2024年9月19日木曜日

彼岸の入り

今朝も強烈な暑さでした。
わずか2時間弱しか歩いていないのに汗びっしょり!
水浴びをしたいけど、すぐ汗がふきだすだろうなぁ
この暑さの中、働く人は大変だ

西・東日本で気温上昇 すでに猛暑日のところも 熱中症対策を」(NHK)
昨夜の「虎に翼×米津玄師 スペシャル」の番組の告知を見ていて
アレッ、玉ちゃんがいないと思っていたのですが
「今日は玉ちゃんこと羽瀬川なぎちゃんが体調不良でちょっと急遽、来られないことになって残念なんですけども。」と説明がありました。

昨日、循環器科の診察日でした。
8月、主治医の先生が体調不良で代診でした。
いつもは早足で診察室にやってくる先生が杖をついてこられたのでビックリ。
他の患者さんがおもわずどうしたのですかと尋ねられた。
耳が悪いのではっきりと聞き取れなかったのですが
お子さんと遊んでいたときに椎間板ヘルニアになったそうです。
腕にリストバンドをされていたので病室から診察に降りてこられたようです。

主治医の先生に10月から心臓リハビリの再開をお願いして
診察後、リハビリ室で10月からの予約をしました。
2024年の彼岸の入りは19日です。
先日、「秋季彼岸会」の案内の葉書がきましたが、郵送で供養をお願いしました。

 彼 岸

 あしたは十八日、カレンダーには「彼岸入り」と印刷されていました。
活字は鮮明ですが、行事として薄れ加減に見えます。
 昭和のはじめごろ、私は東京の港区に住んでいましたが、お彼岸には家でこしらえたオハギなどを重箱に詰め、近所に配るといった風習がありました。
子供はよくそのお使いにやらされたものです。
(『朝のあかり 石垣りんエッセイ集』中公文庫 2023年)
 からになった容器には、返礼のしるしにマッチとか、半紙などが入れられ、またもと通りの風呂敷包みになって渡されます。
その間の待ち時間、使者に立った玄関先での手持ちぶさたな何分間かの感じを、ありありと思い出します。
 届けた先からは翌日、五目めしなどが到来して、その日の夕食の膳にとり分けられていました。
これはどちらが先というのでもなく、あちこちの家の味が適宜に交流しました。
 労力がお金に換算されることの少なかった時代の話、とでもいったらいいのでしょうか。
その善し悪しは別として、そんな近所づきあいはまっぴらで、食べたいものは自分が要るだけつくるか、さらには買ったほうがずっと簡単。
と変るまでに、そうたくさんの年月を必要としませんでした。
 彼岸の入りから明けるまで、殺生を禁じられ、魚も鶏も食べさせてもらえなかったなあ、と思いながら、このごろの私はジュウジュウ肉を焼いたりしています。
 せっかく古いしきたりから遠去かったのに、年齢的にあちら岸へ近づきつつあるというのは皮肉な話です。
 それにしても現世を此岸(しがん)と呼び、あの世を彼岸と設定したイメージつくりの見事さ。
生きてたどり着くことのむつかしい彼岸がヒガンなら、悲願もヒガンか、とつぶやきながら、隣は何をする人ぞ。
もしこちらから食物を配ったら、毒入りと疑われてもしかたない世情一般をわきまえるしかありません。
 わが家族の生き残り三人、墓に八人。
アパートに一人住んで、私は市販のオハギをにぎやかな向こう岸の人にそなえることにいたします。
(『朝のあかり 石垣りんエッセイ集』中公文庫 2023年)
 墓 参

 お彼岸のお墓詣(はかまい)りに行くのである。
数えの七ツのとき母を失ったので、それ以来ずっとお墓へ何度お詣りしたことか。
思えばもう五十年になるのである。
(『雀の手帖』幸田文 新潮文庫 令和6年)
 ずいぶんお詣りに縁の深い生まれつきなのだとおもう。
私には三ツ違いで姉の弟もあったのだが、みな早くこの世を立って行ってしまったから、この人たちも数少なくお墓詣りをして、数多く詣られているのである。
父親は戦後まで残っていてくれたが、机に向いて読み書きする生活ではいちばんさきに疲労は足へ出るのである。
お詣りに昇り降りする百段にちかい石段は、ことに持病の糖尿がよくないときにはこたえてしまうらしく、若い私を代参させた。
その父ももういなくなって、いよいよ私は専門のお詣りである。
だがこのごろは、ちょいちょい娘が代ってくれる。
真夏の百段の石段はこたえるようになった。
 石段の下はまっすぐな参道、その出外れの角に古いくず餅(もち)屋がある。
百段をあがり降りしたあとでは、甘いものがほしくなるから、休んで行く人が多く、おみやげの折詰も結構売れる。
戦争中は店をしめていたようだ。
あるいはずっと商売はしていたのかもしれないが、表を通り過ぎに見るかぎりは、いつもガラス戸がたててあり、床几(しょうぎ)はかたづけてあった。
 それが戦後二年目だったろうか、三年目だったろうか。
店があいていた。
ようやくやっと形ばかりに店をあけた。
といった様子でそこいらじゅう煤(すす)ぼけ、肝腎(かんじん)のくず餅そのものも貧弱きわまるもので、芋飴(いもあめ)のにおいのする蜜(みつ)がかかっていて苦(にが)かった。
だが、それをたべているあいだに、私は連れと顔を見あわせた。
私たちの床几のすぐうしろが帳場になっていて、そこから漏れ聞こえてくる会話が、どうやらおめでたであった。
そこの息子さんへお嫁さんをすすめているのである。
いま私の前にくず餅を持って来てくれた人が、嬉しさを隠せない声で、「なにぶんよろしく」と言っていた。
私たちは急いで店を出た。
 そのつぎに行ったときは、あゝあの人、とわかるお嫁さんがいた。
そのつぎはその人が幅の広い前かけをかけてい、そのつごは赤ちゃんがいて、そのつごは改築された店に赤い小座蒲団(こざぶとん)が新しかった。
すっかり身上(しんしょう)がたて直ったことがわかる。
息子さんはいまはおやじさん顔になったし、あの人には妻の貫禄(かんろく)がついた。
 私はこの夫妻にむだ口を利(き)いたことはない。
もっぱらくず餅をたべさせてもらったり、おみやげの折を買うだけの、いつも行きずりの客である。
だから、こちらで勝手にお詣りのたびに、それとなく「元気かな? あゝ元気だ。 これでよし」と思うのである。
ひそやかなる世話やきばあさん、とでもいうものかと苦笑する。
あちらは知るまい。
 しかし、あの夫妻もあるいは私を、「ながいお詣りさんだねえ」と言いあっているかもしれない。
(『雀の手帖』幸田文 新潮文庫 令和6年)
今朝の父の一枚です(^^)/

 カリンをめぐる三角関係 【花櫚・榠樝・花梨】

 …前略…

 これまでに見てきたように、漢字の世界では、一つの漢字が二つ以上の植物を指していることが、よくあります。
たとえば、「萩」は中国語でヨモギの一種ですが、日本語ではハギ。
「瞿麦」は、中国ではセキチクやそれに似た植物を指すのに対して、日本語ではナデシコを表すのに用いる、といった具合です。
 それとは逆に、同じ一つの日本語が二つの植物を指し、漢字で書くと別の書き表し方になってしまう、とうこともあります。
カリンがその例です。
 『広辞苑』で「かりん」を調べると、二つの植物名が並んでいます。
一つめは、漢字では「花櫚」と書く、「マメ科の高木」。
二つめは、「榠樝」というむずかしい漢字を使って書き表される、「バラ科の落葉高木」です。
 私たちが知っている、11月ごろに出回る果実を漬け込んでお酒にしたり、のど飴の原材料にしたりするのは、バラ科の「榠樝」。
果実は薄黄色ででこぼこてしているのが特徴ですが、『広辞苑』のイラストでは、その果実だけでなく、花のよすも確認することができます。
 一方、マメ科の「花櫚」にはイラストはありませんが、「家具・細工物などの高級材」だとの説明。
この二つが同じ名前で呼ばれる理由については、調べてみたところ、木目がよく似ているからだ、という説があるようです。

 …後略…
(『漢字の植物苑 花の名前をたずねてみれば』 円満字二郎 岩波書店 2020年)