2024年9月25日水曜日

彼岸明け

朝夕が涼しい日が続いています。
公園をあるいていもそんなに汗をかかなくなりましたが、

近畿地方10月も残暑厳しいか 冬の降雪量「平年並みか多い」〟(関西NHK)
「10月は、真夏日となる日もある見込みで厳しい残暑が続く」のだとか…
今日は彼岸明けになるそうです

 お彼岸の牡丹餅(お萩)

 彼岸は春分・秋分の日を中日として、前後の各三日を合わせた七日間で、2022年の秋分の日は9月23日で秋の彼岸の中日です。
 江戸時代の文献によると牡丹餅の女詞がお萩ということですが、現在は牡丹餅よりもお萩が通用しており、お彼岸の食べ物といえばお萩です。
お彼岸とお萩の結びつきがいつ頃からか明確にはわかりませんが、江戸時代からのようです。
(『江戸 食の歳時記』松下幸子 ちくま学芸文庫 2022年)
 文化10(1813)年頃に諸国の年中行事をアンケート調査してまとめた『風俗問状答(ふうぞくといじょうこたえ)』には奥州白河で農家では彼岸には仏前に萩の餅を供えるとあり、幕末の『守貞謾稿(もりさだまんこう)』には「江戸にて彼岸等には市民各互にこれを自製して近隣音物(いんもつ)とするなり」とあります。
文中の音物は贈り物のことです。
このように幕末の江戸では牡丹餅がお彼岸のつきものになっていたようです。
 明治の年中行事をまとめた『東京年中行事』(明治44<1911>年)には秋の彼岸について「秋分の前後一週間をいい、この間何処の墓地も参詣人で賑わい、萩の餅をやりとりする」とありますから、お彼岸のお萩は定着しています。
(『江戸 食の歳時記』松下幸子 ちくま学芸文庫 2022年)
朝ドラ「虎に翼」最終週「虎に翼」 (128)
最高裁大法廷で「尊属殺」の規定が違憲だとの判決がくだりました。
番組では主文が読み上げられていました。
判決文の全文(最高裁判所判例集 昭和48年4月4日

尊属殺が合憲だとされた昭和25年10月11日の判決の全文

最高裁で違憲判決が出される前の学説について刑法各論講義から一部を転記します。
 第一篇 個人的法益に対する罪
 第一章 生命及び身体に対する罪
 第一節 殺人の罪
 三 尊属殺人罪


 第二百条 自己又ハ配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス
 第二百三条 (未遂罪)
 本罪は、普通殺人罪に対する身分的加重類型であるが、本罪のような身分的加重類型の規定を置くこと自体について、後述の如く種々問題がある。

(1)客体 (省略)

(2)行為 (省略)
(『刑法各論講義』瀧川春雄 竹内 正 有斐閣 昭和40年)
(3)処罰 
 処罰は、死刑又は無期懲役である。未遂を罰する(203条)。
すなわち、尊属殺人罪は行為者と行為の客体との間に直系尊属という特定の身分関係が存在することを重視して、199条の普通殺人罪に対する身分的加重類型を規定しているものである。
しかし、行為の客体が尊属であるというだけの理由で、尊属殺人罪を特に重く処罰するのは前近代的な家族制の思想を法律的に肯定するものである。
子の親に対する愛情と、それに基づく道徳的義務ということが高く評価されることはよい。
しかし、それが国家の制度として法律的に強制されるとこに問題がある。
第二次世界大戦前のわが国においては、政治権力によるその支配体制の確立が「君に忠に親に孝に」という半封建的な上命・下服の関係の維持によってはかられたのであり、それが国民道徳・美風良俗として強調された。
尊属殺人に対する厳罰主義はこのような思想の刑法的表現である。
 尊属殺人罪の規定の根底には尊属の生命の保護価値性は、卑属の生命の保護価値性よりもより大きい法益性をもつという「子は親のもの」的差別観が横たわっている(尊属殺人罪以外に、このような身分的関係に注目して加重類型を規定するものとして、尊属傷害致死罪(205条2項)・尊属遺棄罪(218条)・尊属逮捕監禁罪(220条2項)がある)。
このような差別的価値づけを類型化した身分的加重類型を設けることは、法の前の平等の原則を規定した憲法14条にに違反しないものであろうか。
凡例は、尊属殺人罪及び尊属傷害致死罪の規定を、憲法14条の法の前の平等の原則に違反せずとしているが(*)(最判昭25・10・11集4・2037 最判昭25・10・25集4・2126)、憲法の解釈としても違憲の疑いがある(同旨、団藤・22頁、井上・203頁、宮内16頁、熊倉・100頁、なお、瀧川・28・29頁は、憲法の解釈としては合憲であるが、時代錯誤の規定であり廃止すべきであるとする)
*)ドイツにおいても、1909年の第一次草案以後、各草案は一貫して尊属殺規定を廃止してきたし、1941年9月4日の法律によって、現行ドイツ刑法典中、尊属殺人について身分的加重類型を規定した251条を削除した。
他の諸国の刑法典においても尊属殺人について特別に規定していないものが多い(例えば、デンマーク、スイス、ブラジル、ギリシャ、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィアなど)。
準備草案にも尊属殺人罪の規定はない。
(『刑法各論講義』瀧川春雄 竹内 正 有斐閣 昭和40年)
判決後に補訂された法学概論より(初版は昭和41<1966>年

  7 刑罰の種類
  (1)刑罰の実相


 二つの刑法理論が厳として対立し、激しい論争を続けたことは、右に述べた通りである。
そして一般には、明治13年の旧刑法は、客観主義の応報刑論に拠り、明治40年の現行刑法は、主観主義の教育刑論を採ったといわれている。
 しかし刑罰の行われている実際をよくよく眺めると、刑罰の実体は、二つの学派が描き出しているほど単純に、その二つの中の一つだといえないように思われる。
即ち刑罰には、応報の要素もあり、また教育の要素もあるといわなければならない。
あるいはまた、これを裏からいって、刑罰は、応報だけでもないし、教育だけでもないということができるであろう。
 刑法理論の論争では、両派とも、己れの理論を強調せんとする余り、互いの理論を極端に推ししすめ、相手方も考えなかったような虚像を造り出し、この虚像の中において攻防の論議をくりひろげたような点もないではなかった。
(『補訂版 法学』中川善之助著 泉久雄補訂 日本評論社 1985年)
 残虐な殺人犯人対し、世間の人は誰でも、犯人を厳罰に処してもらいたいと願うだろう。
その願望が果たされると、人々は、正しい裁判が行われ、正義は未だ地に堕ちていないと安心する。
こういう人たちに対して、あなたの正義感は本能的正義感であって、そんな正義感を満足させたところで、殺人はなくならないじゃないかと説いてみたところで、納得するものではない。
もしそのいわゆる本能的正義感を軽蔑して、かかる犯人を執行猶予にしたりすれば、世人は法に対する信頼の一部を失うにちがいない。
もちろん形は残虐殺人でも、内部の事情にはいろいろあって、世間で思ったより軽い罰をうけるということもあるにちがいない。
しかしそんな場合に、判決でもニュースでも、その理由を釈明するのであるが、これはやはり、重罰を期待する応報観念というものが、社会正義の上で、無視できない証拠だともいえる。
 このように、刑罰には応報がいつでもその要素の一部をなしているのだが、さりとて刑罰は応報そのものではない。
犯罪人の社会復帰ということも絶対に忘れてはならないし、刑罰はいつもこの点を看過せずに行われている。
刑罰はまさしく教育でもあるのである。
 しかし教育でもあるが、教育だけではない。
刑務所は決して学校ではない。
自由刑の名の通り、自由は極端に制限される。
ただ教育をする以上、犯罪事実の大小とは別に、犯罪者の悪性そのものが当然重視され、いわゆる主観主義的傾向が強くなり、刑罰の個別化が必要となる。
昔の牢屋は暗くてむごかったが、今の刑務所は明るくて楽になった。
しかし学校よりも工場よりも不自由である。
 このように見てくると、応報刑論・客観主義・犯罪(事実)主義という一連の思想と、教育刑論・目的刑論・主観主義・犯罪者主義という一連の思想とは、両々相対して一歩も譲れないというような性質のものではなく、刑罰の中には、おのずからこの両者が混在しているといわなければならない。
つまり刑法理論の対立をあまりに絶対的のものと考えることは、理論の空転に陥る危険があるように思われる。
 従って、わが旧刑法が、殺人罪を外形的に分類して、謀殺・惨殺・故殺等々となし、その段階に応じて刑罰の軽重を定めていたのなどは、客観主義の行き過ぎであり、むしろ現行刑法が殺人をすべて一種となし、刑を死刑から3年の有期懲役までの間で、事情に応じて裁定するとなしたことの賢明にしくはないと思われる。
しかし旧刑法の考えた犯罪事実の大きなものに重い刑罰を、という応報的観念も決して無意味のものではないから、死刑から3年の間で刑を定める場合には、その点も十分考慮にいれられるべきことといわねばなるまい。
 このことに関連して、旧刑法は、普通殺人と尊属殺人とを、犯罪の型として区別し、尊属殺人を常に重い刑に処すべきとしていたのである。
親殺し重罰の思想は、古代からものであるが、刑罰を単に応報とのみ見ず、社会防衛の目的の上から、犯人の社会復帰を目当てに、これを教育するという意味も刑罰の中にあると考えるならば、親を殺した者必らずしも他人を殺した者よりも重く罰せられなければならぬという道理はない。
 実際の尊属殺事例を見るに、殆んど親殺し事件の被害者は、箸にも棒にかからぬ人間である。
母をいじめ抜いた父親を、母思いの息子が殺したというような例は枚挙にいとまがない。
やはり尊属殺という外形事実にとらわれすぎることなく、被害者が尊属であるという点に留意しつつ、一般殺人刑の死刑ないし3年懲役の範囲内で刑を定めるべきものといわなければならない。
 この点からいえば、現行刑法が、謀殺・故殺等々のワクを一切除いたことは正しいのであるが、それにも拘わらず、尊属殺重罰の規定だけを存置し、尊属殺は、死刑か無期懲役に処すべきものとしたのは、重大な理論的思想的紛淆であったといわなければならない。
目下審議中の刑法改正草案がこの規定を廃止するとしたのは当然のことである。
最高裁大法廷は昭和48年4月4日の判決で刑法200条の尊属殺の規定は違憲であると宣言した。
(『補訂版 法学』中川善之助著 泉久雄補訂 日本評論社 1985年)
今朝の父の一枚です(^^)/
カメと並んでカルガモが日向ぼっこをしています。

第4章 都市の河川や池の水鳥―カルガモ
 ツバメ型繁殖を採用


 大手町でのカルガモの繁殖の一部始終は、多くのマスコミを通して伝えられている通りであり、ここで繰り返して説明する必要もあるまい。
ただ、このカルガモの特徴をあえて挙げれば、次のような点であろう。
 一日に多い日には数万人という大勢の見物者に囲まれながらも、人を恐れないことである。
それどころか、人に見守られていることによって、天敵のカラスやネコなどが接近できないために繁殖成功率がきわめて高い。
いわばツバメ型繁殖を採用しているのである。
また、食物のまったくない人工池でヒナを育てられるのは、人の与えるエサに依存しているためである。
そして、最もおどろくべきことは、ヒナが小さくて天敵のえじきになりやすい時期には人工池で生活していながら、ある程度多く育った時点で、自然の豊かな皇居のお濠へ引っ越しをしていくことである。
(『都市鳥ウオッチング 平凡な鳥たちの平凡な生活』著:唐沢孝一、絵:薮内正幸 ブルーバックス 1992年)