2024年9月6日金曜日

少しは…

朝、戸を開けると少し涼しさを感じるようになりました。
公園を歩いているとかすかに甘い匂いがしてきます。
繁殖力がすごいので嫌われ者なのだけど
クズの花が咲くと秋が少し近づいているような気がします。

9月も暑い? “残暑バテ”対策どうすれば」(NHK 9月4日)
朝ドラ「虎に翼」第23週「始めは処女の如く、後は脱兎の如し?」 (115)

1963年(昭和38年)12月7日判決が言い渡されました。
(太平洋戦争1941年12月8日開戦。1964年10月1日東海道新幹線開業、10月10日東京オリンピック開催)
原告の敗訴になりましたが
政治の貧困を嘆かずにはおられないのである…。
(判決「六、請求権の放棄による被告の責任」127/138~を参照してください)

史実を取材し続けるNHK解説委員が「虎に翼」のフィクションにどう向き合ったか……〟(木俣冬 Yahoo!ニュース)

清永聡
ドラマ化にあたって、出来る限り、事前にご遺族にフィクションになる部分を説明して、理解を得るようにしました。……
第7章 原爆裁判
 原爆投下後の惨状


 弁護士事務所に保管された古い紙の綴りや手書きの訴状には、原爆投下による惨状や原告の受けた被害について、生々しく描写されている。
「原子爆弾投下後の惨状は数字などのよく尽くすところではない。人は垂れたる皮膚を襤褸(らんる)として、屍の間を彷徨、号泣し、焦熱(しょうねつ)地獄の形容を超越して人類史上における従来の想像を絶した惨鼻なる様相を呈したのであった」
(『原爆裁判 アメリカの大罪を裁いた三淵嘉子』山我浩 毎日ワンズ 2024年)
「原告は本件広島被爆当時47歳であって、広島市中広町に家族とともに居住し、小工業を自営していた健康な男子であったが、当日の被爆のため長女(当時16歳)三男(当時12歳)次女(当時10歳)三女(当時7歳)四女(当時4歳)は爆死し、妻(当時40歳)および四男(当時2歳)は爆風・熱線及び放射線による特殊加害影響力によって障害を受け、原告は現在右手上膊(じょうはく)部にケロイドを残し、技能障害あり、また右腹部から左背部にわたってもケロイドあり、毎年春暖の節には化膿しまた腎臓及び肝臓障害があって、現在まったく職業につくことはできない」
 原爆投下からまだ10年余りの、その言葉に生身のような痛みが残っている頃のことである。
裁く立場の嘉子の心象風景は知る由(よし)もないが、戦争による心の傷は嘉子にも癒されぬまま残っている。
日々の生活の細々とした苦労は思い出したくなくとも、忘れ去ることはできない。
嘉子の夫と弟を奪ったのも戦争であった。
肉親を原爆で理不尽に奪われた原告の気持ちは、最もよく嘉子が理解したところだろう。
 第一回、第二回口頭弁論の裁判長は畔上(あぜがみ)英治が、第三回弁論から判決までは古関敏正が務める。
左陪席は弁論準備手続を伴うので変遷が激しいが、第八回弁論から判決までは高桑昭が務めた。
 裁判長の古関は、嘉子より三期上で判決時、50歳であった。
戦後司法省調査課や最高裁民事局の二課長などを務めた。
風貌からは穏やかそうな印象だが、原爆投下が国際法違反かどうかが争点になると、躊躇なく3人の国際法学者を鑑定人に選任した。
原告が申請した原水爆禁止日本協議会の理事長で法政大学の安井郁(かおる)教授、そして被告の国側(日本政府)が申請した京都大学の田畑茂二郎教授(横田喜三郎教授と交代)と東京大学の高野雄一教授である。
 著名な国際法の研究者を三人並べたことで、古関は、自身が原告にも国にも、訴えを正面から受け止める覚悟がでていることを示した。
三人の鑑定結果は1961年(昭和36年)から翌年にかけて裁判所に提出された。
最大の焦点である原爆投下と国際法について、安井と田畑の意見はともに、「非人道的、無差別爆撃であり国際法に違反する」であった。
高野も断定を避けつつ、「国際法違反の戦闘行為とみるべき筋が強い」と述べている。
 アメリカによる原爆投下は国際法違反である

 …前略…
 様々な問題、難題を抱えながら三人は判決文を書き進めた。
ただ嘉子が判決文のどの部分を書いたか分からない。
しかし、第一回口頭弁論から結審まで、一貫して審理を担当した嘉子の意見がかなり反映されたことは、間違いない(巻末に「判決文」掲載)。
 古関は判決後の囲み取材で、「政治的にどんな効果があるかは考えなかった。また裁判官は考えるべきではない」と語る。
「二十数年間の判事生活を通じて、今度が一番苦労した」とも語る。
 また、「あなたの裁判の師は誰か」と問われて、尊敬している裁判官として、三淵忠彦を挙げた。
 判決は、1963年(昭和38年)12月7日午前に言い渡された。
 …後略…
(『原爆裁判 アメリカの大罪を裁いた三淵嘉子』山我浩 毎日ワンズ 2024年)
鑑定意見比較対照表」(日本反核法律家協会

田畑茂二郎教授の著書より本文の一部と注(*)を転記します。

第四章 戦争と中立
 第一節 戦争法
 第二款 交戦行為の規制 
  一 総説


 …前略…

 戦争法に関する条約規定の類推解釈が問題とされたものとしては、空襲の例がある。
空襲について、第二次世界大戦前にはそれについて直接規定した条約は存在していなかった。
しかし、空襲はその攻撃の形態が陸軍砲撃や海軍砲撃に類似しており、そのため、これらの砲撃に関して定められた条約規定から類推解釈が行なわれ、防守地域に対しては無差別爆撃が認められるが、無防守地域(防守地域・無防守地域の意味については、本節三参照)については、軍事目標のみしか爆撃は許されないとする軍事目標主義が一般に認められ、第二次大戦において、これが空襲についての判断基準とされた。
また、この軍事目標主義の考え方からするならば、破壊の範囲がきわめてひろく、必然的に軍事目標以外の平和的人民を傷つける可能性のある原子爆弾を無防守地域に投下することは、国際法上許されないことになるわけであって、いわゆる原爆判決が、広島・長崎に対する原爆投下を国際法上違法としたのは、この理由によるものであった(*)
(『国際法新講下』田畑茂二郎 東信堂 1991年)
*)いわゆる原爆判決(下田事件)は、広島・長崎での原爆被災者下田隆一ほか4名が、国を相手に原爆被害の損害賠償を求めた事件に関し、1963(昭和38)年12月7日に東京地方裁判所が下した判決であるが、この判決は、新兵器である原子爆弾については禁止規定がないから実定国際法違反の問題は起こりえないという被告の主張を斥け、直接禁止する旨の明文がなくても、「既存の国際法規(慣習国際法と条約)の解釈および類推適用からして、当然禁止されているとみられる場合を含むと考えられる」とし、陸軍砲撃に関するハーグ陸戦規則第25条ならびに1907年の「戦時海軍力をもってする砲撃に関する条約」第1条および第2条の類推適用から、空襲についても軍事目標主義が認められ、無防守都市に対する無差別爆撃として、当時の国際法からみて、違法な戦闘行為であると解するのが相当である」とした(下級裁判所民事裁判例集第14号、2435頁)。
なお、祖川武夫・小田滋編著『わが国裁判所の国際判例』(有斐閣)242―249頁参照。
  二 害敵手段の規制
 (3)核兵器の規制


 …前略…

*)もっとも、原爆判決は、不必要な苦痛を与える害敵手段の行使を禁止した国際法上の原則にもふれ、広島・長崎両市に対する原子爆弾が、「その当時において果して軍事上適切に効果のあるものかどうか、またその必要があったかどうかは疑わしい」とするとともに、原子爆弾のもたらす苦痛は、毒、毒ガス以上のものといっても過言ではなく、「このような残虐な爆弾を投下した行為は、不必要な苦痛を与えてはならないという戦争法の基本原則に違反しているということができよう」としている(祖川武夫・小渡滋、前掲書、247―248頁)。
しかし、この場合は、広島・長崎両都市に対する原子爆弾の投下の軍事上の必要性との関連で論じているのであって、核兵器の使用が合法かどうかという一般的な問題として論じたわけではない。
なお、竹本正幸「原爆判決」田畑茂二郎・太寿堂鼎編、前掲書、318―319頁参照。
(『国際法新講下』田畑茂二郎 東信堂 1991年)

虎に翼 第23週「始めは処女の如く、後は脱兎の如し?」を振り返って〟(村上一博 明治大学法学部教授)