タケノコに出会いましたが、これから「雨後の筍」でニョキニョキと出てくるのかなp(^^)q
「17日は天気下り坂 夜は雨に」(えりの気象日記 4月16日)
タンポポの種はいくつあると思いますか?(^^)
「タンポポのたねの数」(小学3年)
昨日、見つけたのだけど、
今日は、もう飛んでいっているかなと…
なんと、三人連れになっていましたp(^^)q
この木は、ソメイヨシノですが実がなっています。
「ソメイヨシノに実ができにくい理由」(中学)
「ソメイヨシノに実ができにくい理由」(中学)
実ができにくいようですが、他の種類の桜の木もあるので…
「ソメイヨシノの不稔性」(日本植物生理学会)
道端に咲いている小さな花なので、あまり人の注意を引きませんが「ソメイヨシノの不稔性」(日本植物生理学会)
ナデシコ科でマンテマです。
医療従事者のみなさんへ感謝を込めて
「英 99歳男性 歩行器使い庭100周に挑戦し成功 15億円以上集める」(NHK)
「上を向いて~SING FOR HOPE プロジェクト」
加藤周一氏の『日本文学史序説<上>』より
「『古今集』の美学」の続きを転記しますφ(..)
「自然」とならんで、それ以上に重要な抒情詩の題材は相変らず恋であった。
しかしその恋の性質は変った。
『万葉集』の典型的な恋は、特定の人物(多くは作者)が特定の人物を「恋ふ」という形であらわされていた。
「恋ふ」は他動詞で、特定の目的語を要求する。
「恋ふ」ことは、話手の意識が、外部の対象へ向かうことである。
あるいは一歩を進めて、対象へ働きかけることである。
働きかけは、『万葉集』においては、しばしば、相手を「まく」、相手と共に「い寝る」、あるいは「床に入る」願望として表現されていた。
『万葉集』の恋は、他動詞的であり、外向的であり、具体的な対象と直接的な表現を特徴としていた、といえるだろう。
(『日本文学史序説<上>』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)
しかるに『古今集』の恋の歌は、『万葉集』ではほとんど用いられなかった「もの思ふ」(『万葉集』の例外は極めて稀である)という語を多用する。
たとえば貫之は「物おもひ」といい(巻十二、589)、忠岑は「物思ふころ」(巻十二、366)といい、躬恒は「なかぞらにのみ物を思ふ」と書く。
「思ふ」はここで他動詞であるが、いわば文法的な目的語としての「もの」が附け加えられて、「もの思ふ」は自動詞的に作用している。
「もの思ふ」に代表される『古今集』的恋の意識は、特定の対象への関心よりも、「もの思ふ」意識それ自身の状態の自覚である。
行為として恋から、状態への恋へ、他動詞的世界から自動詞的世界へ。
『万葉集』に頻出する「共寝」の直接的表現は、『古今集』には全くない。
そもそも「共寝」に係る歌が、例外的に少なく、その例外的な場合にさえも「い寝る」・「まく」などの語は避けられ、極めて間接的な表現がとられている。
たとえば、業平が伊勢の斎宮と出会った後、『伊勢物語』が斎宮の歌として、『古今集』が「よみ人しらず」として載せる歌は、次のようであある。
君やこし我やゆきけん おもほえず 夢かうつゝかねてかさめてか(巻十三、645)
また、この歌の場合にかぎらず、『万葉集』の「共寝」の直接的表現に代って、『古今集』に頻りにあらわれるのは、夢である。
殊に小野小町(その家系と、生没年は不明)の歌。
思ひつゝぬればや人のみえつらん 夢としりせばさめざらましを (巻十二、552)
かぎりなきおもひのまゝによるもこむ 夢ぢをさへに人はとがめじ (巻十三、657)
小町には夢で何度会っても、実際に一眼見るのに及ばぬ、という意味の歌がある(巻十三、658)。
しかしそれは例外であって、一般に『古今集』を特徴づけているのは、相手に会うこと(あるいは相手と寝ること)よりも、相手を「思ふ」こと、相手を「思ふ」ことよりも、「夢」において頂点に達するところの「もの思ひ」状態そのものを強調する傾向である。
対象(それが恋人の肉体であろうと人格であろうと)への働きかけが少なくなればなるほど、夢と現実との区別は小さくなる。
「夢みる恋人」は、日本の歴史上はじめて、『古今集』の時代に登場したのである。
(『日本文学史序説<上>』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)