ほとんどの花が枯れているのに、ポツポツと咲いている。
花期は8月からなので気が早いのかな?
それとものんびり屋なのかな…
それにしてもビロードの服は、暑いだろうな(^_-)-☆
「今週 日に日に気温上がる見込み」(えりの気象日記 4月27日)
昨日も書いたのですが
〝岡村隆史さん「コロナと風俗嬢」発言、ニッポン放送謝罪〟(朝日新聞)
岡村隆史さんなど芸能人などが問題を起こすと、
ここぞとばかりに非難する人がいるけど
岡村さんよりもっとえげつない事を米軍に進言した人は、
今でも人気があるようで、最近、テレビなどへの露出度が増えています。
この人ほどコロコロ発言が変わる人はいないと思う。
彼をヨイショしていたサンケイ新聞でさえ「凍り付く」と表現し、
女性たちが抗議したのに彼は市長を止めなかった。
〝「もっと風俗活用を」と橋下氏 凍り付く沖縄の米軍司令官〟(産経新聞 2013年5月13日)
100分de名著「コッローディ『ピノッキオの冒険』」の最終回
第4回「帰郷」という冒険の中で、こんな解説がありました。
伊集院光 「うん、いつの世にも、どの国にも、こういううさんくさいのがおるわけですね。」
和田忠彦 「長々、とうとうと、しゃべってますけども全く中身は空っぽ、スッカラカンという状態ですね。」
だけでなく「言い間違い」をしている。
この会話、そのまま誰かにも当てはまります。
「見逃し配信」は5月4日(月) 午後10:49 まで
「妊婦向け布マスク 不良品3万枚に」(NHK)
食料品などは、少しでも不良品が見つかれば、全品回収されると思うけど、
目視で不良品だとわかるのだけ回収になるのかな?信じられない…
〝「奇跡の出会い」がイラストに 人気漫画家と感染症専門医〟(NHK)
Twitterに掲載されていた羽海野チカさんのイラストが
かわいいなと思っていたけど、こんな素敵な物語があったのですね(*´▽`*)
山本有三編著の『心に太陽を持て』より「キティの一生」を転記します(最終回)。
1832年、リヴァプールに、おそろしい勢いで、コレラが流行しました。
今日では、伝染病の出た家には、すぐ役所の人がきて、どしどし消毒をしたり、患者を病院に移したりしますが、これは百二十なん年も前のことですから、イギリスのような国でも、まだ衛生思想も、予防の施設も、至って不充分でした。
ですから、患者はふえるばかりで、毎日、おびただしい人が死んで行きました。
ことに、ごみごみした細民街では、死亡者がわけても多うございました。
(『心に太陽を持て』山本有三編著 新潮文庫 昭和56年)
こういう時には、患者の使ったふとんや衣類などは、焼きすてるのがいいのですけれども、貧しい家庭では、とてもそんなことはできません。
目の前に死亡者がどんどん出ているにもかかわらず、病人の使ったものだからといって、それを焼きすてるなどということは、この区域に住まっている人たちの経済がゆるさないのです。
彼らは、それをまた、せんたくして使わなければなりません。
こまったのは、そういうせんたく物の始末でした。
そこで、キティは、自分のうちの台どころとうら庭を、せんたく場に提供しました。
手のたりない家に患者が出ると、その家のせんたく物は、キティがひき受けて、洗ってやりました。
気味の悪い病菌のついたふとんや寝まきが、あとから、あとから、かつぎこまれてきます。
かの女はそれに熱湯をそそいで、ごしごし洗っていきました。
キティの仕事は、全くいのちがけです。
しかし、かの女は、貧しい人、なやんでいる人のために働くことが、自分のつとめだと考えていたので、おそれずに、せんたくを続けました。
今日から見ると、じつに危険至極なことですが、よく伝染しなかったものです。
キティの、このけなげな働きに感動して、やがて、かの女の手つだいをする人たちも出てきました。
また、寄付金を集めて、その金で、キティの住んでいる家の、地下室の物おきを、せんたく場に改造してくれる人も出てきました。
キティは、せんたく場で働きながらも、病人の出た家の子どものことが、気にかかってなりませんでした。
世話をする人がないために、ほうりっぱなしにされている子どものことを思うと、かわいそうでたまらないのです。
そこで、かの女は、自分のうちの寝室を開放して、そういう不幸な子どもを、二十四、五人も集め、食事の世話までしてやりました。
かの女の、このこころ意気に打たれて、いっしょに子どもの世話をさせてくれという婦人があらわれました。
この人は、集まった子どもたちに、祈りのことばや、賛美歌などを教えました。
近所の人たちは、これをキティの寝室学校とよびました。
市の役人たちは、この寝室学校のうわさを聞いて、なるほど、不幸な子どもたちを、そのままにしておいてはいけない、と考えるようになりました。
その結果、市設の託児所を作って、ふしあわせな子どもたちを、そこに収容するようにしました。
キティの寝室に集っていた子どもたちも、そのほうにひき取られて行きました。
しかし、コレラがおさまってからも、キティの家には、いつも不幸な子どもが、なんにんかいないことはありませんでした。
夫のトマスもキティと同じ考えを持っていたので、常に妻の仕事をたすけました。
ウィルキンソン夫妻は、ある時には、四十五人もの子どものめんどうをみたということです。
また、市では、キティのせんたく場から思いついて、市設のせんたく場と浴場とを建て、ウィルキンソン夫妻に、その管理を依頼しました。
キティは学問もない、貧しい、うら町のおかみさんに過ぎません。
しかし、かの女の気だて、かの女のおこないには、どんな人でも心を打たれないものはありませんでした。
1846年、リヴァプール市の婦人会は、その総会にキティを招待して、かの女の功労をたたえ、感謝のしるしとして、銀製の茶器を、ひとそろいおくりました。
キティ・ウィルキンソンは、一生、誠実に働きました。
そして、1860年、七十四歳で、やすらかに世を終わりました。
(『心に太陽を持て』山本有三編著 新潮文庫 昭和56年)
今朝の父の一枚です(^^)v
父は、なんじゃもんじゃの木(ヒトツバタゴ)の花が咲くのを楽しみにしていました。
母が元気なころは、ここでもコーヒータイムをしてました。
午後から歯科を受診しました。
歯周病予防(歯石除去)をしてもらったのですが、今までと違い、
歯科衛生士さんはガウンとフェイスシールドを装着して処置をしてくださった。
歯科に限らず、眼科、耳鼻咽喉科など患者と近接して治療などをしないといけないからリスクが高いですよね…
歯石除去の後、マウスピースの点検と補修をしてもらいました。