朝に吹く風は、ほんの少しだけど涼しさを感じました。
それでも日差しの暑いこと…
イチョウの木を見上げると実がなっていました。
東京浅草寺には空襲を生き残ったイチョウの木があります。
「浅草の空襲」(小学6年)今日、 9月9日に行なわれたのが
〝相撲の勝負で作物の出来占う 多賀大社「古知古知相撲(こちこちずもう)」〟(滋賀NHK)
東方の力士「多賀の里」が、勝てば豊作だそうです。
西方の力士のしこ名は、「寿命ヶ石」
境内には「寿命石」があって
「平安の昔、東大寺の再建を命ぜられた俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)は当社に参詣、二十年の寿命を授かりました。寿命石はその由緒を伝える石として延命を祈る人が絶えません。」(「お多賀さんとは」)第一部名称編
年中行事と和菓子
九月
新暦になった現在、八朔(はっさく<旧暦八月一日>)の行事を9月1に日行なうところが多い。
稲の収穫を前に初穂を神に供え、豊作祈願をしたり、新穀を贈り合ったりする。
馬節句として、男子の生まれた家へ新粉で作った馬を贈る(香川県丸亀市)など、新粉細工を贈り物や供え物にする風習もある。
(『事典 和菓子の世界 増補改訂版』中山圭子 岩波書店 2018年) 九月九日は陽数(奇数)の極(きわみ)、九が重なることから重陽(ちょうよう)と呼ばれ、五節句の一つに数えられる。
平安時代の宮中では菊を観賞し、歌を詠み、菊の花を浮かせた酒を飲んだ。
この日の慣習として「菊の着綿(きせわた)」があった。
これは重陽の前夜、菊に真綿を置き、香りと露を移し、翌朝その真綿で身をぬぐい、長寿を願ったもの。
菓子も九月には菊をイメージしたものを作る店が多く、「重陽」「着綿」の銘がよく使われる。
また、重陽は栗節句とも呼ばれ、栗を食べる習慣があったことから、栗をかたどった生菓子も作られる。
…後略…
(『事典 和菓子の世界 増補改訂版』中山圭子 岩波書店 2018年)9月
おくんち
旧暦九月九日を中心に十九日とか二十九日に行なわれる年中行事をオクンチとかクンチと呼んでいます。
諏訪市後山では旧暦九月九日を菊の節供といい、御先祖様に菊の花を供え、その菊の花を酒の中に入れて飲みました。
木曽郡楢川村奈良井は中仙道の宿場町として有名ですがここでは九月九日をオクンチといい、とっくりに菊の花をさして神だなに供えてから飲みます。
またこの日に菊の花を採っておき、冬至の日に火にくべると火災予防になるといいます。
(『信濃風土記』NHK長野放送局編著 和広 1979年) 東筑摩郡朝日村の針尾では二十九日に行事をしました。
ここではオクニチといい、赤飯をふかすならわしでしたが新婚の夫婦はその赤飯に菊の花を添えて嫁さんの実家へ持って行ったそうです。
オクンチのときナスを食べる所が各地にあります。
なぜこの時ナスを食べるのか本来の意味はわかりませんが、大町市平地区では腹を病まぬためだといい、その隣りの白馬村では乙九日(おつくんち)、つまり二十九日にナスが食べられれば、来年は思うことがかなうといっています。 ところで、旧暦九月九日を重陽ともいいます。
九は陽の数だとされていますが、この九が二つ重なるので重陽というのです。
中国ではこの日を、一月七日、三月三日、五月五日、七月七日と共に大事な折り目の日としていました。
この風習が我が国に伝えられ宮廷行事に取り入れられましたが、他の四つは我が国に古くからあった民間習俗と溶け合ったのに、重陽の日だけは調和しなかったようです。 我が国には古くから九月のある日に食物を神に供え、それを皆で食べる習俗がありましたが、これには必ず新米を用いなければならなかったようです。
それを全国一様に九日にすることは困難でした。
それで十九日になったり二十九日になったりしたようです。
北安曇郡には初九日(はつぐんち)は士(さむらい)のもの、中九日(なかのくんち)は町人のもの、乙九日(おとぐんち)は百姓のものということわざが残っています。
(浅川欽一 民俗研究家)
(『信濃風土記』NHK長野放送局編著 和広 1979年) 三島由紀夫と菊形の干菓子
―「淋しい優雅」の味
「昭和四十五年十一月二十五日 完」。
三島由紀夫(1925~70)は、『豊饒(ほうじょう)の海』最終回の原稿にこう記したのち、東京・市ヶ谷の自衛隊駐屯地に向かい、割腹自殺を遂げました。
遺作『豊饒の海』は、日露戦争後から昭和四十年代頃までを舞台に、四人の主人公が輪廻転生していくさまを描いた大河小説(*)です。
その一巻目『春の雪』(1969)は、明治時代末期の華族社会を背景に、新興の伯爵、松枝(まつがえ)家の一子清顕(きよあき)と、その幼馴染(おさななじみ)で旧家綾倉(あやくら)家の一人娘聡子(さとこ)との悲恋物語が描かれています。
(『和菓子を愛した人たち』虎屋文庫 山川出版社 2017年) 食に無頓着で、味音痴を自認していた三島ですが、この作品では菓子を効果的に使っています。
たとえば、洞院宮(とういんのみや)の皇子との縁談がもちあがり、大理石の階段のある洋館に住む宮を訪れた綾倉親子に供されたのは、「薄い一口サンドウィッチや洋菓子やビスケット」でした。
御所風の秋草の衝立(ついたて)などがある古風な屋敷で暮らす聡子との育った世界の違いをきわだたせます。 また、皇子と聡子の婚姻に天皇の勅許(ちょっきょ)がおりた、聡子がけっして自分のものにならないと清顕が知る重要な場面でのこと。
綾倉家で巻物に、聡子と交互に百人一首を書いたり、王朝時代そのままの双六盤(すごろくばん)で遊んだ幼い日を回想するなかに、菊形の干菓子が登場します。 双六盤で勝っていただいた、皇后御下賜の打物(うちもの)の菓子の、あの小さい歯でかじるそばから紅い色を増して融ける菊の花びら、それから白菊の冷たくみえる彫刻的な稜角が、舌の触れるところから甘い泥濘(でいねい)のようになって崩れる味わい、……あの暗い部屋々々、京都から持って来た御所風の秋草の衝立(ついたて)、あのしめやかな夜、聡子の黒い髪のかげの小さな欠伸(あくび)、……すべてに漂う淋しい優雅をありありと思い起こした。
脆(もろ)くはかない干菓子は、時を止めたままの綾倉家にただよう「淋しい優雅」の象徴として描かれています。
三島特有の華麗で細緻な文体の真骨頂ともいえる美しい描写ではないでしょうか。
さらに、物語の終盤、二人が日本橋三越の近くの「閑散な汁粉屋の一隅」で許されざる密会をする場面では、会話がはずまず空虚な時間が過ぎていくさまを、手つかずのまま卓上におかれている汁粉で表現しています。
「小さな漆の蓋の外れに、熱い餡(あん)が紫がかって、春泥(しゅんでい)のようにはみ出しているのが徐々に乾いた」。
好きな作家の作品を、菓子に注目しながら読み直してみると、新たな発見があることでしょう。
*)『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の四部作。
(『和菓子を愛した人たち』虎屋文庫 山川出版社 2017年)今朝の父の一枚です(^^)/
「鶴見緑地にティラノサウルスが出現!」(花博記念公園鶴見緑地)
ティラノサウルス TYRANNOSAURUS
北アメリカを代表する、世界最大級の肉食恐竜。
現在報告されている獣脚類(じゅうきゃくるい)の中で、史上最大級の体格を誇る種の一つに数えられている。
体の大きさに比べて、前肢(まえあし)は異常に小さく、指が2本あるのみで、用途は未だはっきりしていない。
上下の顎(あご)には、他の肉食恐竜と比べて大きくて鋭い歯が並び、強力な顎で圧倒的な噛む力を持っていた。
驚異的な顎の力は、最低でも3t、最大8tに達したと推定され、車も粉砕(ふんさい)する力があったと考えられている。
(名前の意味:暴君トカゲ)
分類:獣脚類 全長:約13m
食性:肉食 生息年代:白亜紀後期(はくあきこうき)
主な生息地(発見地):北アメリカ
(説明板より)