2017年7月17日月曜日

高野線(織田作之助作 5/6)

 うしろから貨物電車が来たので、私は道を避け、それをやりすごしてから、また歩きだした。
妻はことしの三月癌の手術を受け結果は良かったと思えたのに、その後レントゲンとラジウムを掛けに通院しているうちにだんだんに衰弱して、痛みも加わった。
病院ではもう通わなくてもよい痛みが辛抱できなければ近くの医者に注射して貰えといったということである。
私が映画の仕事のことで十日余り大船へ留守中のことであった。
その間に妻はみるかげもなくやつれ、痛々しかった。
激痛のため一週間あまり殆ど眠らなかったという。
私は病院の言葉をあやしみ早速院長に会いに出掛けた。
果して癌の再発で、もはやレントゲンやラジウムでは追い付かず、治療の方法がない、若くて可哀想だがということであった。
すごすごと帰って来ると、妻はのた打ちまわるように苦しんでいた。
その日から私は私なりに癌治療の勉強を始めた。
一流の病院が手を放してしまった以上、もう妻の病気を癒すのは神か私のほかにはない、そう思って、私は自分の仕事を顧みず、医学書を読み、古い医学雑誌も漁った。
新聞や雑誌の広告にも注意を払い、治療書や薬や器械を取り寄せた。
民間療法もやったし、超短波治療器も試みた。
民間療法と化学療法を併せたような枇杷葉の電熱療法もやってみた。
食物や薬の中の造癌物質にも注意を払った。
癌細胞阻止物質が含まれていると知れば、あやしげなものも煎じて服ませた。
例えば人間の臍帯である。
これは妻自身のを煎じた。
しおからい味がするといっていた。
暫くすると、私は癌のことでは何一つ知らぬことはないぞと思うくらいになった。
けれども、妻は依然として衰弱し、激痛も日に増した。
が、激痛はしらず、衰弱の方は無論癌のせいであったろうが、ひとつにはレントゲンやラジウム療法の全身的副作用であった。
そして、それを制止する方法は治療中ビタミンB剤と臍帯ホルモン剤を注射すればよしと、私の読んだ医学書に書いてあったが、妻にきいたところ、病院ではそんな注射をされたことはないということであった。
私は憤慨した。
レントゲンやラジウムを掛けると衰弱するのは判り切ったことだのに、何らの処置をせずに、ただ癌細胞の破壊のみにうきみをやつし、いわば全身的治療を忘れて、しかもそれが失敗に終ると、もう通わなくてもいいと突っ放して、痛みが辛抱できなければ近所の医者に注射をして貰えとのみ言って、その医者への紹介状も書かず、容態も告げず、そのために、妻は私の留守中近所の医者に頼んでも医者はにわかの診断では病状も判らなかったのか注射の仕様もなく、結果空しく生きながら地獄におちたような苦しみとたたかっていたのではないか。
何が一流の病院か、もう医者など信用しないと、私は地団駄踏んだ。
高野線の椿事で死んで行った人たちの遺族のあの殺気立った表情が想われる。
けれども、私のこの怒りは単にその病院ばかりでなく癌という病気そのものへの怒りでもあった。
そして、また私は何も悪いことしたことはないのに、なんぜこんなにくるしまんならんのやろと妻がいったその苦しみを、妻に負わした運命に対する怒り、いや、もっと得たいの知れぬあるものへの得たいの知れぬ怒りにいつかそれは変じていた。
(『織田作之助全集 5』講談社 昭和45年)

注)原文通りではありません。転記間違いがあると思います。