2017年7月10日月曜日

石清水八幡宮への参拝

男山ケーブルに乗って

父さんは6月17日に購入したポールを今日まで使うのを我慢していました( ^-^)
(2012年8月2日)

2011年7月31日に心筋梗塞を発病したうえに肺炎を併発しました。
8月2日は、誕生日なのに人工呼吸器のプレゼントをいただきました(..;)
そして1年後、父さんと母さんと一緒にお参りにきました。
母さんは杖もつかずに歩きながら「セミの鳴き声が聞こえないね」と言いました。
末社 三女神社の傍に真新しい説明板がありました。

西谷八角堂跡
 鎌倉時代の初め、順徳じゅんとく天皇の御願ごがんにより建てられた隅切すみきり八角形の仏堂の跡で、
堂内には像高約3mの金色に輝く阿弥陀如来座像が納められました。

その後、慶長12年(1607)には、豊臣秀頼とよとみひでよりにより再建されました。
 明治になり、神仏分離令のため撤去されることとない、
正法寺
しょうほうじの住職・志水円阿しみずえんあが、明治3年(1870)に所有地であった、
西車塚古墳にしくるまづかこふんの後円部上に移築しました。
西車塚古墳は、墳長約120mの木津川左岸最大級の前方後円墳で、
山麓の東高野街道を約1.5km南に位置する、松花堂庭園の北西にあります。
 八角堂は、廃仏毀釈をまぬがれ市内に唯一現存する仏堂です。
古墳の上に建つその姿は、八幡に生きた人々が、当時の文化を守ろうとした気持ちを今に伝えています。
 平成29年3月28日 八幡市商工観光課

前に来た時はなかったなと思ったら、石清水八幡宮が国宝になったのを期に設置されたんだな(o^^o)
他にもたくさんあって石清水八幡宮を訪ねる楽しみが増えました!
今日は、母さんの月命日で石清水八幡宮に妹と三人でお参りに来ました。
(「一遍聖絵(模本)巻第九」東京国立博物館)

 生涯を遍歴の旅についやした時宗の祖の一遍いっぺんは、
弘安9年(1286)に難波の四天王寺や上太子の聖徳太子の廟に詣ったあと石清水八幡宮に詣でた。
一遍の事績は死後間もなく、絵師が一遍の旅した場所を訪れて製作したとみられる
「一遍上人絵伝」(一遍聖絵ともいう)に克明に描かれ、中世史研究の基礎資料となっている。
この絵伝の各場面は今日の航空写真をみるように鮮明に描かれている。
 石清水八幡宮の図では、東を正面とした鳥瞰図として、本殿を見下ろしている。
回廊で囲まれた内側に東西に細長い本殿と同じほど長細い外陣があり、
楼門を入った南東隅では座った10人ほどの僧が経を唱えている。
一遍の一行で、正面で机に向かうのが一遍だろう。

(『京都の歴史を足元からさぐる 宇治・筒木・相楽の巻』森浩一 学生社 2009年)
お母さんは酉年生まれなので「神鳩土鈴(しんきゅうどれい)」(右の白い方)をお土産にしました。

   神鳩土鈴
鳩は八幡大神様の神使として古来より親しまれてまいりました
その八幡大神様も古くは藤原広嗣の乱等 
国内の反乱の折には金色の鳩に姿をかえて飛び立ち
そのご神威を以て乱の平定に力を添えられたと言われております
八幡様が鳩を神使とするのは平和を願う所以であるといってもよいでしょう
ここにその神鳩を土鈴として意匠し皆様方の家内安全
家運隆昌をご祈念申し上げます
    石清水八幡宮
末社 竈神殿そうじんでん
御祭神
迦具土神
かぐつちのかみ) 奥津日子神おきつひこのかみ
彌都波能賣神みづはのめのかみ) 奥津比賣神おきつひめのかみ
御神徳 台所守護
今日は、妹が一緒にお参りしてくれたので下りは一人で歩くことにしました。
宝塔院(琴塔)跡
 宝塔院ほうとういんは、本殿の東側に、平安時代以降明治初年まであった天台密教系の仏塔で、
平安時代中期の万寿
まんじゅ年中(1024-28)にはすでに建てられていました。
軒の四隅に風が吹くと鳴るよう琴がかけられ、「琴塔
こととう」とも呼ばれていました。
江戸時代の設計図によると、大きさは側柱がわばしら一辺が10.92m、高さが11.9m。
このような方形の二重の塔は、天台宗の「大塔
だいとう」の様式で、現存する例は日本に一つしかありません。
明治の初めに神仏分離令によって取り除かれ、基壇
きだんの中央に参道が通されました。
今も参道の両側に、柱を支えた礎石が残されています。
 本殿の西側には真言宗の大塔もあり、密教の別宗派の2種類の大塔が、

同じ境内に本殿とともに共存していたことは、石清水八幡宮の神仏和合しんぶつわごうの精神をよく表しています。
   平成29年3月28日 八幡市商工観光課
 裏参道を下ったのですが、昨日の大雨で石段が濡れて滑りやすかったです。
母さんの杖のおかげで急な石段ですが滑ることなく降りることができました。
母さんの月命日にお参りしようと前から約束していました。
でも、昨日の体調不良で諦めかけていました。
今朝も吐き気が数度起きました。
行けても父さんたちと一緒にケーブルで降りようかとも思いました。
今朝の天気予報では、急な天候の悪化があるかもしれないというものでした。
でも、暑かったですが、天候が急変することがなかったので
無事降りてくることができました。
これも母さんが見守ってくれたんだと思っています。
高良社こうらしゃ
石清水八幡宮の摂社で高良玉垂命こうらたまだれのみことを祀る。
豊前国(現大分県)宇佐八幡宮より八幡大神はちまんおおかみを勧請かんじょうした行教和尚ぎょうきょうわじょうが、
貞観2年(860)6月15日に社殿を建立したと伝えられ、吉田兼好の『徒然草』にもその名が見える。
往時は頓宮・極楽寺と共に荘厳を極めていたが、
慶応4年(1868)戊辰戦争の兵火に罹り焼失、
現在の社殿は明治17年(1884)に再建されたもので、一間社入母屋造檜皮葺である。

また、高良社は八幡の産土神うぶすながみとして崇敬も篤く、毎年7月17,18日の例祭日には、
「ヨッサーヨッサー」の勇壮な掛け声中、市内各区より太鼓神輿
たいこみこしが担ぎ出され賑わう。
石清水詣りをした仁和寺のある法師が間違って拝んで帰ってきたのが極楽寺と高良社であった(『徒然草』第五二段)。
(続きは、石塔のところで…)

 仁和寺の法師が石清水の本殿と間違うほど、じつは高良社も九州では由緒のある社なのである。
高良大社は福岡県久留米市御井町の高良山の中腹にある。
この地域は継体天皇と戦をした磐井の本拠地で、この山が磐井勢力の聖地とみられる。
 高良社には古代の山城とも聖地ともみられる神籠石
こうごいしがあって、一部は高良大社と重複している。
聖地でもあり山城でもあるとみてよかろう。
この神籠石に水源のあるのが岩井川であり、下流に岩井という薬師如来を祠る聖なる水場もある
(図説日本の古代五巻『古墳から伽藍へ』の「磐井戦争の国際環境」)。
 高良大社は『延喜式』では高良玉垂命神社とある。
この神は神功皇后の三韓親征を助けた神とされているが、男神とも女神とも両説がある。
 高良大社は筑後国一宮であり、中世に九州の武将たちの信仰を集めた。
宇佐神宮よりも九州の武将たちが崇拝した神社なのである。
高良社がいつどのようにして男山の麓に祠られるようになったかのか、関心の集るところである。

(『京都の歴史を足元からさぐる 宇治・筒木・相楽の巻』森浩一 学生社 2009年)

徒然草のある法師の段を読んでどこかなと思っていました。
今回、下りて来たのはこの高良社と後で紹介する石塔を見たかったのです(o^^o)
「京都の自然二百選」選定植物 タブノキ
放生ほうじょう池が広がる。
現在の石清水祭は石清水放生会
とよばれ、勅祭ちょくさいとして8月15日に行われていた。
明治初年の神仏分離令により、今日の形となり、9月15日にもよおされる。

(『京都洛東・洛南散歩24コース』)
男山の最北端の山塊、石清水八幡宮の本殿と谷をへだてた鶴ヶ峰に、行教が開いたという神応寺がある。
小ぢんまりとした禅寺であるが寺宝が多い。
この寺は最初は応神天皇の位牌所として応神寺と称していたが、
それでは憚
はばかりがあるというので字を逆にして神応寺としたという。
(『京都の歴史を足元からさぐる 宇治・筒木・相楽の巻』森浩一 学生社 2009年)
石清水八幡宮五輪塔(航海記念塔)
 高さ約6m、地輪(球形の石材の下の方形の部分)一辺2.4m、
全国最大規模の鎌倉時代の五輪石塔で、国の重要文化財に指定されている。
 石塔の各部分は、下から地・水・火・風・空の五大要素を表している。

地輪は、数個の石を方形に組み、水輪は背が低く安定感のある球形をしており、
火輪の笠石は軒が厚く、形のよい反りをしている。

 摂津尼崎の商人が中国宋との貿易の帰途、石清水八幡宮に祈つて海難を逃れ、
その恩に報いるため建立されたつ伝える。

航海の安全を祈つて参詣され、航海記念塔とも称される。
 この大石塔を築く際、石を引くのに火花が出て綱が焼き切れてしまつたので、竹で作つた綱で引いたという話もある。
 また、忌明塔ともいわれ、亡き父母の忌明けの日に参り、喪の汚れを清めたという。
 そのほか、鎌倉時代の武士の霊を慰めるために建立された武者塚であるとか、

石清水八幡宮を勧請した行教律師の墓であるとか、
刻銘がなく、造立の起源が不明であるためか、この大石塔にまつわる伝説は様々である。
   1992年3月  八幡市教育委員会
…○……○……○…

 極楽寺も石清水八幡宮に関係した寺で、成立は護国寺よりは新しい。
山下にあることもあって繁栄し、支配する荘園は各地にあった。
放生会でも大きな役割を果たし、頓宮が設けられた。
江戸時代に幕を下ろすこととなる慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いで焼かれ、
その直後の神仏分離令もあってその後は再建されなかった。
 今日、頓宮の西に高さ約6メートルの五輪の石塔がある。
これはもともと極楽寺の境内にあったもので、極楽寺のあった場所の見当がつくだろう。

(『京都の歴史を足元からさぐる 宇治・筒木・相楽の巻』森浩一 学生社 2009年)

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