2020年3月28日土曜日

自粛中で…

急に雨が降るかもしれないので50㎜レンズで撮影しました。
↑は、携帯です(^_-)-☆
大阪は外出自粛中なのですが…
大阪で最多感染「外出自粛を」〟(関西 NHK)
花びらを見ると風で飛ばされた時に刺さったのかな?
このようになる確率はどれくらいだろうなぁ?
感染するリスクよりもかなり低いと思う。
現在の行動範囲の中で感染するリスクが高いのは買い物が一番高い。
そう考えると、スーパーなどで働く人に
メルケル首相が感謝の言葉を伝えたのは、素晴らしいことだと思う。
また、その中に

私は、この機会にまず、医師としてまたは介護サービスやその他の機能でわが国の病院を始めとする医療施設で働いている方すべてに言葉を贈りたいと思います。
あなた方は私たちのためにこの戦いの最前線に立っています。
あなた方は最初に病人を、そして、感染の経過が場合によってどれだけ重篤なものかを目の当たりにしています。
そして毎日改めて仕事に向かい、人のために尽くしています。
あなた方の仕事は偉大です。
そのことに私は心から感謝します。

コロナウイルス対策についてのメルケル独首相の演説全文」(林美佳子さんの試訳)

一方、日本では、感染した医師や看護師、老人ホームなどへの非難の言葉が飛び交っている。

大阪の知事が自粛を要請したけど、公園では顔なじみの方に出会った。
みなさんは、広い所で人混みを避けて歩いていると話しておられた。
大阪の知事は自粛の内容が分かりづらい。
一方、埼玉県の大野知事は、
生活必需品の買い物や散歩、子どもの公園での遊びなどは自粛の対象ではない
と話しておられる。
もし、外出禁止になると愛犬家の方は困るだろうなぁ…
大野知事「今週末の外出自粛を」〟(埼玉 NHK 3月26日)
朝日新聞に連載されている鷲田清一さんの「折々のことば」に、

その気持(きもち)はありがたいがね、あたしの帳面も消させてくださいよ」 (蜷川虎三)

 戦後28年間、革新府政を担った元京都府知事は、反骨の人でもあった。
公舎には入らず借家住まい。
慰問などすぐ人のために散財するので懐はいつも寒い。
退職金はさすがに高額だったが、それも昔の選挙で資金援助してくれた人に返して回った。
「喜んで出させてもろうた金どすがな」と固辞されてもこう返した。
蜷川虎三伝記編纂(へんさん)委員会編・吉村康著『蜷川虎三の生涯』から。
(2020.03.28)

懐かしいなぁ…
鷲田清一さんが蜷川さんの言葉を引用されたのは、
日本の政治屋が国民へ目を向けるのでなく、利権などに走っているからだと思う。

第34代~第40代 蜷川虎三(にながわとらぞう)」(歴代の京都府知事)
今朝の「天声人語」

捕虜収容所100年

(略)
▼「ドイツで有名になったのは、収容所長だった松江豊寿(とよひさ)の功績です」と森清治(きよはる)・市ドイツ館長(53)。
収容所跡に近い記念施設だ。
軍人である松江所長は「ドイツ兵も自国のために戦ったのだから」と部下に説き、捕虜たちを厚遇した。
▼捕虜たちにスポーツや音楽活動を認め、ベートベン「第九」のアジア初演もこの地で実現させた。
当時、世界中で猛威をふるったスペイン風邪が所内に及ぶと、牛乳やスープ、体温計などを捕虜に与え、消毒にも努めた。
▼陸軍の上層部から「捕虜に甘すぎる」と批判もされたが、方針を変えない。
父が会津藩士で、戊辰戦争では薩長率いる官軍に敗れ、暮らしは困窮。
自身も陸軍内で冷遇された。
「敗者を辱(はずかし)めてならぬという信念を持っていました」と森館長は話す。
(以下省略)
(「天声人語」朝日新聞 2020.03.28)

鳴門市ドイツ館
韓国 空港に「開放型」の新型コロナウイルスの検査場〟(NHK)
韓国は、MERSでの失敗の経験を生かしていると思います。
一方、日本では、かなりいい加減のような…
 「MERSとは(4)―SARSと韓国におけるMERS流行の経験から考えるべきこと」(倉田毅 Medical Note)
感染者が増えると軽症の人は、自宅待機するようになりますが、
感染者や家族の者が買い物に行くことができなくなる。
その時に、韓国ではこんな援助があると
ヤン ヨンヒ 양영희さんが教えてくれました。

韓国で自宅隔離中の方の家に保健所から届いた「生活必需品BOX」。
レンジご飯、参鶏湯、カルビスープ、アワビ粥、お菓子、漬物、キムチ、ワカメスープ、飲み物etc...
前日には体温計、マスク、消毒剤、ゴミ袋が届いたそう。
受け取ったご本人も驚きの様子。
愛を感じます♡


和牛券などしか頭に浮かばない何処かの国の政治屋とは雲泥の差。
平家物語』より「壇の浦合戦」の続きを転記しますφ(..)

 この日、平家は、全軍を三手に分けた。
先ず山賀兵藤次(やまがのひょうどうじ)秀遠が五百余艘で先陣、二陣は松浦(まつうら)党の三百余艘、殿(しんがり)に平家の公達、二百余艘が続いた。
(『現代語訳 平家物語(下)』尾崎士郎 岩波現代文庫 2015年)
 山賀兵藤次秀遠は、九州一の強弓といわれる勇士だったが、先陣を承まわると、五百余人の精鋭をつのり、舟の艫舳(ともへ)に立たせて、五百の矢を一度に源氏に向って射かけさせた。
真っ先に進んだ義経も、この一斉攻撃に、楯や鎧にも矢が当り、射すくめられて、さすがにすこしひるんでいた。
この様子に、平家方は攻鼓(せめつづみ)をたたいて、味方の勝ちじゃと喜びの鬨(とき)をあげた。
 源氏方の和田小太郎義盛は、船には乗らずに汀のあたりで、馬上から戦の情況を眺めていたが、やおら、馬を海へ乗り入れると、次から次へと息つく暇もなく、矢を射かけた。
三町のうちにあった平家の兵は、ことごとく義盛の矢に倒れた。
 とりわけ、一きわ遠くまで飛んだ矢に向って、義盛は大声で叫んだ。
 「平家の方々、その矢をお返し下されい」 
 新中納言知盛が、この矢を手に取ってみると、白の矢竹は、鶴の本白(もとじろ)羽と鴻(こう)の羽とを合わせてはいだ矢で、長さは十三束三伏(じゅうさんぞくみつぶせ)、沓巻(くつまき)から一束(いっそく)ほど置いたところに、和田小太郎平義盛と漆で書いてあるのだ。
平家にも豪勇を以て鳴る勇士は多かったが、遠矢を射る者は少なかったと見えて、暫く音沙汰なかったが、伊予国の住人で、仁井紀四郎親清(にいのきしろうちかきよ)という者が名乗り出て、弓をひきしぼると、たちまち三町を抜いて、義盛の後方に控えていた三浦勢の石左近太郎(いしさこんのたろう)の左手に突き刺さったのであった。
三浦の人々は、
 「何とまあ、体裁の悪い。自分一人が精兵だと思って、とんだ赤恥じゃ」
 と囁き交わした。
 腹が立って仕方のない義盛は、小舟に乗って平家方の中に乗り入れ、散々射まくったのであった。 
 沖の方から、義経の乗船に、平家方から白矢がとんできて、義盛と同じように、
 「源氏の方々よ、矢をお返し下されい」
 と叫ぶ者があった。
その矢は山鳥の尾ではいだもので、十四束三伏あった。
漆で書きつけられた名を読むと、伊予国住人仁井紀四郎親清と書かれている。
 義経は、味方の者に尋ねた。
 「誰か、この矢を射返せる者はおらぬか?」
 「甲斐源氏の浅利(あさり)与一殿はその道の名人でございます」
 「よし、彼を呼べ」
 義経の命に応じて、直ぐさま与一が呼び出された。
 「沖から、この矢を射て参った。射返せと申しおるが、そなた、やれる自信はあるか」
 「ともかく、その矢を見せて頂きましょう」
 与一は、暫くその矢を調べていたが、
 「どうも、この矢では、私の方が強うござります。私の矢で射返してやりましょう」
 と、塗矢の黒ほろはいだ矢の、十五束はあるのを、九尺程の大弓に取って、満月の如く引しぼり、ひょうと射ると、矢は四町ばかりをはるかに越えて、大船の舳に立っていた仁井紀四郎の胸板に突きささったから、紀四郎は、どうと船底に倒れ落ちた。
その後は敵も味方もおめき合いながら、命のかぎり戦いつづけた。
戦の形勢は、どうやら、五分五分というところで、どちらにしても、すこしの隙も許されなかった。
 だが、何といっても平家方の強味は、主上が三種神器と共に加わっていられるということであった。
こればかりは、如何(いか)に強い源氏も、持つことのできぬ武器である。
そんなことが響いたのか、源氏の旗色は思わしくなく、どうなることかと思っていた矢先、空の彼方(かなた)から、白雲らしいものが、すうっと源氏の船に舞い下りてくると、それは一流れの白旗であった。
義経はこれを見ると、
 「これぞ、まさに八幡大菩薩がお下りなされたのじゃ、皆の者、喜べ、源氏に運が向いてくるぞ」
 といいながら、兜を脱ぎ、手水(ちょうず)うがいして、うやうやしく拝むのであった。
源氏の兵も義経の言葉に、勇気の、ひとりでにみなぎってくるのをおぼえながら、白旗を伏し拝んだ。
 又、いるかの大群が、平家の船に向って泳いで来るのを見て、陰陽師(おんようし)、安倍晴信は、
 「このいるかが後戻りすれば、源氏の敗け、又、直ぐに通り過ぎれば、平家の負けにござりましょう」
 といっている間に、いるかの群は平家の舟の下を通り過ぎた。
 「いよいよ、御運も尽きましたなあ」
 晴信も溜息(ためいき)をつくのであった。
(『現代語訳 平家物語(下)』尾崎士郎 岩波現代文庫 2015年)
今朝の父の一枚です(^^)v
このソメイヨシノは、かなり弱っているように見えたのですが、
満開になりましたp(^^)q