静かな参道です。再掲です(以下、何カ所か再掲します)
逢坂清水(おおさかしみず)と融通地蔵(ゆうづうじぞう)
大阪府有形文化財
地蔵菩薩立像(融通地蔵)
この井戸は逢坂清水の井戸と呼ばれ、もと一心寺の門前西、逢坂の途中にあったが、明治の末、電車道が開かれる道路工事のため融通地蔵と一緒に四天王寺の地蔵山に移された。
『摂津名所図会』に「清冽にして四時増減なし。茶に可なり」との記述があり、どんな日照りが続いても、いつも同じような清水をたたえ水枯れせず茶の湯にも適した名水だったことがわかる。
現在は枯れているが、天王寺七名水のひとつである。
「天王寺七名水」(大阪市天王寺区)
女性の方がお地蔵さんのお世話をしていました
……
明治時代に近郷及び境内諸方より集めた有縁無縁の地蔵尊を、中之門を入った南側の小丘に合祀したのが始まりである。
……
(四天王寺「境内」)
明治政府による「判然令」の影響?
[大阪市顕彰史跡第188号]安政地震津波碑(あんせいじしんつなみのひ)
安政元(1854)年11月4日・5日の両日に相次いで発生した安政東海地震と同南海地震による犠牲者を供養し、津波災害の状況を後世に伝えて警告するため、町人一同にによってその翌年秋、四天王寺に石碑が建立された。
現在、この石碑は無縁墓の最上段に置かれているが、もとは元三大師堂の池端に独立して立てられていた。
大阪を襲った大災害の記録として重要な意味をもっている。
(東面)
諸国地震及洪浪
南無阿彌陀佛
水陸横死大菩提
(南面)
去年霜月四日五日の地震を遁ん為に小舩に乗居し輩俄の洪浪湧か如く
木津川口邊の大小舩一時に川上に押寄橋を落し舩を摧き漂没死人夥し
尤前日より海鳴潮の干満潮乱しをしらすして死に至る者寔憐むへし后世
(西面)
海鳴潮の干満みたれし時は早く津波の兆と知りて難をのかれ玉ふへしと云爾
安政二乙卯秋建之
「[報告]大阪・四天王寺、安政南海地震津波碑文の判読」(長尾武)前に来たときはなかったなぁ…
用明殿(ようめいでん)
創建 創建未詳
再建 令和元年(2019)
聖徳太子の実父、第三十一代天皇・用明天皇の御霊をお祀りする用明殿は、元々同地に建立されていたが、昭和20年の大阪大空襲により惜しくも焼失した。
そしてこの度、聖徳太子千四百年御聖忌の記念事業として、令和元年に復興された。
元和九年(1623)、徳川幕府による再建の記録『天王寺御建立改渡帳』には、用明殿のこととして「用明天皇」と記され、『摂津名所圖絵(ずえ)』には欽明帝以下諸皇子と太子母君の六神を祀ったとある。
江戸時代には家康を祀る東照宮となるも、徳川幕府の終焉により用明殿と名称が戻った。
明治期には桁行京間二間五尺九寸・梁行京間二間一尺ある本殿に幣殿(へいでん)や拝殿を有する大規模な社殿であった。
聖徳太子十六歳の折、父の病気平癒のご祈願される御姿「太子孝養(きょうよう)像」が信仰されていることからも分かるとおり、太子の親への恩に報いたいという姿勢は敬服すべきものであり、まさに用明天皇こそ幼少期の聖徳太子に最も影響を与えた存在といえる。
今後は用明殿をお詣りの際は、四恩(しおん<父母への恩、国への恩、衆生への恩、佛・法・僧への恩)に想いを馳せてご参拝いただけることを願う。案内板はなかったのですが(見落としたかな?)
2018年5月23日の記事で転記したのを再掲すると
(手前が)
石鳥居(いしのとりい) 笠石(かさいし 部分)
鎌倉時代 永仁2年(1294)
西門(さいもん)石鳥居(重要文化財)は、四天王寺の浄土信仰を象徴する建造物である。
鳥居の創建は平安中期と推定され、初めは木造であったが、鎌倉時代・永仁2年(1294)、当時の別当であった忍性(にんしょう)上人(1217~1303)の発願により木造から石造に改められた。
幾度の災害により、石鳥居も伽藍同様被害を受け、その度に修復を重ねて今日に至っている。
笠石とは鳥居の最上部のことで、本品は忍性建立の石鳥居笠石の一部と伝える。
(奥が)
長持形石棺蓋(ながもちがたせっかんふた)
古墳時代
荒陵(あらはか 現在の茶臼山付近)から出土したものとされる。
いつの頃からか四天王寺境内に移されて亀井堂東の小溝に架けられ、江戸時代にはその形態から、巻物(まきもの)石、蛙(かえる)石とも呼ばれていた。
この橋を渡ると安産になると評判になり、四天王寺の七不思議の一つとして言い伝えられてきたが、明治時代になって古墳時代の石棺の蓋であることが判明してからは移転し、保管されている。
こちらは案内板があったので前の文章と照らし合わせて…
四天王寺の石槽
縦 1.99メートル
横 1.15メートル
高さ 0.87メートル
深さ 0.57メートル
花崗岩の一材を刳り貫いて造った石槽で、もと四天王寺西大門の西南外に手水鉢として使われていたものである。
外表は全面を粗く敲打して、平面を長楕円形にまとめ、自然石の面をとどめていない。
槽の外面には胴膨みがみられる。
槽内と頭部がひろく脚部がややすぼまる形をとり、内径は長軸が1.63メートル、短軸0.94メートルをはかる。
槽内は平滑にみがかれ、周縁部内周に一段の縁取りをつけるなど、稀にみる丁寧なものである。
なお、この石槽の頭部には、周縁と同じ高さでつづく平面円形の特徴ある装飾がみられる。
この装飾は、幅40センチメートル、
出13センチメートル、
高さ24センチメートルで、途中に一条の彫線があり、上面に一円孔が穿たれている。
こうした装飾を持つ例として大津市勝華寺の弘長3年(1263)銘の亀を掘出したものがあり
それと似た丁重な造りであって、本石槽の製作が鎌倉時代にさかのぼることをうかがわせる。
元来境内のどこにあったかは明らかにし難いが、中世の石造遺品として貴重である。 野沢菜原種 旅の起点
「野沢菜」は、宝暦年間(1750年代)、長野県野沢温泉村の古刹薬王山健命寺第八代住職晃天園瑞和尚が京都遊学の折、大阪 四天王寺発祥の天王寺蕪の種を持ち帰り、自坊庫裡裏の畑で栽培した処、野沢温泉村の地味により蕪が小さく大振りな葉柄の美味なる「蕪菜」に成長したものである。〝ふとした疑問が大きな活動に発展。野菜から学ぶ歴史と命のバトン!幻の伝統野菜「天王寺蕪」復活への道〟(大阪市市民活動総合ポータルサイト 2022年7月19日)
「日本山海名物図会 5巻 [3]」(15/22 国立国会図書館)9月30日は義弟の命日で、今日は十七回忌になります。
六時礼讃堂が工事中のため移転先でご回向をしていただいたあと
亀井堂でお経木流しをしていただきました。
「大阪 四天王寺の亀形の石造物 7世紀 飛鳥時代の作か」(NHK 2019.04.26)亀井堂は撮影禁止なので(^_-)合同墓へお参り。
手前に義弟と祖母、祖父が眠っています。
真ん中に母が眠っています。
お彼岸が過ぎているので静かにお参りできました。お昼は、今日から朝ドラ「おむすび」が始まったからではありませんが(^_-)
おにぎり定食(シャケとちりめん山椒)。
妹は、きつねうどんといなり寿司(1個)このあと、妹と別れて訪ねたい所があったので軽めの昼食をしようと思ったのですが
おにぎりの中にもシャケとちりめん山椒が入っていて結構お腹いっぱいになりました。
お店は、石鳥居を通り過ぎたすぐの所にあります。
メニューのメインはスィーツだと思うけど…
「四天王寺茶屋」妹と別れて…
伊達家(だてけ)・陸奥家(むつけ)の墓所跡(ぼしょあと)
向かって右側の石碑を「夕日岡阡表(ゆうひがおかせんぴょう)」といい、陸奥宗光が先考(せんこう<実父>) 伊達宗広(だてむねひろ)の行実(ぎょうじつ)を漢文で述べたものである。
伊達宗弘は紀州藩の重臣で、政敵によって蟄居させられたが、赦免(しゃめん)後脱藩して、主に京都で勤王(きんのう)活動を行った。
鎌倉初期の歌人、藤原家隆(ふじわらのいえたか)を敬愛していた宗弘は、明治初期、この地に来て、この地の風趣(ふうしゅ)を愛し、自分も家隆卿の傍(そば)に眠らんと、自在庵(じざいあん)を建てた。
また家隆卿の和歌にちなんで、当地を「夕日岡(ゆうひがおか)」と名づけ、伊達・陸奥一族の墓地と定めた。
宗弘は明治10年、東京で亡くなったが、遺言により夕日岡に葬られた。
以来、陸奥宗光(むつむねみつ)を始め、妻子など合わせて九人の人々が葬られた。
しかし、子孫によって、昭和28年に墓は鎌倉にある寿福寺境内(じゅふくじけいだい)に改葬(かいそう)された。
当時の遺構はまだこの地に残っており、その一つが清地蔵(さやじぞう)である。
清子(さやこ)は宗光の愛娘で二十歳で夭折した。
宗光夫妻はその死を悼み、等身大の地蔵をその墓前に立てた。
向かって左側の石碑は、陸奥宗光が外務大臣の折り、外務次官だった原敬(はらたかし)が、十年忌に宗光を偲んで建てた碑である。
平民宰相、原敬は宗光を敬愛していた。
陸奥陽之介(源二郎)宗光は、天保15年(1844)、紀伊和歌山城下に生まれた。二十歳ごろ勝海舟の弟子となり、神戸海軍塾で学ぶ。
また、坂本龍馬の知遇を得て、亀山社中(かめやましゃちゅう)・海援隊(かいえんたい)に加わり、龍馬の副官格として活躍した。
龍馬が殺害された後、紀州藩士三浦休太郎(みうらきゅうたろう)が龍馬殺害の主犯者と考えた宗光らは、三浦を襲撃し、護衛していた新撰組と闘った。
これが天満屋事件(京都)である。
維新後は、県知事を歴任し、また、外交官としても活躍する。
不平等条約の改正に力を尽くし、日清戦争時の外交を取りまとめた。
下関講和会議では全権として奮闘し、露独仏の三国干渉に至るまでに宗光が果たした外交手腕は特筆すべきものである。
明治30年(1897)8月24日没。
当時の遺構はまだこの地に残っており、その一つが清地蔵(さやじぞう)である。
清子(さやこ)は宗光の愛娘で二十歳で夭折した。
宗光夫妻はその死を悼み、等身大の地蔵をその墓前に立てた。
向かって左側の石碑は、陸奥宗光が外務大臣の折り、外務次官だった原敬(はらたかし)が、十年忌に宗光を偲んで建てた碑である。
平民宰相、原敬は宗光を敬愛していた。
陸奥陽之介(源二郎)宗光は、天保15年(1844)、紀伊和歌山城下に生まれた。二十歳ごろ勝海舟の弟子となり、神戸海軍塾で学ぶ。
また、坂本龍馬の知遇を得て、亀山社中(かめやましゃちゅう)・海援隊(かいえんたい)に加わり、龍馬の副官格として活躍した。
龍馬が殺害された後、紀州藩士三浦休太郎(みうらきゅうたろう)が龍馬殺害の主犯者と考えた宗光らは、三浦を襲撃し、護衛していた新撰組と闘った。
これが天満屋事件(京都)である。
維新後は、県知事を歴任し、また、外交官としても活躍する。
不平等条約の改正に力を尽くし、日清戦争時の外交を取りまとめた。
下関講和会議では全権として奮闘し、露独仏の三国干渉に至るまでに宗光が果たした外交手腕は特筆すべきものである。
明治30年(1897)8月24日没。
享年53歳、当地に埋葬された。
また、この地には薩摩藩家老、小松帯刀清廉(こまつたてわききよかど)が埋葬されていた。幕末時、薩摩藩の重臣だった小松は、薩長同盟や大政奉還などを推進した。明治初年には参与(さんよ)として大阪にも在勤し、明治3年(1870)7月20日、大阪で亡くなった。
「墓陵(ばくりょう)は、天王寺村之内家隆塚(かりゅうづか)有之夕日の岡ト申ス所、摂海(せっかい)見はらし至極眺望宜教所(しごくちょうぼうよろしきところ)ニ御座候(略)」と、薩摩藩士 木場伝内(こばでんない)が大久保一蔵(利通)に宛てた書簡に記している。
大久保や五代友厚が、小松の墓参りに夕日岡を訪れている。
その後、明治9年(1876)鹿児島に改葬された。
平成二十二年 百済山(くだらさん) 稱念寺(しょうねんじ) 家隆塚由来
藤原家隆は藤原時代末期の五代の天皇に仕えた有名な歌人で79歳の時に官を辞して此の地に隠棲した。
その翌年の春の彼岸は此処の高台から西の海に落ちる夕日を見て、その荘厳さに心を打たれ
契りあればなにわの里にやどりきて
波の入日を拝みつるかな
と歌によみ、直に落髪して仏性と号し、その4月9日消え入る様に一生を終えました。
この北隣の浄春寺は家隆の庵の跡を寺としたと伝えられています。
夕陽丘の地名は、この歌の
「波の入日」 から出たものです。
塚の前に享保6年に秋の坊盛順が
安井門主道恕の撰文を得て建てた碑がありますが風化が甚だしく大部分がなくなっています。
昭和50年秋の彼岸に 牧村史陽識 家隆卿顕彰碑文の要旨
家隆卿は優れた歌人で長年朝廷に仕え従二位を賜り宮内卿に至っている。
家隆は藤原俊成に和歌を学び直ちに奥義を究めた訳ではないが精進して
「彼は歌仙になる」と俊成に言わせた。
その言葉通り元久2年「新古今和歌集」の撰者となり、その名声は藤原定家と並ぶまでになった。
又、貞永元年定家が手掛けた「新勅撰集」に家隆の歌が最も多く取り上げられている。
時の摂政が「家隆は現代の人麻呂だ。和歌を学ぶなら彼を師とすべきである」と後鳥羽上皇にお勧めした事で家隆の名声はいよいよ高まったのである。
家隆の没後四百年以上たった今日、歌人が家隆の功績を文にして残したいと願ったその依頼を受け、家隆が立派な歌仙であった事、勅撰に辺り上皇の御褒めにあずかった事、彼の歌は永遠のものである事等を此処に記した。
平成3年秋の彼岸に 田村誠一郎識
大阪夕陽丘ライオンズクラブ
「 なにわ大坂をつくった100人 第62話 藤原家隆」(関西・大阪21世紀協会)口縄坂( Kuchinawa-zaka )
善龍寺と稱名寺の間から東へ上る坂。
口縄とは蛇のことで、道の起伏が蛇に似ていることからこの名がついたといわれています。
また、一説には大坂城築城の時、ここが繩打の起点であったとの伝承があり、坂の名がこれにちなむとの説もあります。 口縄坂は寒々と木が枯れて
白い風が走っていた
私は石段を降りて行きながら
もうこの坂を登り降りすること
も当分あるまいと思った 青春
の回想の甘さは終り 新しい現
実が私に向き直って来たように
思われた
風は木の梢にはげしく突っ掛っていた
織田作之助「木の都」より妹が到着するまでの間、訪ねていたのが宝物館です。
秋季名宝展「あの世への祈り-十王思想と浄土信仰-」を見学していました。
受付で『聖徳太子と四天王寺』が目に入った!
法蔵館のサイトでは「在庫あり」になっているのですが、
本の注文をしているe-honのサイトでは品切れになっていました。
家隆塚では、「家隆塚」のリーフレットが置かれていました。
口縄坂の説明は、このリーフレットから転記しています。
家隆塚では、「家隆塚」のリーフレットが置かれていました。
口縄坂の説明は、このリーフレットから転記しています。
こんばんは~
返信削除口縄坂の階段を歩かれたのでしょうか?
少し暑かったのでは。。。
妹さんとご一緒に義弟様の17回忌のお参りだったのですね。
野沢菜のお話と
陸奥家の墓所址のお話、
ちょうど
「シャーロックホームズ対伊藤博文」を読んだところだったので、
お話の中でも陸奥宗光が登場していたので興味深く読ませていただきました。
kazeさん、いつもすごくお調べになってられますね。
すごいです。(^O^)/
カイさんコメントありがとうごうざいます(^^)/
削除今回は口縄坂を上から眺めるだけにしました。
前に愛染坂を下り口縄坂を上がったことがありますが
今回は、それまでに宝物館見学や法要などで体力を使ってしまいました(^_^;
『シャーロック・ホームズ対伊藤博文』を知らなかったのですが、面白そうですね(^_^)v
二人を組み合わせる発想は、凡人にはできませんね(^_-)
史実にうるさい方は、尚更でしょう!
いつも町歩きをしたときなど転記をしていますが、
誤字脱字など間違いがありますのでご注意下さい(^^ゞ
病気をするまえは、あまり調べたりしませんでした。
と言うのもまた来る事が出来ると思っていましたが、
病気をしていらい気楽に来ることができないかもしれないなぁというふうに考えが変わりました。