2020年4月1日水曜日

これからの雨と風で…

新年度が始まったけど…
入社式などが中止になったり、コロナ対策をしながら行われているようです。

暗い空で、雨が心配だったけど本降りになる前に少しでも歩こうとやってきました。
想像の動物「ヘテ」
 物事を正しく判断するといわれる伝説上の動物。
入口の方向を示す以外にも厄払いの意味を持っています。


今日は、エープリルフールなんですが、こんな記事が載っていました。

彼女はエープリルフールが嫌いだった…」(西日本新聞 2020.04.01))

そして、大好きな詩人まど・みちおさんの詩の中から「うそ
  う そ

はなしの かいてんは
いよいよ いいちょうしで
いよいよ スピードを あげ
せんぷうきのように
すきとおって くるのでした

みんなの 目には
もう むこうに
ぺろっと でている
まっかな したのほかには
なにも みえません

で そればかりを
おもしろがって
いっしんに ながめていました
(『まど・みちお少年詩集 つけもののおもし』小海永二編 ポプラ文庫 1979年)
2018年の台風21号で枝が折れたサクラ
30日に見た時は、ポツポツ咲き出したと思ったら…
まるで枝垂れ桜のように咲いてますp(^^)q

NHK関西特設サイト予防の方法・注意点」に「免疫力を下げない」という動画があり、
その中で
人混みを避けて軽い運動をしてよく眠れるようにすることもいいそうです
という解説が映しだされています。
睡眠不足は、免疫力を下げます。
2011年に入院していた時に、夜中にナースコールを鳴らす患者さんがいました。
その方は、昼間、よく眠っていました。
体を動かすことができないので昼夜の逆転がおきていたようです。
私は、歩く許可が主治医から出てから、病棟の廊下をウロウロしていました(*´▽`*)
ナースセンターの前を行ったり来たり(廊下の中央にあるので)。
ナースセンターでカルテなどを見ている主治医の先生と目が合ったりしていました。
そのおかげか一月ほど経って「入院もあきたでしょう?」と退院許可をたいだきました(^_-)
家でジーっとしていると睡眠の乱れや排便の乱れがおきると思います。
公園を1時間ほど歩くだけでも気分が違いますし、よく眠れます。

芥川龍之介の「捨児」の続きを転記しますφ(..)
「丁度今から五年以前、女の夫は浅草田原町(あさくさたわらまち)に米屋の店を開いていましたが、株に手を出したばっかりに、とうとう家産を蕩尽(とうじん)して、夜逃げ同様横浜へ落ちて行くことになりました。が、こうなると足手まといなのは、生まれたばかりの男の子です。しかも生憎(あいにく)女には乳がまるでなかったものですから、いよいよ東京を立ち退(の)こうという晩、夫婦は信行寺(しんぎょうじ)の門前へ、泣く泣くその赤子を捨てて行きました。
(『芥川龍之介全集 第五巻』編集者:伊藤整、吉田精一 角川書店 昭和43年)
「それからわずかの知るべを便りに、汽車にも乗らず横浜へ行くと、夫はある運送屋へ奉公し、女はある糸屋の下女になって、二年ばかり二人とも一生懸命に働いたそうです。そのうちに運が向いて来たのか、三年目の夏には運送屋の主人が、夫の正直に働くのを見こんで、そのころ漸く開け出した本牧辺(ほんもくへん)の表通りへ、小さな支店を出させてくれました。同時に女も奉公をやめて、夫と一しょになったことは元よりいうまでもありますまい。
「支店は相当に繁昌(はんじょう)しました。その上また年が変ると、今度も丈夫そうな男の子が、夫婦の間(あいだ)に生れました。もちろん悲惨な捨児の記憶は、この間も夫婦の心の底に、蟠(わだかま)っていたのに違いありません。ことに女は赤子の口へ乏(とぼ)しい乳を注(そそ)ぐたびに、必ず東京を立ち退いた晩がはっきりと思い出されたそうです。しかし店は忙しい。子供も日に増し大きくなる。銀行にも多少は預金ができた。――というような始末でしたらか、ともかくも夫婦は久しぶりに、幸福な家庭の生活を送ることだけはできたのです。
「が、そういう幸運が続いたのも、長い間のことじゃありません。やっと笑うこともあるようになったと思うと、二十七年の春匇々(そうそう)、夫はチブスに罹(かか)ったなり、一週間とは床(とこ)につかず、ころりと死んでしまいました。それだけならまだ女も、諦(あきら)めようがあったのでしょうが、どうしても思い切れないことには、折角(せっかく)生まれた子供までが、夫の百(ひゃく)か日(にち)も明けないうちに、突然疫痢(えきり)で歿(な)くなったことです。女はその当座昼も夜も気違いのように泣き続けました。いや、当座ばかりじゃありません。それ以来かれこれ半年ばかりは、ほとんど放心同様な月日さえ送らなければならなかったのです。
「その悲しみが薄らいだ時、まず女の心に浮んだのは、捨てた長男に会うことです。「もしあの子が達者だったら、どんなに苦しいことがあっても、手もとへ引き取って養育したい」――そう思うと矢も楯(たて)もたまらないような気がしたのでしょう。女はすぐさま汽車に乗って、懐かしい東京へ着くが早いか、懐かしい信行寺の門前にやって来ました。それがまた丁度十六日の説教日の午前だったのです。
「女は早速庫裡(くり)へ行って、誰かに子供の消息(しょうそく)を尋ねたいと思いました。しかし説教がすまないうちは、もちろん和尚にも会われますまい。そこで女はいら立たしいながらも、本堂一ぱいにつめかけた大勢の善男善女(ぜんなんぜんにょ)に交(まじ)って、日錚(にっそう)和尚の説教に上(うわ)の空の耳を貸していました。――というよりも実際は、その説教が終るのを待っていたのに過ぎないのです。
「ところが和尚はその日もまた、蓮華夫人(れんげふじん)が五百人の子とめぐり遇った話を引いて、親子の恩愛が尊(たっと)いことを親切に説いて聞かせました。蓮華夫人が五百の卵を生む。その卵が川に流されて、隣国の王に育てられる。卵から生まれた五百人の力士は、母とも知らない蓮華夫人の城を攻めに向って来る。蓮華夫人はそれを聞くと、城の上の楼(たかどの)に登って、「私(わたし)はお前たちの五百人の母だ。その証拠はここにある」と言う。そうして乳を出しながら、美しい手に絞(しぼ)って見せる。そうして乳を出しながら、高い楼上の夫人の胸から、五百人の力士の口へ一人も洩(も)れず注(そそ)がれる。――そういう天竺(てんじく)の寓意譚(ぐういたん)は、聞くともなく説教を聞いていた、この不幸な女の心に異常な感動を与えました。だからこそ女は説教がすむと、眼に涙をためたまま、廊下伝いに本堂から、すぐに庫裡(くり)へ急いで来たのです。
「委細を聞き終わった日錚(にっそう)和尚は、囲炉裡の側にいた勇之介を招いで、顔も知らない母親に五年ぶりの対面をさせました。女の言葉が嘘でないことは、自然と和尚にもわかったのでしょう。女が勇之介を抱き上げて、暫(しばら)く泣き声を堪(こら)えていた時には、豪放闊達(ごうほうかったつ)な和尚の眼にも、いつか微笑を伴った涙が、睫毛(まつげ)の下に輝いていました。
蓮華夫人 古代インドの仙女。提婆延の排泄物をなめた雌鹿から生れたが、容姿は非常に端麗で烏提延王の妃となった。彼女の踏む所いたるところにれんげが、生じたといい、蓮華夫人と称された。五百人の子とめぐりあった話は、雑宝蔵経巻第一の「蓮華夫人縁」にあるが、芥川は「今昔物語」巻五に翻案されてある「般沙羅王五百卯初知父母話」によったか。

力士 金剛力士の略。
(『芥川龍之介全集 第五巻』編集者:伊藤整、吉田精一 角川書店 昭和43年)
今朝の父の一枚です。
母が、このサクラの下を降りてくる写真があります。
帰る時に、これから降る雨と風で桜が散らなければいいなと話していました。