2020年3月31日火曜日

3月も終わりなんだけど…

曇り空で寒かったのに、途中で雨が降り出すと蒸し暑さを感じました。
傘をささないといけないほどに降り出したので帰りを急ぎました。

花びらの散った跡、マンサクの花を思い出した(*´▽`*)
昨日の記事で、イギリスやフランスでは、DVの被害の報告が増えているニュースを紹介しましたが、
日本でも対策が求められています。
「外出自粛でDVや虐待増加のおそれ」国に対策要望〟(NHK)

新型コロナウィルス対策状況下における DV・児童虐待防止に関する要望書」(NPO法人全国女性シェルターネット
3月31日
 教育基本法・学校教育法が公布施行された。 1947(昭和22)年
 敗戦後、民主的諸改革の一つとして教育制度の改革がすすめられた。
そして内閣直属の教育刷新委員会(委員長安倍能成<あべよししげ>)の審議をへて、この日教育基本法・学校教育法が公布施行された。
この法律は、これまでの軍国主義的な教育にたいする反省から、日本国憲法にもとづいて民主的平和的教育、国民の教育をうける権利――機会均等・男女共学をうたって、戦後の教育のあり方をはっきりと方向づけた。
 また、戦前の複雑な学校制度をあらため、六・三・三・四の新制度を定め、翌4月1日にはこの六・三制による新制中学が発足した。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
明日から4月、新年度の始まりで、学校再開はどうなるのかな?
例年なら入学式の時期、桜の下で記念撮影をする親子の姿を見るのだけど…
志村けんさんなど新型コロナウイルスに感染すると、家族でも見舞うことができなくなる。
母が、危篤になった時、父と妹と三人で母の手をなどをさすりながら声をかけ続けた。

ありのままの武漢、作家がつづる 日記をブログで公開 新型コロナ」(朝日新聞 3月19日)
の中に

2月2日 今日一番つらかったのは、霊柩(れいきゅう)車を大声で泣きながら追いかける女の子の姿だった。母親が亡くなったのに、見送ることもできない。遺骨がどこにいくのかも彼女には分からないのだ。

と記されていました。
朝日新聞の朝刊の記事に

志村さん兄「顔見られず別れ、つらい」 遺体にも会えず
 志村さんの兄の知之さん(73)は30日午後、「顔を見られずに別れなくてはならなくて、つらい」と声を詰まらせた。
志村さんが入院した後は面会できないままで、遺体にも会えていないという。
 厚生労働省はガイドラインで、新型コロナウイルスに感染した人の遺体について、「非透過性納体袋に収容、密封することが望ましい」とし、葬祭業者に対して、遺族等の意向にも配慮しつつ、「極力そのままで火葬するよう努めてください」としている。
私も感染したら急激に容態が悪くなると思う。
どんなに気をつけていてもインフルエンザなどに感染する。
そのように新型コロナウイルスもいつ感染するか分からない。
そんなときに父や妹、姪や友人たちと別れをすることなく旅立たなくてはならない。
一日も早く、従来のインフルエンザのようにワクチンや治療薬が見つかるといいなぁ…

芥川龍之介の「捨児」を数回に分けて転記したいと思いますφ(..)
  捨 児

「浅草(あさくさ)の永住町(ながすみちょう)に、信行寺(しんぎょうじ)という寺がありますが、――いえ、大きな寺じゃありません。ただ日朗上人(にちろうしょうにん)の御木像があるとかいう、相応に由緒のある寺だそうです。その寺の門前に、明治二十二年の秋、男の子が一人捨ててありました。それがまた生れ年はもちろん、名前を書いた紙もついていない。――何でも古い黄八丈(きはちじょう)の一つ身にくるんだまま、緒の切れた女の草履(ぞうり)を枕に、捨ててあったということです。
(『芥川龍之介全集 第五巻』編集者:伊藤整、吉田精一 角川書店 昭和43年)
「当時信行寺の住職は、田村日錚(たむらにっそう)という老人でしたが、丁度朝のお勤めをしていると、これもいい年をした門番が、捨児のあったことを知らせに来たそうです。すると仏前に向っていた和尚(おしょう)は、ほとんど門番の方も振り返らずに、「そうか。ではこちらへ抱(だ)いて来るがいい」と、さもこともなげに答えました。のみならず門番が、怖(こ)わ怖(ご)わその子を抱いて来ると、すぐに自分が受け取りながら、「おお、これは可愛い子だ。泣くな。泣くな。今日からおれが養ってやるわ」と、気軽そうにあやし始めるのです。――この時のことは後(のち)になっても、和尚贔屓(おしょうびいき)の門番が、樒(しきみ)や線香を売る片手間(かたでま)に、よく参詣人へ話しました。ご承知かも知れませんが、日錚和尚(にっそうおしょう)という人は、もと深川(ふかがわ)の左官だったのが、十九の年に足場から落ちて、一時正気(しょうき)を失った後(のち)、急に菩提心(ぼだいしん)を起したとかいう、でんぼう肌の畸人(きじん)だったのです。

(「でんぼう」に脇点「、、、、」。以下同じ)
「それから和尚はこの捨児に、勇之介(ゆうのすけ)という名をつけて、わが子のように育て始めました。が、何しろご維新以来、女気(おんなけ)のない寺ですから、育てるといったにしたところが、容易なことじゃありません。守(も)りをするのから牛乳の世話まで、和尚自身が看経(かんきん)の暇には、面倒をみるという始末なのです。何でも一度なぞは勇之介が、風か何かを引いていた時、折悪く河岸の西辰(にしたつ)という大檀家(おおだんか)の法事があったそうですが、日錚和尚は法衣(ころも)の胸に、熱の高い子供を抱いたまま、水晶の念珠(ねんじゅ)を片手にかけて、いつもの通り平然と、読経(どきょう)をすませたということでした。
「しかしその間(ま)もできることなら、生みの親に会わせてやりたいというのが、豪傑じみていても情(じょう)に脆(もろ)い日錚和尚の腹だったのでしょう。和尚は説教の座へ登ることがあると、――今でも行ってご覧になれば、信行寺(しんぎょうじ)の前の柱には「説教、毎月十六日」という、古い札(ふだ)が下(さが)っていますが、――時々和漢の故事を引いて、親子の恩愛を忘れぬことが、即ち仏恩をも報ずる所以(ゆえん)だ、懇(ねんごろ)に話して聞かせたそうです。が、説教日はたびたびめぐって来ても、誰一人進んで捨児の親だと名乗って出るものは見当りません。――いや勇之介が三歳の時、たった一遍、親だという白粉焼(おしろいや)けのした女が、尋ねて来たことがありました。しかしこれは捨児を種に、悪事でもたくらむ心算(つもり)だったのでしょう。よくよく問い質(ただ)してみると、疑わしいことばかりでしたらか、癇癪(かんぺき)の強い日錚和尚は、ほとんど腕力を振わんばかりに、さんざん毒舌を加えた揚句(あげく)、即座に追い払ってしまいました。
「すると明治二十七年の冬、世間は日清戦争の噂(うわさ)に湧(わ)き返っている時でしたが、やはり十六日の説教日に、和尚が庫裡(くり)から帰って来ると、品のいい三十四五の女が、しとやかに後(あと)を追って来ました。庫裡には釜をかけた囲炉裡(いろり)の側に、勇之介が蜜柑(みかん)を剝(む)いている。――その姿を一目見るが早いか、女は何の取付(とっつ)きもなく、和尚の前へ手をついて、震える声を抑えながら、「私(わたし)はこの子の母親でございますが」と、思い切ったように言ったそうです。これにはさすがの日錚和尚も、暫(しばら)くは呆気(あっけ)にとられたまま、挨拶の言葉さえ出ませんでした。が、女は和尚に頓着なく、じっと畳を見つめながら、ほとんど暗誦でもしているように――といって心の激動は、体じゅうに露(あら)われているのですが――今日(こんにち)までの養育の礼をいちいち叮嚀(ていねい)に述べ出すのです。
「それがやや暫く続いた後(のち)、和尚は朱骨(しゅぼね)の中啓(ちゅうけい)を挙げて、女の言葉を遮(さえぎ)りながら、まずこの子を捨てた訳を話して聞かすように促しました。すると女は相変ず畳へ眼を落したまま、こういう話を始めたそうです――
浅草の永住町 東京都台東区永住町。ここは寺院が多いが、日蓮宗系統と思われる信行寺というという名の寺はなかった。

日朗上人 (1243~1320)。鎌倉時代の僧。日蓮の六弟子の一人。下総に本土寺を開いた。

 香木の名。

看経 お経を読むこと。

河岸 隅田川河岸。特に浅草河岸をさすか。
(『芥川龍之介全集 第五巻』編集者:伊藤整、吉田精一 角川書店 昭和43年)
今朝の父の一枚です(^^)v
うまいぐあいに二羽の鳩といのちの塔(撤去予定)が重なっている(*´▽`*)