 日本帝国主義下の朝鮮、そして独立
1 韓日併合と日本の朝鮮支配
1910年8月22日、日本の統監寺内正毅(てらうちまさたけ)と大韓帝国内閣総理大臣李完用(イワニョン)の二人は、韓日併合条約に調印する。
同29日にこれを公布し、この日をもって大韓帝国は滅ぶ。
条約文の冒頭には毒牙を含ませた仮飾の文が並んでいる。
(『物語 韓国史』金両基(キム・ヤンギ) 中公新書 1989年)
日本帝国皇帝陛下及韓国皇帝陛下ハ両国間ノ特殊ニシテ親密ナル関係ヲ顧(おも)ヒ相互ノ幸福ヲ増進シ東洋ノ平和ヲ永久ニ確保セムコトヲ欲シ此ノ目的ヲ達セムカ為ニハ韓国ヲ日本帝国ニ併合スルニ如(し)カサルコトヲ確信シ茲(ここ)ニ両国間ニ併合条約ヲ締結スル……(以下略)
(「相互ノ幸福ヲ増進シ東洋ノ平和ヲ永久ニ確保」に脇点「、、、、」)
おたがいの幸福を増進して東洋の平和を永久に確保するために併合する、という大日本帝国の奸計を見抜けず、李完用は売国奴としてその名を永久に記録されることになった。
この条約文を掲載した『朝鮮総督府官報』第1号(1910年8月29日発行)の、この条文の直後の勅令の項に「朕韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム」とある。
韓国(正式呼称は大韓帝国)または韓国人、韓国語という単語は、その日から天皇の名において朝鮮〔人・語〕にかえられ、それは劣等民の呼称におきかえられていった。
「官報.1910年8月29日」(国立国会図書館)
三・一独立運動の展開
1919年3月1日、韓日併合を植民地化におきかえてゆく大日本帝国に対して、愛国人士が各地で決起した。
ソウルの塔洞(タブドン)公園には四、五千人の学生たちが集まり、鄭在鎔(ジウォンジェヨン)が独立宣言文を読みあげると、学生たちは学帽をいっせいに空中に投げ、太極旗を高くかかげ、「万歳(マンセ)」を連呼しつづけた。
死をもおそれぬ義挙が各地でつづき、それは3月3~4日に最高潮に達した。
少女の柳寛順(ユクヮンスン)は日本の警官や憲兵の銃剣の前にたってもひるまず、後に韓国のジャンヌ・ダルクと称えられた。
彼女は水原(スウォン)の警察でひどい拷問にあいながら、「独立万歳」を叫びつづけ、殺されていった。
この決起を三・一独立運動という。
(画像省略)
3・1独立運動と柳寛順のレリーフ(ソウル市パコダ公園)。
柳寛順は「朝鮮のジャンヌ・ダルク」として慕われている。
・「3・1運動100周年、主人公は女性独立運動家」(GLOBE+ 2019.03.16)
三・一独立運動は、第一次世界大戦後の1918年1月、アメリカのウィルソン大統領が提唱した「民族自決主義」が起爆剤となった。
それを聞いた海外で独立運動を展開していた政治家や愛国人士たちは、それぞれの地で活発な動きをはじめた。
上海では呂運亨(ロウニョオン)や金奎植(キムキョシク)らが、アメリカでは安昌浩(アンチァンホ)や李承晩(イスンマン)らが、韓国の独立を世界に訴え、そして中国東北地方では金日成(キムイルソウォン)たちの抗日運動が展開していた。
そして1919年の1月、韓日併合に反対しつづけた大韓帝国の皇帝高宗(コジオン)が亡くなり、それが大日本帝国に毒殺されたという噂として広まった。
噂は瞬く間に全国に広まり、東京の留学生たちにも伝わった。
李光洙(イクヮンジゥ)が起草した「独立宣言文」が印刷され、2月8日、東京神田の朝鮮基督教青年会館(YMCA)で朗読された。
そこに参加した学生たちは全員逮捕されたが、その逮捕は東京の韓国人留学生の全員をソウルでの三・一独立運動に参加させるきっかけになった。
このように、3月1日に向って、義挙の気運が盛りあがっていったのである。
三・一独立運動を武力で鎮圧した大日本帝国は、それまでの武断統治政策を改め、文治政策に切りかえていった。
1920年4月1日、韓国語の新聞『東亜日報』が刊行される。
文治政策によって刊行が許されたのである。
『東亜日報』は各地の愛国人士がもちよった七十余万円の資金をもって発足し、初代社長に朴泳孝(バクヨォンヒョ)、株主代表に金性洙(キムソウォンジゥ)が選出された。
『東亜日報』はその後、民族主義の灯として、砦として、停休刊を命じられながら、1945年8月15日を迎えた。
1925年、京城帝国大学が開校。
学生は内地人(日本人)を優先し、韓国人の入学定員は全体の三分の一ほどに制限され、教官は全員日本人であった。
同じ時期に、ソウルの南山に朝鮮神宮が建てられ、皇祖神のアマテラスオホミカミと目地天皇を祭神として祀り、皇国臣民化の聖地となていった。
大日本帝国の巧妙な文治政策は、このような形で敗戦までつづいて。
(『物語 韓国史』金両基(キム・ヤンギ) 中公新書 1989年)
「2 韓半島の独立」は省略。
「韓日比較文化論を展開 多文化共生社会を目指す 金両基さん」(東洋経済日報 2008年8月29日)
「誠信交隣と徳川家康の平和外交 金両基さん」(静岡商工会議所 広報室 2016年3月31日)
スポーツ新聞は、野球の記事などスポーツ記事ばかりと決めつけてはいけないなと反省しました。
「満持しての安倍首相会見、疑問や不安に響かぬ精神論」(日刊スポーツ 2月29日)
この記事を書いたのは中山知子さん。
東京新聞記者の望月衣塑子さんといい女性記者が頑張っているなp(^^)q
男性記者は、首相と会食して仲よくしているし、
記者会などでは、馴れ合いの会見をしているような気がします。
「東京新聞・望月記者を恐れる官邸 いま政治取材の現場で起きている『異常事態』とは」(AERAdot. 2019年7月3日)
今日も薬局では、マスクやトイレットペーパーの棚は空っぽです。
前から書いていますが、マスクでウイルスは防げません。
そういう私が、何故、マスクをするか。
自分が感染していた場合、ウイルスの飛散を少なくすることができると思っています。
今朝、気温が低かったので吐く息が見えました。
そのように普段の呼吸でも吐く息は周囲に広がっています。
ですから、仁和寺で配られた
「薬師如来を表す文字が記された紙製のマスク」もいいと思います(^^)v
「仁和寺で紙製マスク配布」(NHK関西)