2020年4月8日水曜日

初夏の陽気…

朝方ひんやりしていたのに
歩き出すと初夏のような陽気でした(^-^;
水曜も寒暖差大きく 週末以降は低温に」(えりの気象日記 4月7日)
ナシの花を写していると年配の女性に声をかけられました。
「桜が綺麗に咲いているのに、見る人が少なくてかわいそう…」と
昨日、「緊急事態宣言」が出されて外出自粛となり
例年なら平日でも花見でにぎやかなのですが…
今朝のニュースを見ているとSNSでの心の相談に、
通勤途上で電車が満員になるとコロナに感染するのではという不安で震えたり、涙が出てくるという訴えが寄せられているそうです。
私も働いていた頃、満員電車で通勤していたので不安になる気持ちがわかります。
今の気持ちを代弁してくださっている方のTwitterを幾つか転記しますφ(..)
内田樹さんのTwitter

平常通り満員電車で通勤しているようでは感染爆発は阻止できないと思います。
「とにかく家から出ないで。休業補償はするから」以外に手立てはないです。
あと数日したら感染爆発に驚いてあわてて言い出すと思うけれど。
遅すぎます。どうして「先手」を打てないのか。

石田英敬さんのTwitter

日本の首相の演説などを「ポエム」と形容する評言に出くわすと詩の研究から出発した学者としては我慢がならない。
「ポエム」という語の誤用はぜひやめていただきたい。
日本語にはもっとふさわしい由緒ある表現があって、それは「ネゴト」である。

池田晴彦さんのTwitter

緊急事態宣言出したからには1番重要なのは、全く収入がなくなってしまう人への緊急の現金支給。
資格審査なんてしている暇は無いよ。餓死してしまう。
とにかく配って、収入が減ってない人からは、確定申告でも、年末調整でも、それ以外の方法でも(あればの話だが)後日回収したらいい。

若松英輔さんのTwitterには

私たちは今、「戦後最大の経済危機」に直面しているのではありません。
「いのちの危機」にさらされ、経済をはじめとした生活の基盤もまた、危機的状況にあるのです。
国は経済を、会社は業績を、学校は授業や研究ばかりを気にしているのかもしれませんが、「いのち」がなければすべて無意味なのです。


イタリアの大統領や首相のような国民の安全を願うメッセージはやはりなかった…
今日は、お釈迦様の誕生日(他の国では、別の日ですが(^_-)-☆)
医の民俗』より転記しますφ(..)
 四月八日は花まつりである。
この日はお釈迦様の誕生日だというので、全国各地のお寺では釈尊の降誕を祝って灌仏会が行われる。
広島県では寺詣りした人が甘茶で接待される。
眼病を患う人は、誕生仏の像に灌いだ甘茶をつけると眼病が治り、甘茶で墨をすり「卯月八日を吉日として神下げ虫を成敗するぞ」と虫の字を逆さに戸口に貼ると、子供の虫封じに効能があるとされている。
(『医の民俗 日本の民俗学シリーズ7』根岸謙之助 雄山閣出版 昭和63年)
ちなみに秩父の法性寺の花祭りは毎年5月の第2日曜日に行なわれるそうです。

信仰の里 秩父 花あふれる巡礼の道」(NHK みちしる)
』(勝木俊雄著)より「お花見の桜」を転記しますφ(..)
お花見の桜
 桜は日本の春を象徴する花である。
もちろん、春は他に様々な花が咲き、コブシやマンサクなど桜以外にも春の訪れを告げる花はある。
しかし、桜ほど広く日本全体で誰もが認める春の花は他にないだろう。
また、広い公園に植えられた多くの〝染井吉野(そめいよしの)〟の木の下で大勢の人々が敷物を広げ、飲食をしながら花を楽しむという典型的なお花見の様子は日本全国で見られる。
こうしたお花見は古くから変わらない伝統的な様式なのであろうか。
『桜』勝木俊雄 岩波新書 2015年)
 歴史に残らないほど古い昔から桜の花は観賞の対象になっていたと思われる。
桜はもともと北半球に広く分布する樹木であり、日本でも本州から九州にかけて、9種の桜が分布している。
なかでもヤマザクラは関東より西の丘陵地にごくふつうに見られ、身近な樹木のひとつであっただろう。
早春に花をつけるヤマザクラは里山に春を告げる樹木として、ふつうに観賞されていたと思われる。
現代でも見られる野生の桜を観賞する風習は、自然発生的な起源をもつと考えられる。
特別視された「桜」だから対象になっているのではなく、本質的には春に咲く花のひとつとして観賞されていたに過ぎない。
 こうした自然発生的な花の観賞とは別に、宮廷文化に由来する花見を考えてみよう。
日本の宮廷文化の多くは中国が起源であり、とくに奈良時代に導入された唐の文化は、日本の宮廷の年中行事に大きく影響している。
桜に関連する年中行事としては、上巳(じょうし)の節句がある。
中国の周の時代では上巳に水辺で禊(みそぎ)をおこなう風習があり、やがて三月三日に上巳の節句として禊とともに盃を水に流して宴をおこなうようになったとされる。
日本でも奈良時代に曲水(きょくすい)の宴が宮廷の行事としておこなわれていたと記録されている。
 そして、上巳の節句は形を変え、後世に女の子の成長を祈るひな祭り(桃の節句)として現在まで伝わっている。
上巳の節句は旧暦の三月三日、つまり新暦の四月上旬頃におこなわれるのでまさに桜の咲く時期である。
しかし、桃の節句という言葉が示すように、上巳の節句は桜ではなくモモという中国渡来の花と結びつけられている。
奈良時代の文化は明らかに中国に目が向けられており、桜は特別な存在ではなかったのである。
 ところが、平安時代になると状況が変化した。
894(寛平6)年に菅原道真の建議により遣唐使が停止されたことに象徴されるよう、平安時代は日本独自の国風文化が発展した。
この国風文化への変化の中で、仁明(にんみょう)天皇の代(833-850年)に御所の紫宸殿(ししんでん 南殿)の庭にある右近の橘と左近の梅のうち、中国産の梅が日本産の桜に代わったといわれている。
現在でも京都御所には左近の桜が植えられている。
平安時代に植えられた桜がそのまま生き残ったものではなく、枯れると新しく植え替えることを繰り返して現在に至っている。
現在の左近の桜は1998年に植え替えられたものであるが、春には優美な花をつけ、多くの観光客を集めており、まさに日本を代表する桜といえるだろう。
 なぜ梅が桜に代わったのか、その理由は明らかではないが、この時代にはじめて桜が日本文化の中で特別な存在になり、宮廷文化における花見の対象になったといえるだろう。
嵯峨(さが)天皇の代(809-823年)に、花宴として桜の花を用いて観賞しながら詩歌管弦(しいかかんげん)を楽しむ宴を催したことが記録されている。
宮廷や貴族の庭園という限定された空間であるが、飲食をしながら桜の花を楽しむ様式はこの時代に生れたと考えられる。
 室町時代以降、花見の様式は徐々に変化してくる。
足利将軍家の花の御所に象徴されるよう、平安時代から引き続き庭園に植栽した桜を観賞する様式ももちろん見られる。
しかし、室町時代になると庶民の文化が発展し、開かれた空間での大規模な花見がおこなわれるようになった。
そのもっとも有名な事例が豊臣秀吉によって1589(慶長3)年に催された醍醐(だいご)の花見であろう。
京都醍醐寺の裏の山麓でおこなわれた花宴は、近隣から多数の桜を移植し、千人以上を招待した大規模なものであった。
基本的に女房女中衆だけが招かれて誰でも参加できるものはなかったが、庭園という閉じた空間ではなく、里山の開かれた場所で大規模に花宴をおこなったことは現代の花見に通じる様式である。
 さらに江戸時代になると、江戸の上野寛永寺(かんえいじ)に吉野のヤマザクラを植え桜の名所を造成したことや、元禄期には桜の木の下で宴を広げていたことが記録され、徳川吉宗の時代(1716-1745年)に、隅田川の堤や飛鳥山、御殿山といった桜の名所が造成されている。
こうして、一般庶民が数多く集う花見が行われるようになり、現在の桜の花見に近い様式に変わっていった。
ただし、この時代の花見は桜の木の下で宴会をするより、花の周囲を見物する様式であったようである。
というのも、平安時代以降、こうした観賞は京都や江戸でふつに見られたヤマザクラが対象だった考えられるからである。
 江戸時代に作られたお花見の名所でも植栽された桜の多くはヤマザクラであり、平安時代から江戸時代までおよそ千年にわたってお花見の対象はヤマザクラであったといえるだろう。
ヤマザクラは大きく成長する樹木であるが、成長に時間がかかるので、お花見の対象として植えられた桜はあまり大きくなかったと思われる。
鎌倉時代になると伊豆原産のオオシマザクラも用いられるようになり、室町時代以降ではヤマザクラとオオシマザクラが交雑して生まれた八重咲きの桜も観賞対象として広まっていくが、あまり大きく育つものではない。
 明治時代になると、新たに現れた‘染井吉野’がその後の花見の様式をすっかり変えた。
‘染井吉野’は江戸時代の終わりに「吉野桜(よしのざくら)」として江戸の染井村から広まった栽培品種で、明治時代に爆発的に全国に広がり、今では北海道の南部から鹿児島まで日本全国に無数に植えられている。
こうして流行した理由はいくつかあるが、そのひとつに、理想とする花見に様式に都合が良かったことが考えられる。
江戸時代におこなわれるようになった庶民的な花見において、満開の花の木の下で飲食をすることは理想的な姿であった。
多くの花見客がこうした花見をおこなうためには、花つきがよい、木が早く大きく育つ、一斉に咲くなどの条件が必要である。
それまで花見の中心であったヤマザクラはこうした条件にあわず、遠くから眺めることに適している。
一方、‘染井吉野’はこれらを兼ね備えた特徴をもっており、庶民が理想とするお花見の桜であったからこそ、爆発的に広がったと考えられる。
そして、‘染井吉野’が広がることで、現代の我々がおこなっているお花見の様式も定着したといえるだろうか。
『桜』勝木俊雄 岩波新書 2015年)
今朝の父の一枚です(^^)v
この季節、父と母はこの桜の木の下を歩いていました。
この道に桜の花びらが散って花の道ができていました。