2024年9月29日日曜日

蒸し暑いけど…

今朝も蒸し暑かったですが、曇り空で風が吹いていたので立ち止まると涼しかったです。
それにしても台風が次々とやってきますね…

台風17号発生 来週前半 関東に近づくおそれ」(NHK 9月27日)

台風18号 来週半ばに沖縄地方接近のおそれ 今後の情報に注意を」(NHK 9月28日)
朝ドラ「虎に翼」、寅子の娘の優未は、大学院での寄生虫の研究を諦めました。
ドラマでは女性が法律の道を歩む難しさなどを描いていましたが
同じように女性の科学者への道も様々な障壁が立ちはだかり、苦難の連続でした。
女性科学者の黎明期」(理化学研究所)

いつか朝ドラで女性科学者の先駆者もとりあげてくれないかなと思います。

NHK NEWS おはよう日本」でが紹介していた萩野恭子さんを見ていて思いました。
わたしの研究がまさか…科学雑誌の表紙になるなんて」(NHK 9月28日) 

萩野さんことば

夢を追いかけたくても、さまざまな状況やお金、自分の能力が伴わないことがあると思いますが、いまできないからといって諦めずにできる範囲のことを続けてほしい。
失敗に終わることがあっても少しずつ続けていると、結果としてチャンスが来たときに『これは本当に逃しちゃいけない』と分かり、最適な行動を取ることができるのだと思います。


日本では、地道な研究への関心が薄く、政府の援助もほとんどないのではないかな。
一見役に立たないことを研究をしているようでも将来、人類に貢献するかもしれない…

ちなみに萩野さんは大学から研究費を受けていませんし、夫の富岡尚敬さんの研究は別分野です。
受賞のお知らせ(富岡尚敬主任研究員が櫻井賞を受賞)」(高知コア研究所)
三淵邸甘柑荘の投稿(9月27日)

早くもロス,,,で出遅れました
今週も今日から3日間 11時~15時 #甘柑荘を公開します

写真は1979年に横浜家裁を退官した時の #三淵嘉子さん。
昨日の放送で寅ちゃんが横浜家裁所長に就任した際の衣装が、まさにこの衣装を再現していて感激。
本当に凄い 素敵なドラマをありがとう~!
#虎に翼


ドラマの遺影はベレボーを被っていませんでしたが

伊藤沙莉さんの投稿(9月27日)

皆様への愛と感謝と尊敬を込めて
#虎に翼 最終話
本日も宜しくお願いいたします
🐯❤

( 画像 、 画像 ) 

三淵嘉子さんと伊藤沙莉さんはそっくりですね(^_-)
朝ドラ「虎に翼」最終週「虎に翼」 (130)

冒頭、テレビで平成11年「男女共同参画社会基本法」が衆議院本会議で可決・成立し、施行されることが報道されていました。
寅子が亡くなり15年がたったことも知らされました。

三淵嘉子さんは1979(昭和54)年に退官して、4年後、1984(昭和59)年に骨髄ガンで亡くなりました(69歳)。
よく史実と違うと批判する人がいますが、
朝ドラ「虎に翼」は寅子の物語で、嘉子さんのドキュメンタリーではない。
 「三淵氏」として世を去る

 …前略…

 昭和58(1983)年2月頃から、嘉子は背中や肩がひどく凝るようになった。
翌月には胸の骨が痛むようになった。
本人は疲れが原因だろうと考えていた。
だが、マッサージを受けても回復しない。
 6月には激しい痛みで国立国際医療センターに入院した。
そこでがん細胞が発見される。
抗がん剤治療を受けるようになった。
 実子の芳武は嘉子にがんを告知していた。

 「母とは以前から話をして、万が一の時も病名は隠さずに伝えてほしいと言われていました。母は冷静に受け止め、治療を受けていました」
(『三淵嘉子と家庭裁判所』清永聡 日本評論社 2023年)
 この頃、夫の乾太郎も闘病していた。
芳武はほかの子どもたちと手分けして二人の世話に追われている。
 嘉子は9月にいったん退院するが、入れ替わるように乾太郎が今度は国際医療センターに入院する。
 嘉子は歩行が難しくなり、車椅子を使うようになった。
12月には再入院することになった。
年が明けると、腰や背中、胸、首と全身の痛みに苦しめられるようになる。
人工呼吸器が取り付けられ、多くの人に愛されたえくぼの丸顔は小さくなって、器具で固定された。
 乾太郎の次女、奈都(なつ)の夫である森岡茂は、その後の嘉子の様子をこう書いている。

 「義母の昏睡状態がしばら続いた後、昭和59(1984)年5月28日夕刻、付き添いの家政婦さんから危篤を知らされ、私と奈都は国立医療センターに駆けつけた。親族はまだ誰も来ておらず、数人の医師と看護婦が人工呼吸を施していた。義母の体は大きく波打ち、その有様は激浪に難航する小舟のようだった。奈都はとても見ていられないと言って席を外した。医師は、私に絶望を告げ、人工呼吸を止めてよいかと尋ねたが、私は、芳武君が来るまでは続けてほしいと頼んだ」
 芳武はまもなく到着する。
森岡の配慮で彼は母親の最期に間に合った。
医師は人工呼吸を停止した。
嘉子は息を止めた。
 森岡は「先ほどの修羅場が嘘のように静かな死に顔だった」と記している。
 医師が姿を消し機械音の消えた病室には、嘉子の遺体と遺族が残された。
 しばらく誰も言葉なく立ち尽くしていたが、やがて芳武は、亡くなった母に近づき、髪をなでながら、低い声でこう歌い出した。

 ――ここはお国の何百里、離れて遠き、満洲の……。

 それは「戦友」の歌だった。
最初の夫の芳夫が出征し、疎開先の福島で畑仕事をしていた時に嘉子が口ずさんでいた歌である。
戦争が終わってからも、小さい芳武を背負い、あるいは手を引きながら歌っていた。
 私は芳武にこの時の思いを聞いた。
彼はにこやかに「気がついたら歌ってたんですよ」と答えた。

 「子どもの時から聞いていた母の歌というのは、これだから。あと、母の人生は闘いだったんです。亡くなった母を見たら、ああ闘いが終わった、と思ったんです。よかったね、よくやったよ。そう思ったら、自然とあの歌を歌っていたんです。不思議ですね」
   ●

 小田原市の旧宅を出てすぐの古い石段を上ると、霊寿院がある。
 そこに三淵忠彦の墓と並び、嘉子と乾太郎の墓がある。
乾太郎は翌年、彼女を追うように世を去った。
 嘉子は生前の希望で、ここ小田原の霊寿院と丸亀の和田芳夫の墓に分骨された。
丸亀の墓には「和田嘉子」と書かれている。
 一方、小田原では嘉子と乾太郎の氏名が墓石の側面に書かれ、前面には「三淵氏の墓」と刻まれている。
 親族によれば、墓石のこの文字は嘉子が書いてもらったものだという。
周囲はどこも「○○家の墓」である。
「三淵家」と書かずに「三淵氏」としたのはなぜか。
 戦後、民法の改正作業を手伝った嘉子は、戦前「家」制度を廃止する現場に立ち会っているのだが、そのことが理由とも思えない。
 嘉子にも乾太郎にも連れ子がいた。
家族構成が複雑なだけに、誰でもこの墓に入ることができるよう、「家」という言葉をあえて使わなかったのではないか。
そう考える方が、しなやかな嘉子らしい。
 そして「三淵氏の墓」には、三淵嘉子が乾太郎と一緒に、今も眠っている。
(『三淵嘉子と家庭裁判所』清永聡 日本評論社 2023年)

甘柑荘について

三淵嘉子さんが亡くなった1984(昭和59)年頃は、まだ緩和ケアは広まっていなかったようです。
50年以上前、友だちが入院していたときに隣のベッドに骨髄ガンの方がおられて
モルヒネが効いている間は、穏やかな様子なのですが
鎮痛効果がきれると阿鼻叫喚……
骨髄ガンは、なんて辛いんだろうと思いました。

緩和ケア病棟入院料届出受理施設数・病床数の年度推移」(日本ホスピス緩和ケア協会)
 今朝の父の一枚です(^^)/
モズに出会っていました。

 鳥が樹の枝に止まるしくみ

 鳥が樹上で落ちずに眠れるしくみのことも簡単に解説しておきましょう。
 鳥は自身を軽量化するにあたって、腱に変えても困らない筋肉は腱に変えてしまいました。
それが顕著に見られるのが足首から下の部分です。
 鳥が休もうとして体の力を抜くと、膝が曲がり、足首の位置が下がります。
鳥の足では、ふくらはぎから続く筋肉が足首以降で腱になっていて、それぞれの指までつながっています。
足首が下がると、その腱が引っぱられて自動的に指がぎゅっと締まるかたちになっています。
これが鳥が枝から「落ちない」しくみです。

 図1 鳥が樹上で休めるしくみ(図は省略)
 ふくらはぎから連続する腱が趾までつながっているため、鳥がうずくまるように体を落すと、自動的に趾は止まっている枝を強く掴むようになります。
熟睡しても、そこらから落ちることはありません。
(『鳥を識る なぜ鳥と人間は似ているのか』細川博昭 春秋社 2016年)