2020年4月13日月曜日

ライラックが咲いていました


夜明け前に猛烈な雨が降るとのメールが届いたのですが
小雨になったので出かけましたp(^^)q
情熱大陸「河岡義裕(ウイルス学者)」を録画して見ました。
2005年11月27日に出演されていた時はエボラ出血熱の解明に取り組んで
エボラウイルスの人工合成を成し遂げたおかげでワクチン開発に活かされていました。
15年前の当時から警鐘を鳴らしていました。
今の世の中で流行が起きると経済がマヒするんですよ
株価はガーンと落ちるし、もう機能しないし、社会が

今回のインタビューの中で
日本は負けないぞ、みたいな
幻想を日本人みんな抱いている

(各国の感染者のグラフを見て)
日本はこれでいけるんだみたいな幻想があるんですよ
それ大間違い
ウイルスは人を選ばない

見逃した方は「見逃し配信」が19日まで見ることができます。
河岡さんの話を聞いていると、歯がゆい思いをされているんだろうなと感じました。
例えば、今朝のニュースでドイツの状況について
デュッセルドルフ大学病院で新型コロナウイルスの患者の治療にあたっている、
感染症などが専門の上原愛医師さんが指摘していたのは、、
感染が広がる前に医療の設備が整っていたのが大きい。患者が増えても落ち着いて対応できた

独の病院で治療の日本人医師 “患者増える前の態勢整備重要”」(NHK)
高橋源一郎の飛ぶ教室」(NHKラジオ第一)
100年前の感染症から学ぶこと」(4月10日)で
コロナ以前に戻りたいというけど、「逆にその前は安定してた?」という
五味さんの言葉を紹介されていました。
五味太郎さん「コロナ前は安定してた?」不安定との向き合い方〟(withnews)

五味太郎さん、不自由さへの直言「自由なんてのは存在しない」〟(with news)

そしてスペイン風邪について
史上最悪のインフルエンザ【新装版】』(みすず書房 2009年)を紹介していました。
高橋さんのリクエスト曲が流れ、(私も大好きな曲ですが…)
その曲の初演が1918年9月29日、ロンドン。
パンデミック第一波が終わって、安心してコンサートをしたら第二波が来たとのこと…

聴き逃し配信」があります♪
(4月17日午後9時55分配信終了)
ブラタモリでアシスタントが代わっていろいろ呟いている方がいます。
新しく参加した浅野さんが「法隆寺は誰がつくったお寺?」に即答できなかったことを批判する人がいるようです。
私たちの年代ならすぐに答えるかもしれないけど、若い人は、即答できるのかな?
私たちはお札に聖徳太子が描かれているのを知っているけど
千円券は昭和40(1965)年1月4日発行停止になっているし、

一万円券は昭和61(1986)年1月4日発行停止ですから
浅野さんが知らないのも無理はない(修学旅行で奈良に来たのは中学時代)。

日本のお札に最も多く登場した人物は? 本のお札に最も多く登場した人物は?」(日本銀行)

今の法隆寺は再建されたもので、批判されている方の答えも正確ではないですね。
奈良の寺々 古建築の見かた』より法隆寺の「再建非再建論争」を転記しますφ(..)
この本は1982年に出版され、品切れになっています。
番組の中でも紹介されていましたが、
この本が書かれた時よりも研究が進み新しい発見などがあります。
 再建非再建論争
 法隆寺では古来、伽藍(がらん)は聖徳太子建立(こんりゅう)のまま、今日に伝わっているものだと信じてきました。
『日本書紀』天智9(670)年4月30日の条には火災のことがはっきり書いてありますが、法隆寺の創立と歴史と財産を記して天平19(747)年に寺から朝廷に呈出した『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(がらんえんぎならびにるきしざいちょう)』にはいっさい、この火災のことが記されていなからです。
(『奈良の寺々 古建築の見かた』太田博太郎 岩波ジュニア新書 1982年)
 ところが、明治になって、歴史学が盛んになるにしたがって、黒川真頼(くろかわまより)博士らにより、『日本書紀』は官選の歴史書であるから、当然これによらねばならず、また平安時代にできた『七大寺年表』という本には「和銅年間に法隆寺を造る」とあるから、今の法隆寺は670年に焼けて710年前後に再建されたものだと主張されました。
 しかし、法隆寺の建築は、これまでいろいろ述べてきましたように、奈良時代に建てられたと考えられる諸建築とたいへんちがっています。
この様式に違いについて建築史家の関野貞(せきのただし)博士や美術史家の平子鐸嶺(ひらこたくれい)氏は、法隆寺の建築様式は、中国六朝(りくちょう)の建築様式が、朝鮮半島を経て日本に伝わったものであるのにたいし、その他の寺の建築様式は中国唐の建築様式が朝鮮半島を経ることなく、直接日本に入ってきたことによるのだと考えました。
そしてその差の生じた時期を遣唐使が派遣されるようになった時に求めました。
もし法隆寺が天智9年に焼けて和銅の再建であるならば、当然その様式は現在奈良で見る多くの奈良時代の建築と同じ様式でなければならないと考えて、非再建論を唱えました。
 これにたいし、喜田貞吉(きだていきち)博士は、『日本書紀』は官選の正史であり、その記載を疑うならば、歴史学は成り立たないという基本的立場に立って、天智9年の火災は信ずべきものと強く主張し、非再建論に反対されました。
そして美術史の様式による年代の判定は一つの解釈にすぎず、まず信ずべき文献資料によって各建築の建立年代を定め、それによって様式史を組み立てるべきだと強硬に主張されたのです。
 この論争は歴史学と芸術史学の根本問題にかかわるものだったので、広く学界の関心をよぶ大論争となりました。
喜田博士は様式については無知だと宣言されましたので、関野博士も様式論は水かけ論になるからといってくわしくふれず、新しい非再建論の根拠を発表されました。
それは33ページにも述べた尺度(しゃくど)の問題です。
 関野博士は昔の建築は当時の物指(ものさ)しを使って、柱間(はしらま)寸法を何尺というような端数(はすう)のつかない数で設計したという仮説を立て、法隆寺の建築は現在の曲尺(かねじゃく<一尺は約30.3センチ>)に1.176倍の物指し(飛鳥尺)で測ると端数がつかず、奈良時代の建築は現曲尺の0.98倍の物指し(奈良尺)で測ると端数がつかないと述べ、その物指しの変更は大化改新(645年)だから、現在の法隆寺は645年以前の建物であり、天智9(670)年に焼けた後に再建したものではないと主張されたのでした。

 この論文は様式という主観をまじえたものではなく、数値という客観的なもによっていただけに、一挙に論争に決着をつけたかにみえましたが、法制史家の三浦周行(みうらひろゆき)博士から、尺度が変わったことは事実だが、大化改新で一変したとするのは仮説にすぎないとの反論がでて、再建論は息を吹きかえしました。
 この論争は、明治30年代の終りから、大正時代を通じて両派あい譲らず、対立したままでしたが、非再建論は、『日本書紀』の記載をまったくの誤りとするだけの根拠にかけ、再建論では様式の差を説明するのに苦しみ、火災はあったけれども、その時期は天智9年でなく、推古朝あるいは、皇極2(643)年の蘇我氏が斑鳩宮(いかるがのみや)を焼いたときだとする説などもでました。
そして南大門東方の築地(ついじ)内に巨大な塔の心礎と思われるものがかつてあり、その辺りを若草伽藍(わかくさがらん)と呼ぶ伝承がありましたので、昭和の初めに、関野博士は天智9年に焼けた寺は聖徳太子のために造った釈迦三尊(しゃかさんぞん<現在金堂の本尊になっている>)を安置した寺で、若草伽藍というのがそれであるという折衷説を出され、また昭和10年代には足立康(あだちこう)博士が、薬師を本尊とする最初の法隆寺が若草伽藍で、現在の法隆寺は金堂にある釈迦三尊を安置するために、推古31(623)年にできたものという関野説の裏返しの説を出されました。
これらはいずれも、法隆寺の天智9年の火災を認め、また法隆寺の建築様式は推古天皇のころだとする様式観をそのままもちつづけようとする、苦心の表われといっていいでしょう。
 しかし、昭和14年、石田茂作(いしだもさく)博士による若草伽藍の発掘は新しい事実を明らかにしました。
それは、かつてここにあった心礎が大阪に運ばれていたのを、寺に返した機会に行なわれたもので、塔と金堂の基壇(きだん)の版築(はんちく <18ページ参照>)の下の方を発見したのです(上の方はすべて耕作のため、こわされていました)。
この塔と金堂の跡は四天王寺のように南北に並び、その軸線は磁北から20度も西に傾いていました。
現法隆寺伽藍の軸線は西に4度傾いていますので、16度の差があり、両伽藍が同時に近接して存在していたとは考えにくくなったのです。
また、ここから出土する瓦は飛鳥寺や四天王寺と同じく単弁の蓮華文(れんげもん)で、現在の伽藍から多く出る複弁のものとはちがい、一時期古いものであることも判明しました。
しかも若草伽藍の軸線は、東院で発掘された斑鳩宮跡と推定される建物跡の方位とも似ていて、創建の法隆寺は若草伽藍がそれであると考えなければならないようになりました。
 さらに戦後、金堂の解体修理が進み、金堂の礎石(そせき)が、もと上面に柱をうける柱座(ちゅうざ)を造っていたものを、おそらく焼損したため、柱座を一部削りとってふたたび用いたと推定されるにおよび、法隆寺はもと若草伽藍の地にあったのが、焼けたので、土地を少し西北方に移して再建されたのだと認めなければならないようになりました。
 ただし、その再建の時期は初めころの再建論のように、和銅までは下らず、火災後まもなく天武・持統朝(670年代から90年代)にかけてであろうということになりました。
 この論争で、法隆寺ばかりでなく、法起寺(ほっきじ)、法輪寺(ほうりんじ)はもとより、薬師寺、東大寺、唐招提寺などの奈良時代の建築や彫刻に関する研究がいちじるしく進み、古代美術の研究に画期的な発展をもたらしました。
そして美術史・建築史の研究には様式的研究と文献的研究とがともに欠くことのできないものであることを、はっきりと研究者に認識させ、学界に大きな進歩をもたらしました。
(『奈良の寺々 古建築の見かた』太田博太郎 岩波ジュニア新書 1982年)
今朝の父の一枚です。
雨なのに並んでいたそうです(*´▽`*)
今日も雨なのでどうすると父に聞くと、
家にいると鬱々とするから歩いたほうがいいといいました(^_-)-☆

今週は、来週に循環器の診察があり、
それまでに血液検査などをうけておかないといけない(日は未定)。
雨でもリハビリ散歩をしていますが、
検査のあと、遅い時間に来ると人が多いのでリハビリ散歩は休みます(^-^;

追記)
ヤマザキマリさん
イタリアの漫画家ミロ・マナラ氏のイラスト(GIF)を紹介してくれました。
見ているうちに目頭が熱くなった…