2020年4月11日土曜日

公園には…

今朝も風が冷たかったですが、
土曜日ということもあって家族連れが多かったです。
いま、免疫力を高めよう~新型コロナ、感染へのそなえ~」(NHK)に
適度な運動は体を温めるだけではなくストレスの解消にもつながります
とあるように、体温が36度を切ることが多いので
免疫力を高めるためにも歩いてきましたp(^^)q

新1年生の男の子なんだろうな!
ランドセルを背負った姿をお母さんがスマホで写していました。
お爺ちゃんやお婆ちゃんに見せてあげるのかな?(*´▽`*)
今朝の「サワコの朝」に風吹ジュンさんが登場していました。
11歳で両親が離婚、中学2年で母に捨てられて兄と二人暮らしをすることになる。
その後、アイドルとして活躍するけど、トラブルに巻き込まれたときに
樹木希林さんに救われたエピソードを話されていて、
希林さんは観音様的な力があると仰っていました。
苦労はしたけど不幸ではないとも仰っていた。
年齢を重ねるごとに魅力的になっておられますね!
60歳から登山を趣味にされているけど、
60歳の同窓会で再会した登山家の同級生に
雄山(立山)に連れて行ってもらって、
次は何処かなと聞いたら剱岳だったそうです。
学生時代に一度登ったけど怖かった(^-^;
見逃された方は1週間限定の「見逃し配信」がありますよ(^^)/
今朝のニュースで大林宜彦監督が亡くなられたことが報道されていました。
大林監督の語り口調が好きでした。
お話しされている声を聞いていると、うんうんと頷いてしまう。
尾道を舞台にしたDVDをいくつか持っていますし、
映画「なごり雪」を見て、臼杵を2度訪ねました。
尾道も訪ねたいと思いながら、心筋梗塞で倒れてしまった。

内田樹さんのTwitter

大林宣彦監督が亡くなったんですね。
83年の『時をかける少女』は『探偵物語』と二本立て公開でした。
原田知世のアップで映画が終わったとき、みんな拍手してました。
プレミアとか監督のトーク付きとかじゃない、ふつうの上映で鳴りやまぬ拍手を聴いたのは結局あれが最後でした。
ご冥福を祈ります。

新型ウイルス 台湾 “満足度80%”感染対策」(NHK)

など台湾の感染症対策を調べていた時に見かけたのですが
今朝のニュースに取りあげられていました。

WHO事務局長「台湾から人種的な中傷」に台湾が反論〟(NHK)

私には、真偽のほどが分からないけど、蔡英文総統の反論が修羅場を何度も経験している人の言葉だなと思いました。

台湾は長年国際組織から排除され、誰よりも差別と孤立の味を分かっている。
テドロス事務局長にはぜひ台湾に来てもらい、差別を受けながらも国際社会に貢献しようと取り組む姿を見てほしい


テドロス事務局長の真意が分からないので、
中国の台湾政策に加担にしていると取られてしまうのではと危惧します。
4月11日
 江戸城が幕府から官軍に引き渡された。 1868(慶応4)年
 幕府の役人の案内で品川から江戸城に向かった官軍は、この日、二人の参謀を先頭に薩・長・名古屋・熊本・岡山・大村・佐土原(さどわら)の7藩の兵が次々に江戸城に入った。
江戸城の主(あるじ)の静かな交代で会った。
この交代劇も一歩誤まれば江戸は戦乱の巷(ちまた)となるところであった。
官軍は、鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川将軍慶喜(よしのぶ)を追って江戸に迫り、江戸城を総攻撃するはずだったからである。
ところが、イギリス公使パークスが反対したため、総攻撃の前日に官軍参謀の西郷隆盛と幕府陸軍総裁の勝海舟との話し合いがおこなわれ、江戸城の攻撃中止と官軍への明け渡しが約束された。
 官軍が江戸城に入ったころ、慶喜は二ヵ月ほど引きこもっていた上野寛永寺(かんえいじ)を後(あと)にし、ひっそりと水戸に向かった。
ひげは伸び放題で黒木綿(くろもめん)の羽織に小倉(こくら)の袴(はかま)という質素な身なりだったという。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
大政奉還」(小学6年)

勝海舟」(小学6年)
徳川慶喜が尻尾を巻いて大坂城から江戸へ逃げたことが勝負を一気に決めましたが、
そのときの江戸のことを『福翁自伝』の中に書かれています。
センテンスの長い文章があるので、途中で切っています。
いつもことですが、原文通りではありませんm(__)m
また文中の「裃」は「衤上」と「衤下」の二字で「かみしも」と表記されています。
 (「王政維新」)
…略…
 さて慶喜さんが京都から江戸に帰って来たというその時には、サア大変。
朝野共に物論沸騰して、武家は勿論(もちろん)、長袖(ながそで)の学者も医者も坊主も皆、政治論に忙(いそがわ)しく、酔えるが如く狂するが如く、人が人の顔を見ればただその話ばかりで、幕府の城内(じょうない)に規律もなくば礼儀もない。
(『新訂 福翁(ふくおう)自伝』福沢諭吉 岩波文庫 2008年改版)
平生(フダン)なれば大広間(おおびろま)、溜(たまり)の間(ま)、雁(がん)の間、柳の間なんて、大小名の居る所でなかなか喧(やかま)しいのが、丸(まる)で無住のお寺をみたようになって、ゴロゴロ箕坐(あぐら)を掻(か)いて、怒鳴る者もあれば、ソット袂(たもと)から小さいビンを出してブランデーを飲んでいる者もあるというような乱脈になり果てたけれども、私は時勢を見る必要がある、城中(じょうちゅう)の外国方に翻訳などの用はないけれども、見物半分に毎日のように城中に出ていましたが、その政論流行の一例を言ってみると、
ある日加藤弘之(ひろゆき)と今一人(ひとり)、誰であったか名を覚えませぬが、二人が裃(かみしも)を着て出て来て外国方の役所に休息しているから、私がそこへ行って、「イヤ加藤君、今日はお裃で何事に出て来たのか」と言うと、「何事だッて、お逢いを願う」というのは、この時に慶喜さんが帰って来て城中に居るでしょう、
ソコでいろいろな策士論客忠臣義士が躍起(やっき)となって、上方の賊軍が出発したから、何(なん)でもこれを富士川で防がなければならぬとか、イヤそうでない、箱根の嶮阻(けんそ)に拠って二子山(ふたごやま)の所で賊を鏖殺(みなごろ)しにするが宜(い)い、
東照神君三百年の洪業は一朝にして捨(す)つべからず、吾々臣子の分として、義を知るの王臣となって生けるは恩を知るの忠臣となって死するに若(し)かずなんて種々様々の奇策妙案を献じ、悲憤慷慨の気焔を吐く者が多いから、言わずと知れた加藤からもその連中で、慶喜さんにお逢いを願う者に違いない。
ソコデ私が「今度の一件はドウなるだろう、いよいよ戦争になるか、ならないか、君たちには大抵わかるだろうから、ドウゾそれを僕に知らしてくれ給え、是非聞きたいものだ」
「それを聞いて何(なん)にするか」
「何(なん)にするッてわかってるではないか、これがいよいよ戦争に決まれば僕は荷物を拵(こしら)えて逃げなくてはならぬ、戦争にならぬと言えば落ち付いている。その和戦何如(いかん)はなかなか容易ならぬ大切なことであるから、ドウゾ知らして貰いたい」と言うと、
加藤は眼を丸くして「ソンナ気楽なことを言っている時勢ではないぞ、馬鹿々々しい」
「イヤイヤ気楽などころではない、僕は命がけだ。君たちは戦うとも和睦しようとも勝手にしなさい、僕は始まると即刻逃げて行くのだから」と言ったら、加藤がプリプリ怒っていたことがあります。
 それからまたある日に外国方の小役人が出て来て「時に福沢さんは家来は何人お召連れになるか」と問うから「家来とは何だ」と言うと「イヤ事(こと)急なれば皆この城中に詰める方々にお賄(まかな)いを下さるので、人数を調べているところです」
「そうかソレは誠に難有(ありがた)い、難有いが私は勿論(もちろん)家来もなければ主人もない。ドウゾ福沢のお賄(まかない)だけはお止(や)めにして下さい。いよいよ戦争が始まるというのに、このお城の中に来て悠々と弁当など食っていられるものか、始まろうという気振(けぶ)りが見えれば、どこかへ直(す)ぐに逃げ出して行きます。まず私のお賄はいらないものとして下さい」と、笑って茶を呑んでいた。
全体を言うと真実徳川の人に戦う気があれば、私がそんな放語漫言したのを許す訳(わ)けはない、直ぐ一刀の下に首が失(な)くなる筈だけれども、これがいわゆる幕末の形勢で、迚(とて)も本式に戦争などの出来る人気でなかった。
…略…
(『新訂 福翁自伝』福沢諭吉 岩波文庫 1978年、2008年改版)
今朝の父の一枚です(^^)v
母が亡くなったあと、戸籍謄本などを取り寄せる必要がありました。
沖縄は戦場になり、多くの建物が灰塵となってしまい、戸籍などは残っていません。
その代りの証明書が届いたとき、散歩でツバメを写していました。
父は、酉年の母がツバメになって届けてくれたと喜んでいました。
ツバメが帰ってくると、ツバメを写そうとチャレンジしてます。
たとえはっきり写せなくても満足しています。
明日は、雨のようです。
ツバメが低く飛んでいました。
11日土曜日は洗濯日和 12日日曜日はあいにくの雨」(えりの気象日記 4月10日)