ドライフラワー?の先に花が咲いていた
カシワバアジサイなどアジサイは、花が咲き終わった後、剪定する方がいいと聞いたけど
そのままにしているとこんな姿をみることもできるんだ…朝ドラ「虎に翼」第23週「始めは処女の如く、後は脱兎の如し?」 (111)
雲野六郎弁護士が
「いや~ 私は お握りが大好きなんだ。」
と言いながら一口も食べることができずに急逝されました。
一口食べさせてあげたかったですね…
三角や俵型はよく見かけるのですが、
梅子さんのおにぎりのように丸くて大きなおにぎりはあまり見かけない…
おむすびニッポン「宮崎 とうきびおむすび」で
「おむすびを作るオススメの方法とは?」が紹介されていました。
この方法は手をヤケドせずにふんわりとしたおむすびを素早く作れるそうです。今週から「原爆裁判」が大きなテーマになっています。
今日の第23週「始めは処女の如く、後は脱兎の如し?」 (112)
よねの言葉
「意義のある裁判にするぞ。」
「原告は『今』を生きる被爆者ですが」
〝「虎に翼」の“はて?”を解決!「“原爆裁判”――トラコが担当する歴史的裁判を解説!」①〟(ステラ 8月16日)
清永聡解説委員
最近、全国の裁判所で民事訴訟記録が大量廃棄されていたことが明らかになりました。
この原爆裁判の記録も、判決文を除き、廃棄されていたのです。
私はこの裁判の保管先であるはずの東京地裁に直接問い合わせ、探してもらいましたが、回答は「残っていない」でした。
日本では、裁判所に限らず重要な書類などが都合が悪くなると破棄される。
安倍内閣時代はひどかったです。
「なぜ公文書が “後進国”ニッポンの実像」(NHK政治マガジン 2018年4月10日)
朝鮮人虐殺事件についても政府は公文書がないとの答弁を繰り返している。おむすびニッポン「宮崎 とうきびおむすび」で
「おむすびを作るオススメの方法とは?」が紹介されていました。
この方法は手をヤケドせずにふんわりとしたおむすびを素早く作れるそうです。今週から「原爆裁判」が大きなテーマになっています。
今日の第23週「始めは処女の如く、後は脱兎の如し?」 (112)
よねの言葉
「意義のある裁判にするぞ。」
「原告は『今』を生きる被爆者ですが」
〝「虎に翼」の“はて?”を解決!「“原爆裁判”――トラコが担当する歴史的裁判を解説!」①〟(ステラ 8月16日)
清永聡解説委員
最近、全国の裁判所で民事訴訟記録が大量廃棄されていたことが明らかになりました。
この原爆裁判の記録も、判決文を除き、廃棄されていたのです。
私はこの裁判の保管先であるはずの東京地裁に直接問い合わせ、探してもらいましたが、回答は「残っていない」でした。
日本では、裁判所に限らず重要な書類などが都合が悪くなると破棄される。
安倍内閣時代はひどかったです。
「なぜ公文書が “後進国”ニッポンの実像」(NHK政治マガジン 2018年4月10日)
〝関東大震災時の朝鮮人虐殺「記録なし」の見解崩さず 松野官房長官〟(東京新聞 2023年9月1日)
〝100年前の関東大震災で叫ばれた「精神の復興」…その後の日本をどう変えたのか〟(読売新聞 2023年8月30日)
の記事の中に
「震災後の自警団。在郷軍人らを中心に組織されたが、朝鮮人が暴動を起こすといった流言飛語にのって虐殺などの異常行動に走ったこともあったとされる」(「大正震災画集晴帆画」東京都立図書館蔵)こころの時代~宗教・人生~「名も知れぬ死者を悼むために 西崎雅夫」
で、紹介されていた清川虹子さんの証言はこの本からだと思います。
清川虹子さんは、1912(大正元)年生まれです。
第二章――二つの地獄
私の少女時代の大事件といったら、やはりあの関東大震災です。
九死に一生を得る、という古いことわざのように人間の運命はわかりません。
淡路小学校が焼け落ちて、愛犬のマルが死んだのは悲しいことでしたが、それにも増して、熱風と火焔(かえん)の中、生まれる廃墟(はいきょ)の中で、人間の本性がまざまざとむき出しになるのに私は出合ったし、立ち会わせられたのです。
(『恋して泣いて芝居して』清川虹子 主婦の友社 昭和58年) 大正十二年九月一日、私は午前中図書館ですごし、お昼ごろ帰途(きと)につきました。
小川町のあたりまで来て写真館のウインドーに見惚れていますと、額入りの飾ってある写真が動き始めたので、通りの方を見ると、市電が時計の振り子みたいに揺れています。
私は近くの友人宅へ駆けこみました。
すると第二の揺れがぐらぐらときて、火の手がパッパッと上がり始めました。
私はまた走って小学校へ辿りつくと、もう父と母は荷物をまとめ逃げる支度をしていました。
「早く、早く逃げなきゃ……」 みんな持てるだけのものを持つことにして、私も大きな風呂敷包みを背負わされことになりました。
ところが火の手がもうそこまで来ているのにマルの姿が見えないのです。
マルは材木置き場になっていた広場の材木の下敷きになって、キャンキャンと吠えていました。
「マル! マル! マル」
私は材木をどけて何とか助け出そうとあせりましたが、子供の力ではどうすることもダメだとわかりました。
「早く行け。おれはあとから行くから……」
父にどやしつけられて、母は材木にしがみつく私をひきずるようにして、神田橋の方へ向かいました。
「マル! マル! マル」 私は何度も広場の方をふりかえりました。
火の手はあちこちに上がっていました。
荷物を背負った私たちのような人がたくさん通りにあふれて、うしろから先を争って押しよせてきます。
マルを助けたくて私がグズグズしていたので、神田橋の方向へ私たちは行けず、それで二人とも命拾いをしたのでした。
神田橋は焼け落ちてたくさんの人が川に落ち、火にまかれて死んだのは、私たちが上野の方へ向かった直後のことです。
マルが犠牲になって私たち母子を救ってくれたと思うのです。 上野公園まで逃げていく途中で、母も私も荷物を半分捨てることにしました。
歩きづめでくたびれきってしまってました。
道々、いろんな人、いろんなことに出合いました。
須田町の時計屋のご主人でしたが、肩や腰に古下駄ばかりたくさんぶらさげて歩いていました。
気が転倒していて、店の商品の時計を持ち出したつもりで、古下駄をさげていることに気がつかなくなっていたのです。 上野公園下、松坂屋の近くでは、果物屋さんが店頭のスイカを、
「さあさあ、どんどん持っていっていいよ、持っていきなさい」と、逃げまどう人々にくれていました。
わずか二、三軒先の菓子屋では、火がそこまできているのに、菓子を袋に入れ、ハカリにかけて売っています。
何という二つの店の違いでしょうか。
人間の明暗というか、我欲と思いやり、大震災で見たあの光景を私は忘れたことがありません。
松坂屋が焼け始め、あたりは火の海です。
母と私は西郷さんの銅像の前であとから来るはずの父を待ちましたが、いつまでたっても父はあらわれません。
九月一日の夜、私と母は、上野公園で夜を明かしました。
やっぱり父はやって来ないのです。
公園には、避難してきた人たちがごったがえしていて、私のそばには、日本髪のはなやかな着物でもそれとわかる、吉原のお女郎(じょろう)さんたちがいました。
おなかのすいた私が羨ましそうにしていたせいか、お女郎のお姐さんが、持っているお赤飯を分けてくれました。
残暑のきびしいときで、もらったお赤飯はもうスエていて、とても食べられません。
親切はうれしく、空腹でもあるのにがっかりして、そっと捨てました。
でも自分の食べる分を分けてくれた彼女たちのやさしさは、いまも私の心を和(なご)ませてくれるのです。
王子へ行くから一緒にどうか?と言ってくれるお女郎さんたちと別れて、母と私は上野にとどまり、父を待つことにしました。
あとで聞いたのですが、たくさんの吉原のお女郎さんたちが、本所の被服廠(しょう)でたくさん焼死体になったとか……。
私たちが上野で会ったお姐さんたち、ほんとうにたすかってよかった。
あれからも無事で、幸せな日が続いていてくれればなぁ……といまも思い出すのです。 父と再会したのは震災から三日目、上野音楽学校の中でした。
家族同士のカンのようなものが働いて出合えたのでしょうか。
被災者たちはそこで仮泊し夜露をしのいでいたのです。
炊き出しが始まり、玄米のお握りが一人一個ずつくばられました。
朝鮮の人が井戸に毒物を投げ入れたから、水は一切飲んではいけないと言われたのは、この日です。
朝鮮人が襲撃してくる、警戒のために男たちは全員出てくれ、どこからともなく言ってきて、父も狩り出されました。
いわゆる「自警(じけい)団」です。 だれが考えたのかわかりませんが、日本人は赤い布、朝鮮人は青い布を腕に巻くことになり、父は赤い布を巻いて出て行きました。
すると一時間ほどして、日本人は青で、朝鮮人は赤だとわかって、父がまちがって殺されてしまうと思い、私は泣き出してしまいました。
あとで、すべてはデマとわかりましたが、そのどさくさでは確かめようもなくて、こうして朝鮮人狩りが始まっていったのです。 朝鮮人を一人つかまえたといって音楽学校のそばにあった交番のあたりで、男たちは、手に手に棒切れをつかんで、その朝鮮の男を叩き殺したのです。
私はわけがわからないうえ恐怖でふるえながら、それを見ていました。
小柄なその朝鮮人はすぐにぐったりしました。
大震災のあとに起きたこうした事件のかずかずは、これに遭遇した人のいろんな本に、それぞれの体験として書かれていますが、それは火や激震そのものよりずっと恐ろしく、ぞっとする人間のドラマだったと思うのです。
…後略…
(『恋して泣いて芝居して』清川虹子 主婦の友社 昭和58年)
このあとも震災での体験が書かれています。
もう一つの地獄は両親の離婚です。今朝の父の一枚です(^^)/
イチジクの諺があります。
歯に衣(きぬ)きせぬ
相手におもねることなく思ったことを率直に言うこと
〔類〕身も蓋もない 〔反〕奥歯に物が挟まる
早い用例が室町期に見られるが、常用となるのは江戸期になってから。
江戸中期の近松門左衛門『津国女夫池(つのくにめおといけ)』(第1)に「諸人(しょにん)の軽薄(けいはく)裸にして、歯に衣きせずぞ申しける」とある。
江戸期でもすでに常用のものであったが、戦後になるとさらに使われ常用度は5.
外国のものは、鋤・猫・虫・実・パンなど人体の部分ではないものを使った例が目立つが、なかには「肝に閉じ込めず言う(ドイツ1番目)」「腸がまっすぐ尻の穴へ抜ける調子のしゃべり(台湾)」といった例があったり、特色のある「面と向かって緑色なことを言う(ルーマニア)」と言ったりするものもあり、多様な表現を見ることができる。
古典ギリシア語 イチジクをイチジク、飼い葉桶を飼い葉桶と呼ぶ。
…後略…
(『世界ことわざ比較辞典』 日本ことわざ文化学会編、時田昌瑞、山口政信監修、岩波書店 2020年)
追記)渡邉英徳さんの投稿
80年前の今日。
1944年9月3日、アンネ・フランクがアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所に移送された。
翌年3月に亡くなったとされる。
この動画は、アンネが写っている唯一の映像。
10秒過ぎ、二階から身を乗り出している少女がアンネ。
(アンネと現イスラエルと同一視してはいけないと思います。
イスラエルの残虐行為によって反ユダヤ主義が広まるのを危惧します)