ツバメシジミ(シジミチョウ科)
雨が降っていなかったので出かけました。
途中、雲の動きを見ながら歩いていて
小さな雨粒が降ってきたので急いで駐車場に向かいました。
駐車場を出て暫くすると大粒の雨。
台風の雨は急に大雨になる。
なかなか凄みのある顔つきのカマキリ(チョウセンカマキリ?)
なんか両足を下ろしている姿は降参しているみたい(^^ )
翅がないのでまだ幼虫です。
「カマキリのせい長」(動画)
赤きもの一つ欄下に蓮の花
(『松瀬靑々全句集 下巻』松瀬靑々全句集編集委員会 邑書林 平成18年)
蓮(はす)の葉にかくれんとする灯涼し 山口青邨
東京上野不忍池での句。
夜風に揺れるハスの葉に見え隠れする灯が、涼しそうにまたたいている景。
江戸時代、花の観賞の目的でハスを栽培し、多くの園芸品種が生まれた。
台東区入谷の朝顔市を見物した帰りに、不忍池に寄り道して、ハスの花を見物する習慣があった。
池の弁天島の周囲には、よしず張りの茶店が出て、ハス飯やハス茶を出した。
若葉の風味を生かし、こまかく刻んで混ぜたのがハス飯、花を香りを移したのがハス茶である。
(『あめつちの詩』草川 俊 日本経済評論社 昭和58年)
巻第十一 2752
我妹子(わぎもこ)を 聞き都賀野辺(つがのへ)の しなひ合歓木(ねぶ)
我(あ)は忍び得ず 間(ま)なくし思(おも)へば
▼あの娘のことを 聞き継ぐ―都賀(つが)野辺の しない合歓木(ねむ)
わたしは忍びかねる 絶え間なく思うので
我妹子を聞き都賀野辺の―聞キまで、恋人の噂を聞き継ぎたい(絶え間なく聞きたい)、の意からかけた序。
序中の小序や枕詞がそのまま歌の主題と関連する例は多い。
都賀野辺は所在未詳。
○しなひ合歓木―シナフは、草木の枝葉が自らの重みで自然に垂れ下がること。
ネブはねむのき。
山野に自生するまめ科の落葉高木。
「合歓木」は、男女の交合をにおわせた漢籍による字。
以上三句、シナフ―シノブが類音でもあるが、
意味の上からも自分が力なくしおれているさまをたとえた序。
(『万葉集(三) 日本古典文学全集4』小島憲之他訳者 小学館 昭和48年)
会ひすぎるほど会ひしかどしだいしだいに会はずなりいまはまつたく会はず 安立スハル
(…略…)
掲出歌は、読む人にとっては、必ずしも恋の歌ではないかもしれない。
が、私にとっては、だんぜん恋の歌だ。
自分の恋愛をふりかえってみると、ほとんどが「会いたりない」という感じが強いのだけれど、
ごく稀に「よくまあ、あんなに会っていたものだなあ」と、そのパワーがまぶしく思い出される例もある。
「昨日逢い今日逢うときに君が言う『久しぶりだな』そう久しぶり」
――たとえば、こんな歌を作ったことがあった。
相手は、照れくさくて言ったのかもしれないが、そのときの自分にとっては、実感こもって「久しぶり」だった。
恋愛中を100として、もしその恋が終わってしまった場合、私は50ぐらいの関係が保てるといいなあと思っている。
それを自分では「友だち着地」と呼び、そうして得た親友も多い。
が、会いすぎるほど会っていたその相手とは、着地に失敗してしまった。
失敗とは、すごい喧嘩をして決裂するとか、憎みあって別れるとか、そういうことではない。
まさに掲出歌の下の句のような道のりをたどって、50どころか0の関係になってしまったのである。
なぜだろう。
恋愛中が、130とか、150とかのハイテンションだったからだろうか。
それが冷めてしまうと、ギャップが大きすぎて、自分自身が白けてしまうのかもしれない。
また、相手の性格によるところも大だろう。
「男としての俺に、あなたの興味がなくなったら、おしまい」と常日頃言っていた彼。
そしてまさにそのようにして、私の心のなかで、幕をおろした恋だった。
あんりゅう・すはる 1923年、京都府生まれ。
53年「コスモス」創刊に参加、現在も同人。歌集『この梅生ずべし』
(『あなたと読む恋の歌 百首』俵 万智 朝日文庫 2001年)
ネジバナもそろそろ終わりのようです。
来年に向けて種を飛ばしてくれているかなp(^-^)q
今朝咲きしくちなしの又白きこと 星野立子
(『現代日本文學体系95 現代句集』筑摩書房 昭和48年)
昨日と同じ所に止まっていました。
昨日は撮せなかったけど、胸の模様を見るとコノシメトンボのようです。
巻第十二 3060
わすれ草わが紐に着く時となく思ひわたれば生けりともなし
歌意
萱草(わすれぐさ)を私の紐につけておく。
いつもいつも始終恋をしていると生きている気もしないから、思う人を忘れるために。
語釈
◆わすれ草 わすれ草は、今はかんぞうとも言う。
この花を見ていると物事を忘れる、というので「わすれ草」の名が付いている。
◆わが紐に着く 紐に付けるというのは表面からも見えるのであろう。
紐を結ぶというのも着物の下の紐の意もあるが、外から見える紐もあったらしい。
淡路の野島の崎の浜風に妹が結びし紐吹き返す(巻三、251)
とあるのも風が吹き返すというのであるから、外から見える紐であろう。
◆時となく いつという時がないというのは始終という意である。
「寝(ぬ)る夜落ちず」というのは寝た晩は残らずであるのと同様である。
始終といわないで「時となく」などという言い方をするのは『万葉集』によく見られるところである。
鑑賞
わすれ草を紐に着けるというのは、忘れるためのひとつのまじないとも言えるのであるが、
こういう民間信仰は『万葉集』にもしばしば見える。
「わすれ草」に対して「わすれな草」という草もあり、忘れようとするばあい、
あるいは忘れないでおきたいといばあい、
それぞれ、それをある方法によって、実現できるように考えるのは人間の欲求でもあろう。
それをこういうふうに歌によっても表しているところに興味がある。
(『万葉秀歌(五)』久松潜一 講談社学術文庫 1976年)