もう6月も終わり、1年の折返しになりました。
今朝は、梅雨らしい雨がシトシト降っていて蒸し暑かったです。
でも、これから大雨が降るかもしれない
「近畿 7月2日にかけ大雨のおそれ 土砂災害に十分注意を」(関西NHK)ムクゲは、夏が来たと思う花の一つです。
ムクゲ 木槿
アオイ科フヨウ属
古名 蕣(きはちす)
別名・異称 はちす・きはちす
『和名類聚抄』 蕣=木波知春(きはちす)
ムクゲは一つひとつの花が、朝咲いて夕べにしぼむ、と思われていました。
実際には、夜しぼんでも翌朝また開き、三日ほど保ちます。
(『有職植物図鑑』八條忠基 平凡社 2022年) キハチス
ムクゲは「木槿」の音読みが変化した発音と『大和本草(やまとほんぞう)』にありますが、朝鮮半島を経て日本に渡来した植物であるため、朝鮮での名称「無窮花」を日本風に発音してムクゲになったという説も有力です。
『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』の「蕣」には「和名キハチス」とあります。
「草木部・蓮類」のところに記され、説明も「地蓮花。朝咲いて夕に落ちるもの」とされています。
どういうわけかハスの仲間と思われていたようです。
ムクゲはアオイ科フヨウ属ですが、同じフヨウ属のフヨウ(学名:Hibiscus mutabilis )の「芙蓉」はハスの花の美称でもあります。
ここからフヨウがハスの仲間に分類され、同じ属の植物であるムクゲが「木ハチス」ということになったのでしょうか。
(『有職植物図鑑』八條忠基 平凡社 2022年)ムクゲ(ムングファ)は韓国の国花。
朝ドラ「虎に翼」第13週「女房は掃きだめから拾え?」 (65)
おにぎりは、梅子さんからだと察したのだろうなぁ
ヒャンちゃんが仲間と語り合う日が早くきますように!
(梅子さんは、明日から大庭梅子でなく竹原梅子)
寅子が茨田りつ子の裾を直したのですが
りつ子から「下手ねえ…。」
「あなたと同じ。この仕事が好きなの。で、裁縫は苦手。」
ブギウギの茨田りつ子が登場したのは寅子の背中を押してくれる役割だったのだと思います。
福来スズ子が登場するとしたら花江の肩をポンと叩いて「肩の力を抜きなさいよ」と言ったかも。
再登場が待たれるのが凉子と玉です。
戦後1947年、日本国憲法の施行と同時に華族制度は消滅します。
京都の冷泉家も華族でした。
(「冷泉家時雨亭文庫だより」) 6月―夏越の祓―千歳の命延ぶといふなり
父が存命中でした戦前までは、夏に禊祓(みそぎばら)いを2回行なっておりました。
新暦の6月30日には、12月の年越しの大祓いと同じ禊祓いを上の間(かみのま)の床の間に神籬(ひもろぎ)を立てて、御酒御饌(みきみけ)を供えて行なっておりました。
やはり12月と同じように白い狩衣に身を改めた父が、祓い串を手に、「オー」と神降しをした後、「かけまくも畏(かしこ)き大神の御前に……罪、穢(けが)れを祓いたまえ、浄めたまえ……」と奏上していたことを覚えています。
(『冷泉布美子が語る京の雅―冷泉家の年中行事』聞き手南里空海 集英社 1999年) この夏の祓いから約一か月後、土用の明ける日、旧暦の6月30日に「夏越の祓(なこしのはらい)」を行なっていました。
これは、一年の上半期の間に犯した罪や穢れを祓い、新たなる神の気をいただく行事と聞いております。
この二つの禊祓いは、父が亡くなりましてからは、新暦の6月30日に「夏越の祓」だけを行なうようになり、それが今日に続いてきております。
大祓いは、年1回、12月31日の年越しの日だけとなっております。 この「夏越の祓」は、上の間の連子窓(れんじまど)の前に机を出して、江戸時代のもといわれているいかにも古い感じの瓶(かめ)に水を張って机の上に置きます。
庭に自生しているススキの葉二枚を使って十字の人形(ひとがた)を作ります。
長いススキの葉を折り、短めの葉を折りながら縦横に重ねて、真ん中を麻の葉でちょんと留めてできあがりです。
それを各自が作って、脚のないへぎに並べ置きます。 昔は年中行事に必要なものは、この庭に植えてありました。
七夕の時に使う梶の葉も庭にあり、今日(こんにち)も、それを使って行事を行なっております。
〝夏越〟用の麻は、戦後植えることを禁止されてしまいましたが、それよりも何よりも、戦時中の食糧難によって、庭が菜園と化したことにより、庭から麻が消えたといったほうが正しいかと思います。 戦時中、庭がかぼちゃ畑に
1944(昭和19)年、戦争が激化し、食糧もいよいよ困窮してまいりました頃、庭のあっちこっちを掘り起こし、かぼちゃ、きゅうり、なすび、トマト、大根、じゃがいもなど所狭しとつくったものでした。
なぜか、さつまいもだけは庭に合わなかったとみえて、植えても植えても芽が出ませんでした。
戦後ずいぶん経ってから、姉が遊びに来て、庭を見ながら「芝生がなくなったなあ」と申しますから、「みんなかぼちゃになったの」と、笑ったものです。
池の周りの空き地にもかぼちゃを植えて、一時期、100個も収穫したことがありました。 農業のことなどまったく知らない私に、手ほどきをしてくれたのが、戦時中、最後まで我が家にいた女中と、華族会館の用務員のおじさんでした。
そのおじさんが、「冷泉さんのお嬢さん、かぼちゃの芽が出たら、何番目の葉を摘むと大きなかぼちゃが実りますよ」とか、肥料には鶏ふんがいいとか、いろいろ親切に教えてくれましたので、ニワトリを飼い、毎日ふんを取るためにニワトリ小屋の掃除をしては、土にそのふんを与えたり、灰がいいというので灰もつくったり……。 母の生まれ育った家は京阪間の田園地帯にある水無瀬神宮でしたから、農家の暮らしを見知っていて、「うちのようにこんな掃除の行き届いたニワトリ小屋は見たことないわ」と感心するほど、私はせっせと鶏ふんを集めては菜園に運んでおりました。
つばの広い帽子を被り、モンペをはいて働く私を、何もしたことのない母が、「偉いもんやなあ」とやはり感心し、父は、人がお見えになると、「布美子がつくったきゅうりです」と自慢しておりましたが、結局、二人とも、いっさい手伝うことはありませんでした。 かぼちゃはお米の代用として、毎日三回食卓にのぼりました。
関東風にいえば煮るということになりますが、甘辛く炊きたくとも甘味の砂糖など手にはいりません。
そこで、ちょっと塩か、醤油で味つけをしただけのものをいただいておりました。
父は、このかぼちゃが嫌いでなかなか食べませんでしたが、最後には食べるようになりました。
それほど食糧の状況が逼迫(ひっぱく)していたということで、好き嫌いでは済まされなくなって、しかたなしに食べておりました。 戦争が終わっても食糧状況はよくなるどころか、いっそう深刻になる中で、私にとって庭の野菜づくりは結構楽しく、今の流行(はやり)言葉でいえば、ハマってしまったようなところがありました。
街に食糧が出はじめてからは、野菜づくりから花づくりにと変わり、いろんなお花を咲かせてきました。
今は、牡丹づくりに夢中で、これも、今の言葉でいうところの、ガーデニングに夢中というところでしょうか。
話がすっかり横道にそれてしまいましたが、戦時中の食糧難によって庭が一変したのは我が家だけではなく、大袈裟にいえば日本中の庭が、かぼちゃやさつまいもなど、代用食用の畑と化していった時代なのです。
(『冷泉布美子が語る京の雅―冷泉家の年中行事』聞き手南里空海 集英社 1999年)
もしかしたら玉が凉子を助けてあげているかもしれませんね。今朝の父の一枚です(^^)/
ヤブカンゾウを写していました。
ノカンゾウ
…前略…
江戸時代には、多くの植物が品種改良され園芸化されたが、花が美しいにもかかわらず、カンゾウ類は手がつけられていない。
あまりにもあちこちに咲くので、珍しがられなかったためかもしれない。
ところが、これに目をつけたのが欧米の人達で、向うではかなり前から注目されて、幾つもの園芸品種ができていたが、近年、アメリカでは人気ベストテンに入る花として盛んに品種改良が行われている。
アマリリスのような巨大輪種や、弁周に洒落たフリルのあるもの、花色もオレンジや黄色のほか、真っ赤なもの黒紅色のもの、優美なサーモンピンクや白に近いもの、近頃ではくすんだ色で美しいとは云えないが、紫色系の品種までできているし、ミニ・カンゾウとも云える小輪種や豪華な八重咲き種もある。
最近、これらの改良種が続々と輸入され、市販されるようになった。
その元はと云うと、中国産種もあるが、日本産種が多い。
まさに錦を飾って故郷へ帰ってきたと云ってよかろう。
(『柳宗民の雑草ノオト』毎日新聞社 2002年)