2024年9月23日月曜日

振替休日

今日は、秋分の日の振替休日
昨日は、風が強く、黒い雲が覆っていて今にも降りそうな天気でした。
歩いているときは大丈夫だったけど帰りに買い物をして外に出ると大雨。
石川県では、大きな被害が出ている。

【石川 大雨被害】死者6人に 行方不明2人 安否不明8人も公表」(NHK)
昨日の画像ですが、ネムノキの太い枝が折れていました。
(今朝は、折れた枝は取り除かれていました)

全国で相次ぐ倒木 街路樹は年間平均5200本 思わぬリスクも…」(NHK 9月22日)

細野哲央(一般社団法人地域緑花技術普及協会代表理事)は、

市民の協力も必要だとして「市民にも必要な知識を講習会で学んでもらうなどして、自治体と市民が協力して危険な樹木を発見していくことも大事だと思います」
 北河内<淀川流域>の食
 4 秋―稲刈り、麦播きの忙しさに喜びと感謝


 9月は厄月といって、昔から二百十日の台風が心配される。
二百二十日も無事に終わると豊作の年。
彼岸になれば畑の衣がえともいわれ、大根、ねぶか、しゅんぎくを播きはじめる。
男は米を入れる俵編みに精を出す。
「八月大名」とは残暑きびしいころのことをいい、田へ出る仕事が少ないためひまそうにいわれるが、女は夜具の洗濯、着物の洗い張り、野良着の新調、仕立がえ、障子張りなどに忙しい。
農業のひまな間に日ごろできない家事を片づけ、太陽の力を借りて衣類をきれいに整える。

 …後略…

(『聞き書 大阪の食事 日本の食生活全集27』代表 上島幸子 農山漁村文化協会 1991年)
NHKスペシャル「調査報道 新世紀 File6 中国・流出文書を追う
現代は、ロケットなどが飛び交うのだけが戦争ではないですね。
「認知戦」と呼ばれる新たな戦争が私達の思考まで支配しようとしている。

追跡 中国・流出文書 1 ~世論操作ツール~」(NHK 9月20日)

最高裁大法廷でのよねさんと轟のバディ、素晴らしかったですね。
また、別の機会に書きたいと思います(^_-)
 「『源氏物語』を読んで」つづき

 私たちにとって紫式部の魅力のいくらかは明らかに非本質的なものである。
それは次のような事実、つまり、彼女が「どこにでも見られるような家々」と言うとき、私たちはすぐさまサービトン〔ロンドンの西南西の1地区〕やアルバート記念碑〔ロンドンのケンジントン公園にあるアルバート公の記念碑〕から何千マイルも離れたところにある、何か優美な、夢のような、鶴と菊で飾られたものを眼前に思い浮かべる、という事実からくる魅力なのだ。
(『病むことについて【新装版】』ヴァージニア・ウルフ著 川本静子編訳 みすず書房 2021年)
私たちは彼女に、今日のイギリスではなしで済まさざるをえない背景と雰囲気のもつ利点を付与し、かつ付与することを楽しむのだ。
とは言っても、このような誘惑に駆られて私たちが、絶妙だけれども、頽廃の気配さえない芸術、豊かな感受性にもかかわらず、生き生きとして、率直で、廃れた文明特有の誇張とか無気力の痕跡もない芸術を体裁よく見せかけ、感傷化したとしたら、彼女をとても不当に扱うことになるだろう。
しかし、彼女の魅力の本質は、鶴や菊よりもずっと深いところにあるのだ。
紫式部の魅力は、彼女が非常に純真に奉じていた信念――そして、天皇たちや侍女たち、彼女が吸う空気や見る花によって支えられていた(と感じられるのだが)信念――すなわち、真の芸術家は「人びとが実際に使うものに真の美を与え、それらに伝統が定めた様式を与えようと努める」という信念――にあるのだ。
したがって、彼女はためらったり人前を気にしたりすることなく、骨折ったり苦しんだりすることもなく、あの魅惑的な青年の物語を語りつづけるのだ。
源氏の君は、「青海波(せいがいは)〔舞楽の曲名で唐楽。舞人は二人で、青海の波模様を染めた衣装で舞う〕をそれは優雅に舞ったので、なみいる親王(みこ)や高官は高官は声を上げて泣いたという〔『紅葉賀(もみじのが)』の巻。光源氏はこのとき18歳〕
また、わがものにすることのできぬ女たちを愛した。
その放蕩ぶりはこの上なく完璧な礼儀によって和らげられている。
彼が子どもたちと戯れるさまは人びとをうっとりさせる。
また、彼は、何人もの女友だちが承知していたように、歌は最後まで聞かぬうちに止むのがよい、としていた。
この青年の心のさまざまな面を照らし出すために、紫式部は、彼女自身が女なので、当然のことながら他の女たちの心という媒介物を選んでいる。
葵、朝顔、藤壺、紫、夕顔、末摘花、美しい女、赤鼻の女、冷たい女、情熱的な女――次々に女たちは自分たちの明るい、あるいは気まぐれな光を、中心にいる浮気な青年の上に向ける。
彼は逃げ、追いかけ、笑い、悲しむが、いつも人生のあわただしさ、泡立ち、含み笑いに満ちている。
 急がず、休まず、少しも衰えない創造力で、物語は次々と紫式部の筆から流れ出る。
創作力というこの才能がなかったら、源氏の物語は六巻も書かれないうちに干上がってしまうと当然案じられよう。
その才能があればこそ、私たちはそんな予感を抱く必要はない。
自分の場につき、ミスタ・ウェイリーの美しい望遠鏡を通して、新しい星が出るのを、それが大きく明るく静かに光り輝くだろうと確信しきって見守るのだ――だが、それにもかかわらず、それは一等星ではないのだ。
ちがう、紫式部はトルストイやセルバンテス、あるいは西欧のその他のすぐれた物語作家に匹敵する作家であることを身をもって示していない。
西欧のすぐれた物語作家の先祖たちは、彼女が格子窓から「みずからの思いに微笑む人びとの唇にも似て」咲き開く花を眺めているあいだ、戦ったり、小屋でうずくまっていたりしていたのだが。
憎悪、恐怖、あるいは、さもしさという要素、経験の根といったものが東洋の世界からは取り払われており、そのため、粗野なことはあり得ず、下品さもあり得ないが、それとともに、活気、豊かさ、成熟した人間精神もまた姿を消しているのだ。
そうしたものが欠けると、金は銀色になり、ぶどう酒は水が混じるのである。
紫式部とすぐれた西欧作家とのありとあらゆる比較は、彼女の完璧さと彼らの力を明らかにするだけである。
だが、美しい世界だ。
この静かな婦人は、行儀のよさ、洞察力、楽しさをそなえた完璧な芸術家である。
この先ながく、私たちは、彼女の小さな森を頻繁に訪れ、月が上がり、雪が降るのを見つめ、野鴨が叫び、横笛や弦楽器や笙が鳴り響くのを耳にするだろう。
かたや、源氏の君は人生の風変りな味のすべてを味わい、試み、男たちがみな泣くほどみごとに舞うのだ。
だが、上品さの範囲をけっして越えることなく、何かちがったもの、何かより洗練されたもの、何かあたえられないものを探し求めることをけっして止めないのである。
    (『ボーグ』1925年7月号)
(『病むことについて【新装版】』ヴァージニア・ウルフ著 川本静子編訳 みすず書房 2021年)
前回の記事で「芸術家には二つの種類がある、紫式部は言った。」と「帚木(ははきぎ)」の巻からの引用がありました。
「帚木」は、「雨夜の品定め」という印象が残っているのですが……
左馬(さま)の頭(かみ)の言葉

 帚 木

 …前略…

 「よろづのことに、よそへておぼせ。木の道の工匠(たくみ)の、よろづの物を心に任(まか)せて作り出(い)だすも、臨時(りんじ)のもて遊びものの、その物と、跡(あと)も定まらぬは、そばつきざればみたるも、「げに、かうもしつべかりけり」と、時につけつゝ、様(さま)をかへて、今めかしきに、目移(うつ)りて、〔見る人に〕をかしきもあり。大事として、まことに、うるはしき、人の調度(てうど)の、飾りとうする、定(さだ)まれるやうあるものを、難(なむ)なくし出(い)づること、猶、まことの、物の上手(ず)は、さまことに、見(み)え分(わか)れ侍り。
(『源氏物語(一)』山岸徳平校注 1965年 岩波文庫)
又、絵(ゑ)所に、上手(じやうず)おほかれど、墨書(すみが)きに選(えら)ばれ、つぎつぎに、さらに劣(おと)り勝(まさ)るけぢめ、ふとしも見えわかれず。かゝれど、人の見及(およ)ばぬ蓬莱(ほうらい)の山、荒海(あらうみ)の怒(いか)れる魚(いを)のすがた、唐(から)国の烈(はげ)しき獣(けだもの)のかたち、目に見えぬ鬼の顔(かほ)などの、おどろおどろしく作りたる物は、〔画家が〕心にまかせて、ひときは目驚(めおどろ)かして、実(じち)には似(に)ざらめど、さて、ありぬべし。
(よ)の常(つね)の、山のたゝずまひ、水(みづ)の流れ、目に近き、人の家居(いへゐ)有様(ありさま)、「げに」と見え、なつかしく、やはらびたる形(かた)などを、しづかに書きまぜて、すくよかならぬ山の気色(けしき)、木深(ぶか)く、世離(よばな)れてたゝみなし、けぢかき籬(まがき)の中をば、その心しらひ・おきてなどをなん、上手は、いと、いきほひ殊(こと)に、悪者(わるもの)は、〔上手に〕およばぬ所多(おほ)かめる。
手を書きたるにも、深き事はなくて、こゝかしこの、点長(てんなが)に走り書き、そこはかとなく、気色ばめるは、うち見るに、かどかどしく、気色だちたれど、猶、まことの筋(すぢ)を、こまやかに書き得(え)たるは、うはべの筆(ふで)消えて見ゆれど、今ひとたび、取り並べて見れば、猶、実(じち)になむ、よりける。はかなき事だに、かくこそ侍れ。まして、人の心の、時(とき)にあたりて気色ばめらん。見る目の情(なさけ)をば、〔私は〕え頼(たの)むまじく思う給へて侍る。そのはじめの事、すきずきしくとも、申し侍らむ」
 …後略…
(『源氏物語(一)』山岸徳平校注 1965年 岩波文庫)
古文を転記していても素養のない私は????なので(^^ゞ

 帚 木

 …前略…

「男女のことを、世間の様々なことに引き比べて考えてごらんなさいませ。たとえば、指物師(さしものし)が、さまざまな細工物を自由に製作する場合も、その場かぎりの翫弄物(もてあそぶもの)には、こうでなけれならないという、形や作り方の規定がありませんので、見た目にしゃれたもの、なるほど、こういうものも作れるのだなと、臨機応変に趣向を変えて造りますと、目新しさに惹かれ、おもしろがられる物もあります。部屋の装飾の、格式のある立派な調度として、きちんと決まった様式のものを作る段になりますと、その製作の立派さは際立って、やはり真の名人の作品は、ちがいが一目でわかります。
(『源氏物語 巻一』瀬戸内寂聴訳 講談社文庫 2007年)
また、宮中の絵所には名人上手がたくさんいますが、墨書きに選びだされた絵師たちに、下絵を描かせたものを次々に見比べても、その優劣はちょっと見分けがつきません。ところが、人が見る事も出来ない蓬莱山(ほうらいさん)や、荒海(あらうみ)の恐ろしそうな魚の姿や、唐国に住むという猛々(たけだけ)しい獣の姿、人の目には見えない鬼神の顔などといった、おどろおどろしく描かれた空想の絵は、画家が想像にまかせて思う存分に筆を振るっていますので、人目を驚かせるには充分で、実物に似る似ないは問題にいたしません。
けれども、ごくありふれたそこらにあうような山のたたずまいや水の流れ、見慣れた人の家居の様子などを、写実で描いてありますと、なるほどそっくりだと思われて、その間に親しみやすく、のどかな点景などを、ほどよくしっかりとあしらい、なだらかな山の風景を、木立深く、いかにも浮き世離れした幽邃(ゆうすい)の地のように幾重にも重ねて描きながら、すぐ目の前の籬(まがき)の内の風景も、木石の配置まで心配りして描くとなると、名人は筆の勢いも格別でして、凡庸な絵描きはとても適(かな)わない所が多いのです。
文字を書いてもそうです。深い素養もないのに、ただあちこりの線を長く引いたりして、走り書きにして、何となく気取って技巧をみせたつもりなのは、ちょっと見には、気がきているようですが、やはり本格的な書法を習いこんだ真面目で丁寧な書き方のほうが、一見、筆づかいが見栄えしないようでも、もう一度並べて比べてみると、やはり本格的な修行をした人が丹念に書いたものが、技巧だけのより秀れているのがわかります。ちょっとした技芸でもこの通りなのです。まして人の心は、その折々に見せる思わせぶりな目先だけの情愛など、信頼のおけるものではありません。わたしの昔の失敗談をお話ししましょうか。色好みの浮気者とお思いになるかもしれませんが、まあお聞きください」

 …後略…

(『源氏物語 巻一』瀬戸内寂聴訳 講談社文庫 2007年)

100分de名著 ウェイリー版“源氏物語” (4)世界文学としての「源氏物語」が放送されます。