2020年4月15日水曜日

昨日は、寒かったのに…

早朝は気温が低く、公園を歩くころには汗が出そうなほど…
1日の気温差が大きい日が続くとか…

水曜朝はひんやり 日中は暖かく」(えりの気象日記 4月14日)
田んぼにゲンゲがいっぱい咲いていました。
以前、スタッフの方の話では、子どもたちに昔遊びをさせてあげたいと仰っていました。
でも、そういう楽しい集いはできないだろうな…
4月15日
 『古今和歌集』ができあがった。 905(延喜<えんぎ>5)年
 
  真菰(まこも)刈る淀(よど)のさは水雨ふれば
    常よりことにまさるわが恋

 これは『古今和歌集』に収められた紀貫之(きのつらゆき)の恋歌のひとつである。
 淀川の増水をわが恋心の高まりにたとえているが、ここには当時宮廷でもてはやされた才(ざえ)と遊びの心がよく表わされている。
『古今和歌集』は、905年、醍醐(だいご)天皇が紀友則(きのとものり)・紀貫之・凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)・壬生忠岑(みぶのただみね)に命じて、『万葉集』以後の秀歌を集成させたもので、この日撰進(せんしん)された。
優雅で技巧的な作風は「古今調」とよばれ、平安時代になって花開いた国風(こくふう)文化を代表するものである。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
加藤周一氏の『日本文学史序説<上>』より「『古今集』の美学」(「第二章 最初の転換期」)を数回に分けて転記しますφ(..)
なんとなく読んでいた『万葉集』、この本を読んで面白さを知りました。
(「第二章 最初の転換期」より)
 『古今集』の美学
 転換期としての九世紀の意味は、和歌の領域に、また和歌を通しての美意識の変遷に、もっとも鮮やかにあらわれている。
そこで何がおこったかは、『万葉集』と『古今集』とを比較することによって、容易に知ることができるだろう。
『万葉集』は、主として七世紀後半と八世紀前半の歌をあつめていた(その最終作品は759)。
『古今集』(905)は、主として九世紀の作を載せる。
(『日本文学史序説<上>』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)
 『万葉集』は勅撰集ではなかった。
九世紀の初に作られた三つの勅撰集は、漢詩を集めたもので、和歌を集めたものではない(『凌雲集』・『文華秀麗集』・『経国集』)。
その後100年、最初の勅撰和歌集、『古今集』があらわれたことは、その間に、公的な文学としての和歌の正統性が確立されたことを意味する。
 「公的な文学」の概念は、むろん、中国大陸から輸入された。
故に最初の勅撰集が、シナ語の詩文を対象として、日本語の抒情詩を排し、官吏採用試験がシナ語の詩文が知識層の教養の内容として、この時代以後に軽視されるようになったわけではない。
しかしこの時代は和歌を教養の正統な一部分として認め、それを従来の詩文につけ加えた。
その画期的な意味は、よく『古今集』の「序」(紀淑望のシナ語本文、紀貫之の日本語本文)に反映している。
「序」は、大陸文化のなかで重んじられる「詩」に、日本で相当するものが、日本人の作った「詩」ではなく、「和歌」であるということを主張していた。
遣唐使廃止(894)とほとんど同時に、この主張が通ったのは、おそらく偶然ではあるまい。
 『古今集』は、『万葉集』とちがって、いくつかの「歌合」の作を含むらしい。
「歌合」は特定の題について数人の歌をくらべ、優劣を競う一種の競技であり、この時代にはじまって、その後の貴族文化の重要な制度の一つとなった(文化の全体への和歌の組みこまれ)。
歌の優劣を判じるには、判者の好みのほかにいくらか客観的な基準がなければならない。
したがって「歌合」の流行は、「歌論」の発達を伴ったはずである。
空海の『文鏡秘俯論』にはすでに触れた。
その後の文献(たとえば12世紀初の『俊頼髄脳』)によれば、『喜撰式』その他の「歌論」も『古今集』のまえに作られていたらしい。
平安時代を通じて、物語の理論を説いた書は一冊も知られていないが、「歌論」は増加したのであり、そのことはまた正統化と文化全体への組みこまれが、和歌において著しく、物語において極端に限られていたことを示唆する。
 『万葉集』と『古今集』との著しい対照の一つは、作者の出身階層のちがいである。
『万葉集』の作者は、天皇から東国の農民に至り、皇族から徴集された兵士に及んでいた。
重要な作者は、七世紀中葉には皇族が多く、七世紀後半には貴族と宮廷歌人、八世紀にはそれに少数の知識人と無名の大衆が加わった。
しかるに『古今集』の歌(1100首)のおよそ三分の一強は、「よみ人しらず」とされているが、その修辞と内容からみて、そのなかに地方農民の作はたとえあっても極めて少ないと思われる。
『万葉集』の場合とはちがって、『古今集』の世界は、全く閉鎖的に、宮廷貴族社会に限定された。
その宮廷貴族社会の内部では、第一に、皇族の歌が稀で、1100首のなかのわずか15首にすぎない(天皇一人、皇后一人、親王など子六人、併せて八人。名の知られている作者の総数は、127人)。
第二に、貴族のなかでも高位の貴族は少なく、主要な作者は下級貴族知識人と僧侶と宮廷の女である。
殊に『古今集』の四人の撰者(紀貫之、凡河内躬恒、紀友則、壬生忠岑)は、全体のおよそ五分の一強の歌を出していて、重要な作者だが、いずれも貴族としての位階は低い(貫之は生涯五位上で止まり、友則は『古今集』編纂当時は五位相当、この二人の家系については先に触れた。残りの二人の家系はわからない。。「仮名序」によれば、『古今集』編纂のまえに躬恒は、国司の第四等官、八位相当を務めていたといい、編纂当時の忠岑は、右衛門府の四等官の下役であったという)。
彼らの貴族としての位置は、『万葉集』の編纂に大きな役割を演じた大伴家持(大伴氏の棟梁)とは、到底くらべものにならない。
『古今集』は、まさに貫之型知識人の仕事の集大成であった。
その後の平安朝文学は、抒情詩も、散文小説も、主として下級貴族、男女知識人の仕事となる。
彼らは宮廷生活を描くために十分なほどその中心に近く、そこでの権力闘争にまきこまれるにはあまりにもその中心から遠かった。
 貴族文化の一環としての和歌の漢詩からの独立、その正統性の確認は、もちろん、その表記法の「日本化」と関係し、またその形式の一元化とも関係していたはずである。
『万葉集』の漢字による日本語表記は、『古今集』においてかな表記(少数の漢字を混えるところの)に変った。
読み書きの画期的に便利になったことは、いうまでもない。
また『万葉集』の主要な形式は、短歌、長歌、旋頭歌であったが、『古今集』はその1100首のなかに長歌と旋頭歌と併せてわずか10首を採るにすぎない。
その後の『勅撰集』もまた『万葉集』にではなく、『古今集』に倣う。
短歌は長歌よりも作るのに手間がかからず、殊に即席の製作に適する。
平安時代の貴族社会では「歌合」が流行し、歌の贈答による男女の会話が広く行われ得たのは、九世紀に抒情詩のほとんど唯一の形式としての短歌の形の固定があり、そのかな表記の普及ということがあったからである。
今朝の父の一枚です(^^)v
母との思い出の花が咲き出しました♪
母が職場の人に花の名前を聞いたのに、
しらん」と言われたと笑って話してくれた。