リハビリ仲間の方と今日は、歩きやすいですねと話していました。
ここ数日、姿を見かけなかったクマバチも元気にパトロールをしていましたp(^^)q
「暖かい土日に 日曜はにわか雨や黄砂も」(えりの気象日記 4月24日)
今朝のニュースで活動しているだけでなく、新曲も発表したことをしりました。
パワーをもらえますねp(^^)q
「ザ・ローリング・ストーンズが8年ぶり新曲 都市封鎖を歌う」(NHK)
期間限定で視聴することができます(^^)v
〝【期間限定】「リヴイング・イン・ア・ゴースト・タウン」歌詞対訳掲載〟(ユニバーサル ミュージック)
坂本史衣さんのTwitterに
行き場のない不平、不満、怒りをぶつけられる相手にことかかない状況だな。
陽性の看護師を働かせた病院、
自粛要請に従わない店舗、
検査キットを一般人に売り込む企業、
女の買い物は長いとのたまう首長に汚れたマスクを配布する政府。
患者の回復と職員の安全が一番だよ。
情熱大陸の見逃し配信が6月30日まで延長されています(^^)v
#1099「感染管理専門家・坂本史衣」
#1098「ウイルス学者・河岡義裕」
マスク製造を請け負ったのが東南アジアや中国だと知ったのだけど
4社目の公表を拒否するのは、利権絡みの国内製造会社と思われても仕方がないでしょうね。
というのも今までの首相周辺の隠蔽工作を見てきたから
巨額の税金を使うのに公表できないのは法に背くことだと思うけど。
「受注4社目、なぜかかたくなに公表拒否 妊婦向けアベノマスク、深まる疑念」(毎日新聞 4月24日)
もう15年経つのですね…
事故にあわれた方や遺族の方にとって、
いつまでも消えることのない恐怖や哀しみだと思います。
「JR福知山線脱線事故から15年」(関西NHK)
万葉集に聖徳太子の作と伝わる歌があります。
家(いへ)にあらば
妹(いも)が手(て)まかむ
草枕(くさまくら)
旅(たび)に臥(こ)やせる
この旅人(たびと)あはれ
巻三・415 聖徳太子
(『NHK日めくり万葉集vol.4』中村勝行編 講談社 2009年)
家にいたならば
妻の手枕で休むだろうに
旅先で倒れているこの旅人は
ああ、いたわしい
[選者 立松和平]
僕は聖徳太子が好きで、毎年法隆寺で正月に一週間おこもりして、修行をします。
それを13、4年つづけています。
この歌は聖徳太子の、万葉集に収められた唯一の歌です。
聖徳太子が、片岡山で餓えて行き倒れになった人を助けたという、片岡飢人伝説が背景になっています。
これはそのときのことを詠んだ歌です。
――近年、仏教への関心を深めている立松さん。
聖徳太子を主人公にした小説も発表しています。
[立松]
聖徳太子の慈悲の気持ち、優しい気持ちを伝えるこの伝説は、まだ続きがあります。
太子はその旅人に、自分が着ていた衣を着せかけて、お墓に埋葬するんです。
そして次の日、家臣にお墓の様子を見に行かせると、太子が着せた着物はきれいに畳んでお墓の上に置いてあり、もはや中には人がいなかった。
さらに、行き倒れた人はじつは達磨(だるま)大師だったという伝説です。
――片岡飢人伝説は、日本書紀をはじめとして、後の世までさまざまな書物に登場します。
「片岡」とは、今の奈良県北葛城郡王寺町のあたりです。
その地にある達磨寺には、聖徳太子が出会った旅人は禅宗の開祖、達磨大師だったという伝説があり、本堂の下から発掘された墓には、そのとき聖徳太子が埋葬した墓である、と言われています。
[立松]
片岡飢人伝説は、聖徳太子にまつわることに重要な伝説です。
ですから、この歌を万葉集の中に発見したときはちょっと嬉しかった。
仏教を最初に日本に取り入れた聖徳太子の慈悲の気持ちを表している。
万葉集のなかでも珍しい歌です。
技巧は何もない。
行き倒れた旅人に対して、実際にかけた言葉をそのまま詠ったような歌だと思います。
【聖徳太子と達磨大師】
推古天皇二十九年二月五日夜、聖徳太子は薨(こう)じた。
伝え聞いた高麗(こま)の僧慧慈(えじ)は太子を「大聖」と崇め、浄土で太子と共に衆生を化(わた)すことを誓願したと『日本書紀』には記す。
太子には伝説がつきまとっている。
中でも『日本書紀』推古天皇二十一年条に伝える片岡山飢人伝説は有名である。
十二月一日に太子が片岡(現・北葛城郡王寺町)に遊行した時、飢えた者が道のほとりで臥せっていた。
太子は姓名を尋ねるが答えない。
太子は飲食物を与えて、自分の着ていた衣を脱いで飢者に覆い「やすらかに臥せれ」といって、
しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て臥(こや)せる その田人(たひと)あはれ 親なしに 汝(なれ)なりけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て 臥せる その田人あはれ (紀・104)
と歌って帰った。
翌日、太子が使を遣して見に行かせると、飢者は既に死んでいた。
太子は悲しみ、そこに墓を造り埋葬させた。
数日後、太子は「先日の飢者は真人(ひじり)にちがいない」といい、使いを遣すと、墓の中には死骸はなく、与えた衣だけが棺の上に置かれていた。
太子はその衣を取って来させ、以前と同じく着用された。
人々は不思議がって、「聖(ひじり)が聖を知るというのは本当だったのだ」とかしこまった、というのである。
――後日譚がある。
これを知った里人は、あの異人は達磨大師の化身(けしん)に相違ないと、埋葬して塚を築き、その上に寺を建立し、太子が自ら刻んだ達磨像を祀った。
これが王寺町にある達磨寺の始まりであるという。
境内には、太子が石工に命じて造らせたと伝える雪丸という名の太子の愛犬の石像があり、可愛い。
(坂本信幸)
(『NHK日めくり万葉集vol.4』中村勝行編 講談社 2009年)
「臨済宗南禅寺派 片岡山 達磨寺」