今年もだめかな?と見るとキリの花が咲いていた♪
毎年、蕾をたくさんつけるのだけど
冬、ヒヨドリに食べられてしまう(濡れ衣かな?)。
食べ残しがあったみたいです(*´▽`*)
浅瀬で背中を見せているコイ
去年は、コイヘルペスが発生しました。
コイヘルペスは感染したコイから水を介する接触により別のコイに感染していきます。
COVID-19 と同じく、コイヘルペスウイルス病に対する有効な治療法はありません。
鯉を池から救い出すしか方法がありません。
父が伯母の三回忌に参列したかった理由、
父の父親が亡くなったのは、小学校1年生の時でした。
伯母は小学校4年生でしたが、鹿児島に子守り奉公に行かなければならなくったのです。
そして、中学1年生の年齢で愛知県の紡績工場に働きに行きました。
生活が苦しくなり、伯母に一番、苦労をかけたと常々話していました。
父も弁当の時間になると、運動場で空腹をこらえながら過ごしたことなど、当時の苦労話をしてくれます。
昔、様々な理由で生活が苦しくなると、犠牲になる子どもが多かったです。
昔と書いたけど…
仁藤夢乃さんのTwitterに
中学1年生の女性が自分のお金をColaboへ寄付してくれました。
新聞で見つけて、同じ10代の女の子として関心を持ち調べたら、自民党視察団の問題や謝罪の仕方を知り、怒りを共にしてくれました。
「たくさんアンチコメントや批判があるかもしれませんが味方はたくさんいます」と。
ありがとう嬉しい。
今の政府の支援策では、COVID-19 による生活困窮者が相当増えると思います。
仁藤夢乃さんTwitterで
コロナで生活に困る人が増えたおかげで風俗に綺麗な女の子が増えるから楽しみというようなことを堂々と言えてしまう異常な社会。
昔、深夜放送でよくエロチックな話題を聞いたりしていたことがあるけど
「ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン」(1:47:00頃)
で話していたことは意味が違うようなと思った。
岡村さんは、昔、精神的な悩みを抱えていた時に
高倉健さんに助けてもらったことを同じ番組で語っていたのに…
「第8回 僕にとっては神様みたいな人。命の恩人です。」(2014.11.20)
一方、朝刊にあった記事
〝「新しい地図」が基金設立 コロナ対策に3千万円を拠出〟(朝日新聞)
著名人が、このような活動をされると医療者への感謝の輪が広がりますね。
「LOVE POCKET FUND」
こころの時代~宗教・人生~選「国境なき“針と糸”」(本放送2013年9月29日)
で、レシャード・カレッドさんが「医療人」という言葉を使っておられました。
5月3日(日) 午前6:00 まで「見逃し配信」があります。
これまでにも様々な院内感染が起きていました。
「“闘い”ではなく“共存”へ」で山中伸弥教授が
「このウイルスは、院内感染を私は完全に防ぐのは不可能だと思っています」
と仰っているように、新型コロナウイルスは、今までとは違った困難さがあります。
「新型コロナウイルス感染症の院内感染はなぜ起こるのか」
坂本史衣さんが
「患者さんの参加と協力は、特に次の6つの対策について間違いなく必要です」
と仰っている6つの対策が大事だと思います。
『心に太陽を持て』より「キティの一生」の続きを転記しますφ(..)
リヴァプールはイギリスの有名な港ですが、人口の多いことでも、また、有名な都会です。
そういう大都市であるだけに、貧しい人々もたくさんいました。
そういう人たちは、テニソン街というような、空気のわるい、ごみごみしたまちの、せまい、日のあたらない家でくらしていました。
ですから、キティのまわりにいる人たちは、たいていは、不幸な人たちばかりでした。
(『心に太陽を持て』山本有三編著 新潮文庫 昭和56年)
かの女の家の近くに、とりわけ、気の毒な家族がいました。
そこの主人は、子どもが三人もあるのに、おかみさんに先だたれ、自分もまた、死病にとりつかれているのでした。
キティは仕事のひまを見ては、この病人の看護と、子どもの世話をしてやりました。
そして、病人が死んでからは、残された子どもたちを、三人ともそっくり、自分のうちにひき取って、養いました。
自分がおさなかった時のことを思うと、かの女は、そうしないではいられなかったのです。
この子どもたちは、朝、目をさますと、キティのことを「おかあさん。」とよびました。
キティもまた、「はい。」と返事をしました。
世の中に、「おかあさん。」ということばより、もっといいことばがあるでしょうか。
こんなやさしい、いいことばがあるのに、キティは一生、このことばを使うことができませんでした。
かの女が「おかあさん。」ということばを知った時には、「はい。」と返事をしてくれるおかあさんは、もう、いなかったのです。
そういう悲しい思いをしているだけに、この三人のみなし子が、「おかあさん。」と言って、寄りそってくると、かの女はいじらしくっていじらしくってたまりませんでした。
そのころ、かの女は織り物の工場へかよっていました。
織った布につやをつける機械をまわすのが、かの女の仕事でした。
そうやってかせいだ金で、キティは三人の子どもたちといっしょにくらしていました。
(「つや」に傍点「、、」以下同じ)
かの女の生活はらくではありませんけれども、生活のためにおしつぶされるというようなことはありませんでした。
かの女はいつも元気に働いていました。
くったくのないかの女は、働きながら、よく歌を口ずさむことがありました。
その日も、かの女は自分のうちの台どころで、いつものように歌をうたいながら、せんたくをしていました。
子ども自分、ランカシアで覚えた歌をうたっていたのです。
すると、おもてを通りかかった人の足おとが、急にぴたっと、とまりました。
その人は立ちどまったまま動かないらしいので、キティは窓からひょいと顔をだしました。
目と目がかち合いました。
四つの目がひとりでに微笑をたたえました。
ふたりは、あまりの思いがけなさに、しばらくは、ことばも出ませんでした。
今は、両方とも、かなりの年になっていましたが、ふたりは子ども時分の友だちだったのです。
この人は、トマス・ウィルキンソンといって、やはりランカシア生まれの職工でした。
なんの気なしに往来を歩いていると、自分も子どものころ歌ったランカシアの歌が聞えてきたものですから、なつかしさのあまり、つい、立ちどまったわけです。
ふたりは子ども時代のことや、おたがいの不幸な身の上ばなしを語り合いました。
昔なじみだというだけでなく、ふたりは生活も、境遇も似かよっていましたから、よく話が合いました。
ランカシアの歌が橋わたしとなって、キティとトマスとは、だんだん近しくなりました。
やがてふたりは正式に結婚しました。
そこで、キティ・シーワードは、キティ・ウィルキンソンと姓を改めました。
トマスは気だてのやさしい人で、キティのうちにいる三人のみなし子を、よくかわいがりました。
三人の子どもは、おかあさんだけでなく、今度は、おとうさんを持つことができました。
トマスは、一週一ポンドたらずの賃銀しか取れませんでした。
全く、わずかな収入ですが、それでもキティの収入にくらべたら、たいした金でした。
しかし、それで気をゆるすようなことはなく、キティもこれまで通り働きました。
一家は久しぶりで明るくなりました。
…続く…
(『心に太陽を持て』山本有三編著 新潮文庫 昭和56年)
今朝の父の一枚です(^^)v
カラスがオオタカ?を攻撃していました。
父のコンデジは広角28mm~望遠112mmですので大きく写せません。
それでも、野鳥に出会うとチャレンジしていますp(^^)q
一方、私は木の葉がしげると虫や花などに被写体をかえています(^^ゞ