2020年4月29日水曜日

昭和の日

今朝、新聞を取ると、折り込み広告がなかった。
最近、広告が少なくなっているなと思っていたけど、ゼロは初めて。
新聞販売店は、折り込み広告の収入が大きいと思うのだけど…

風があまり吹いていないので、いっそう暑かった(^^;
晴天で公園では、家族連れなど来園者が多かったです。

昭和の日は一日中晴れに 紫外線には注意」(えりの気象日記 4月28日)
大正天皇が命名したといわれる ユリノキ
 園内でもひときわ大きいユリノキ。 
傍らの看板には、「明治初年、伊藤圭介によって日本で最初に導入された」とあります。
明治23(1890)年、大正天皇が皇太子の頃にご来園された際に、この木の花を見てユリノキと命名されたというエピソードが残っています。
小石川植物園 巨樹・巨木観察コースガイド
なんのための行政改革だったのだろう…

全国の保健所は平成4年には852か所ありましたが、
平成の大合併などの行政改革によって統廃合され、
ことし4月には469か所とほぼ半減しました。

瀬戸際の保健所 いま何が起きているのか」(NHK)

そのうえ、アベノマスクの尻拭いまでさせられて
メーカーがすることを押しつけられている。
アベノマスクで不良品続出、戦場と化した「保健所」に大量の検品を“押し付け”…現場の怒り〟(Business Journal)
“医療従事者の感染に労災を幅広く適用を”労働組合が緊急要請」(NHK)
朝のニュースで実現してほしいと思っていました。
午後のニュースに
新型コロナ 医療・介護従事者の感染 原則労災に 厚労省」(NHK)

「医療従事者等」とあるので、交通、スーパーや薬局、配達、ごみ収集など…
私たちの日常生活を支えてくれている人たちは、
感染の危険と隣り合わせ働いてくれているのだから労災の対象です。
今朝の〝インタビューここから「中川翔子」〟で

いじめを受けていた中学生時代に「(とな)る人」として、
ただ隣にいてくれたキムラさんのことを話してくれていました。

放送の最後の方を一部転記しますφ(..)

寿命が限られているので。
時間、イコール寿命だし。
だとしたらあの人にこう言われたとか、それに時間を使うより
「うわ~ たまんない これ」みたいな。
そこに興奮する方に使いたいですね。


だいじょうぶだよ。
あなたが、ちょっと不思議なことが好きでも
不思議なモードになっちゃっても
それが、あなたの武器になるから
きっと同じ趣味の人は、地球には絶対にいっぱいいるんですよ。
学校に、周りに同じ趣味の人がいなくても絶対にいるんですよね。
で、だから、ネットの世界にもいるし
そして、なかなか、悩んでいることとかって
周りの人とか、大人とかに言いづらいかもしれないけど…
あなたがいてくれることで、周りの人は幸せになっているし
自分の好きなことを否定される筋合いは誰にもないから
絶対、傷つけられたりとかしても…
自分の命と人生と幸せを一番大切に守ってほしいなと思います。
生きてこそリベンジができます。
幸せになるという。

(いじめられている君は、絶対に悪くない)
それははっきり言い切りたいとなと思います。
絶対にいじめられている子は悪くないです。
なぜかというとやっぱり、いまだにいじめられている方に問題があるんじゃないかという
おかしな大人がまだいるらしくって
そんな大人は、ありえないですよ。
絶対に被害者を守って寄り添ってあげられる社会じゃないといけないと思いますし、
あとは、すごく、もちろん不器用だったりとか
いろんなことが何かうまくできないとか
そういうことがあってもだから傷つけてもいい理由になる訳なんかないです。
だって、そんなんだったら無理ですよね。
だから、すごく、子どもたちは繊細だし
そこは、いじめられた子たちは被害者なので
そういった子たちが勉強とか暮らし健やかに生きられる場所を作ってあげてほしいですし
絶対に自分のせいとか、自分がおかしいからだとか
自分が悪いからだとか、自分を追い込まないでほしいです。
絶対に悪くないので、それは。


5月6日(水) 午前6:53まで「見逃し配信」があります。

中川翔子さんの著書
「死ぬんじゃねーぞ!!」いじめられている君はゼッタイ悪くない』(文藝春秋社)
COVID-19 と「いじめ」には、戦うのではなく、「逃げるが勝ち」だと思う。

今日は「昭和の日」なので、
半藤一利氏の『B面昭和史 1926-1945』より
●元号は『光文』?」より抜き書きしますφ(..)
●元号は「光文」?
 この日、12月25日午前3時半すぎ、凍(い)てつくような東京の街々を「号外! 号外!」と威勢よく鈴の音を鳴らしながら、東京日日新聞(現毎日新聞)のハッピ姿の号外配りが駆けまわった。
眠りを破られた人たちは寝巻姿で表に飛びだし、この号外を競って求める。
号外は「聖上崩御」「新帝践祚」「元号決定」などを早々と報じていた。
(『B面昭和史 1926-1945』半藤一利 平凡社ライブラリー 2019年)
 とくに元号にかんしては、「枢密院に御諮詢(しじゅん)あり、同院において慎重審議の結果、『光文』『大治』『弘文』等の諸案中、左の如く決定するであろう。/『光文』」と、スクープの文字が躍っていた。
 元号は「光文」であろうとの特報は、報知新聞もあとを追って大きく報じる。
国民はそれを決定事項のようにうけとめた。
ところが、正午も近くなったころ、朝日新聞と時事新報とが、元号についての勅語のでたことを、これも鈴を鳴らしての号外で報じたのである。
 「朕(ちん)、皇祖皇宗(こうそこうそう)ノ威霊ニ頼リ、大統ヲ承(う)ケ、万機ヲ総(す)ブ。茲(ここ)ニ、大正十五年十二月二十五日以後ヲ改メテ昭和元年トス。御名御璽」
 東京日日新聞の内部は震撼(しんかん)した。
これが正しければ、百年にいっぺんあるかないかのような大誤報となるではないか。
神経過敏な社員はこれで会社が潰れるのではないかと憂慮に沈んでしまう。
どうしてこのような事態が惹き起こされたのか。
『毎日新聞七十年史』によれば、まず極秘情報がひとりの政治部記者から政治部長西村公明にもたらされ、部長はこれを主幹の城戸元亮(きどもとすけ)に報告する。
天皇の容態悪化とともに、新聞各社は担当記者を増員し、まずは「新しい年号」のスクープにそれぞれが血眼(ちまなこ)になっているとき、そこにこの極秘情報である。
よーし、やった、と平静を装いつつ勇み立ったとしても、これは当然というもの。
さらに、元首相の大物の枢密顧問官清浦奎吾(けいご)に接近している秘書課長の名村寅雄から「光文になるらしい」の極秘情報も別途で入ってくる。
そのほかに二、三の記者からも。
そこで日日新聞は綜合本部を設けて慎重に、そして早急に審議し、「光文」の号外発行に踏みきることとなる。
 いまになれば、事実がいとも明らかになっている。
一木徳郎(いちきとくろう)宮内大臣を中心に、宮内省はその時に備えて元号草案の作成に早くから着手している。
昭和、伸和、恵和、敬和、休和、威和、神化、観化、敦化、景化、光化、化光、天光、大光など候補は四十三にのぼった。
が、四十三のなかに「光文」はなかったのである。
 では、光文はまったくの幻の元号であったのか、となると、あながちそう簡単に切り捨てることはできないのである。
枢密顧問官の金子堅太郎や江木千之(かずゆき)、それに黒田長成(ながしげ)が加わり、宮内省とは別に、元号案の選定を考えていたというのである。
彼らは密儀をこらし、その考案を黒田藩史編纂所の中島和一郎に命じる。
結果としてその中島案のなかに「光文」がいちばんに案出されていた。
東京日日新聞はその枢密顧問官の筋から情報をえていたと思われる。
 そして別の史料では、元号選定のための枢密院会議が二十五日午前六時から御用邸内でひらかれ、約五時間にわたる論議の結果、「昭和」の決定をみた、ということになっている。
このとき、黒田顧問官から「光文」の提議がなされたが、「すでに新聞が号外で報道している。その報道どおりに決定したのでは枢密院の沽券にかかわる」と異論がでたために没になった、という。
この説はいまもなお主張されたりしているが、とどのつまり伝説にすぎず、そんな論議はいっさいなかったというのが、東京日日には気の毒ながら、事実なのである。
 (中略)

 このとき大阪毎日の記者であった阿部真之介(のち政治評論家をへてNHK会長)が、その顛末を書いている。
「本山社長の激怒したのは、この誤報により新聞の信用を傷(きずつ)けたその責任をとるということもあろう。天子様に申し訳ないという心持もあったであろう。しかし頻々とやってくる脅迫に堪えかねたということもあるに違いなかった。この問題は城戸を大阪に、大阪にいた松内冷洋を東京に、交替することによって決着した。この波動が次々に下流に及び、多量の社員が東西に入れ替わった。私事ながら、私が大阪から東京に帰るようになったのも、光文事件の間接のあおりだった」(「文藝春秋」臨時増刊・昭和メモ)
 なお、〝事件〟のそもそもの発火点となった政治部記者杉山孝二は、その後間もなく退社し、完全に消息を絶った。
戦後の毎日OB会にもついぞ顔をみせることはなかったという。
 じつは、ここでわたくしが注目するのは、阿部の回想記にある「頻々とやってくる脅迫」の一行なのである。
大正デモクラシーの社会風潮もすでに衰微して、昭和が開幕したときには皇室尊崇・愛国者という大義名分をかかげる〝暴力組織〟が猛威をふるいはじめていたのであろうか、という思いなのである。
元号を誤って速報し大失敗を演じた、いまになればそれだけの話が、大きな新聞社の根基を揺るがす大事件となっていた。
そこには、のちの自由な報道活動の手枷(かせ)足枷となる「皇室記事は鬼門」の徴候が、早くも見えているということなのか。
そのことに驚くのである。
 阿部はこう書いている。
 「明治の末年から、大正の初期にかけては、暴力団も微力で、甚(はなはだ)しく新聞の煩(わずら)いとなるほどのことはなかった。それが俄(にわ)かに暴威を振うようになったのは、床次(とこなみ)竹次郎が内相時代、全国の博徒を糾合し、国粋会を創(はじ)めて以後のことであった。世の中の日陰者となっていた彼等が、国粋者として、愛国者として表面に浮び出し、大手を振って横行するようになって以来の現象だった」
 床次が内務大臣であったのは大正七年(1918)九月から十一年六月のことである。
第一次世界大戦のあおりをうけた大正後期には、デモクラシーよりもナショナリズムということなのか。
いずれにしても「昭和」は物騒な騒動からはじまった。
(『B面昭和史 1926-1945』半藤一利 平凡社ライブラリー 2019年)
今朝の父の一枚です(^^)v
母の好きだったオーストラリア・チャンチン
2年前の台風で壊滅状態になっていたけど復活してきているp(^^)q

今朝、駐車場に入れない…
ゴールデンウィーク期間中の一般利用は、中止になっていた。
障碍者がリハビリで利用する場合は、事務所に連絡するようにとの掲示があったけど9時からになっている。
8時ころに着いたので、駐車場の外に車を止めたけど、
明日からは父と一緒にリハビリに来ることは我慢しないといけなくなった…
利用中止の決定は、昨日、市長がいきなりされたみたい。
今までだったら数日前から駐車場が使えないと予告があった。
もっと早く告知してくれていたら路上駐車をせずにすんだのに…
駐車違反の貼り紙をされていないか気になってゆっくり歩けませんでした。