2024年6月10日月曜日

遅れているみたい…

三歳くらいの男の子がプンプン怒っていました。
と言うのは、風車が回っていないとご機嫌斜め。
お父さんが困っていたので
10時頃に風車が回るよと声をかけてあげると喜んでいました。

昨日、雨が降っていて四国地方が梅雨入りしたのだけど
関西地方はまだのようですね

“四国地方が梅雨入り” 去年より11日遅く 平年より4日遅く」(NHK 7月9日)
朝ドラ「虎に翼」第11週「女子と小人は養い難し?」 (51)
論語からきている諺なんですが…

レッスン17 陽貨(ようか) 
459 子曰く、唯だ女子と小人とは養い難しと為すなり。これを近づくれば不孫、これを遠ざくれば怨む。

「妾(めかけ)と奴隷は、ほんとうに扱いにくい。優しくすればつけあがるし、かといって、邪険に扱うと、すねるしキレるからね」
(「一億三千万人のための『論語』教室」 高橋源一郎 河出新書 2019年)
(センセイの、この「女子と小人とは養い難し」発言、ポリコレ的にどうなのかなと思ってました。こんなこといったら、炎上確定でしょう。でも、どうやら、この「女子」は、女性一般ではなく、「妾」説と、性格を含めた「気まぐれな女」説があるようです。いずれにせよ、センセイは、女性が苦手だったことは事実のようですね。というか、優れた女性哲学者や女性思想家と対話したらどんなことになったのでしょうか。センセイ対スーザン・ソンタグ、とかセンセイ対上野千鶴子さん、こんなの読んでみたいのですが)
(「一億三千万人のための『論語』教室」 高橋源一郎 河出新書 2019年)

スーザン・ソンタグ」(みすず書房)
以前、減らず口の小橋の根性をたたき直すために
よねの登場を期待していると書いたのですが、轟を蹴っていましたね(^_-)
轟とよねの場面が続いていていろんな社会的背景がせりふの中に出ていました。

よね)ほれてたんだろ 花岡に。
花岡と最後に会った時 そう思った。


轟)お前… 何をバカなこと言ってんだ!

よね)バカなことじゃないだろ。
ほれた腫れたはカフェで死ぬほど見てきたからな。

……

主題歌が流れている中で「ジェンダー・セクシュアリティ考証 前川直哉

同性愛がタブー視されるようになったのは明治になってからです。
富国強兵政策によって女性蔑視だけでなく、同性愛もタブーとなったのだと思います。
ロシアで同性愛者が厳しく取り締まられているのも同じだと思う。
 「朝鮮文化考証 崔誠姫」に再登場を期待している人がいます(^_-)

よねが
読んだか? 新憲法。
ずっと これが欲しかったんだ 私たちは。
男も女も 人種も 家柄も
貧乏人も金持ちも上も下もなくて横並びである。
それが大前提で当たり前の世の中が。


これは自分たちの手で手に入れたかったものだ。
戦争なんかのおかげじゃなく。


この頃、男女平等を誰が書いたのかは、極秘で知らされていませんでした。
婦人参政権を獲得するために活動を続けていたのが
 「アメリカでの市川房枝先生」つづき

 アメリカのフェミニズム運動が活発になるのは60年代だが、この頃も女性の運動はあった。
会見の数日後、連日、過激な女性たちの運動の顚末が、新聞に揶揄をこめて取り上げられた。
運動グループが、ブラジャーを山のように積み上げ、それに火を点(つ)けたという記事を読んだ時、私は、
「なにもこんなことまでしなくてもいいのに。世の中は、男と女しかいないのだから仲良くやるべきで、女が男になろうとしてもできないのに」
 と言った。
すると、先生はゆっくりと首を振った。
「確かにそうですよ。でも女性たちが世の中の不平等に抗議していることを人々に印象づけるためには、これもひとつの方法なのです」
 先生はどこまでも女の味方だった。
(『1945年のクリスマス』ベアテ・シロタ・ゴードン 著 、平岡 磨紀子 構成・文 朝日文庫)
 先生は視察するだけでなく、女性のサークルや大学で「日本の女性」というテーマで講演もされた。
それまで日本といえば富士山、芸者しか知らず、日本の女性は弱々しく自分の意見を持っていない、と思っていたアメリカ人たちには、先生の話は驚きの連続だった。
先生が「日本には女医がいます」と言っただけで、聴衆からホオーと溜め息がもれた。
私のミルズ・カレッジ時代の日本認識と少しも変わっていないのだった。
聴衆にとって、直接日本女性から話を聞くのは初めてのことだったし、その内容は今まで書かれていたものと違っていたので、先生の話はとても新鮮だった。
 市川先生はスケジュールを確実にこなしていった。
ところが、1月になってピンチが訪れた。
先生はアメリカに着いた時から34代目の大統領に就任したアイゼンハワーの夫人との会見を申し込んでいたが、秘書がまちがって大統領その人に会見の時間をとったのだ。
 先生はびっくりして「大統領夫人に会わせてほしい」と言ったが、秘書は「あなた方は明日、11時にコモドーア・ホテルに来なさい。会見時間は10分です。大統領は忙しい方なので、10分間を厳守してください」と冷たく事務的に突き放した。
 アイゼンハワーは11月に当選し、まだホワイトハウスに入っていなかったので、ホテルで会見ということになったのだ。
私たちは慌てた。
1月2日の時点で、アジア人で大統領と会見した者はいなかったので、大きなチャンスではあったが、しかし会見相手が違ったので、質問を用意していない。
時間はない。
 先生は考えこんでおられる。
私は、自分たちを助けてくれる人物を必死に頭のなかでさがす。
閃いた。
政治記者だ。
私は日本の新聞社のワシントン支局に電話を入れた。
朝日、毎日、読売の支局長に「大統領に尋ねてほしい質問事項はないか」と電話をすると、たちまち質問が集まった。
それを市川先生と整理し、質問する順位をつけた。
与えられた時間はわずか10分、こうなればできるだけ大統領にたくさん質問して、回答がほしい。
 そこで、市川先生が質問する事柄は英語に直して私がしゃべり、大統領の返事だけを翻訳することを決めた。
私たちは10分間を最大限に使うためにリハーサルをした。
長い夜だった。
 翌日、あらかじめ英語に訳した質問事項を大統領秘書に渡し、会見に臨んだ。
 大統領の部屋はコモドーア・ホテルの6階になって、廊下にはFBIが立っていた。
 通された応接室は、これが世界一お金持ちの国の大統領の部屋かと思うほどせまくて、飾り気がなかった。
秘書に再び「10分間だけですよ」と念を押された。
 秘書が言い終わらないうちに、大統領が現われた。
一瞬濃密な空気で、部屋が縮んだような錯覚にとらわれたが、それはほんの2、30秒のことだった。
 大統領は笑顔で、直立不動の姿勢で立っている市川先生に椅子を勧めた。
私は、先生との打ち合わせ通り、朝鮮動乱の見通しを質問した。
大統領の回答は明快だった。
「朝鮮動乱は日本にとってよい教訓になるだろう。韓国が無防備状態におかれた瞬間、北朝鮮軍は韓国に侵入した。日本国民は、この事実を肝に銘じておくべきだ。自由諸国はすべてまず自分自身で自国を守る責任をとらなければならない。朝鮮動乱がどう処置されるかついては誰も予言できない」
 といった返事だった。
大統領の顔をじっと見つめていた先生は、
「日本人にとって戦争の記憶は今なお新しいもので、日本人の多くは武器をとるという気持ちになっていませんが……」
 と切り返された。
 すると大統領は「それはわかる」と言いながらも、
「問題は独立と自由をいかに維持するかである。共産主義を受け入れるということは、モスクワの支配下に入ることを意味するのですよ。もし日本が自由を守りたいなら、日本人はまず自らその手段を講じなければならない」
 と、つき放した。
しかし大統領は、「もちろん、われわれは自由諸国を援助したいが……」と言葉をつけ加えた。
それが世界に君臨するアメリカの考えだった。
 私たちは、中国貿易や、増加している日本の人口問題について質問した。
その一つひとつの問いに大統領はていねいに答えた。
たえず微笑みを浮べ、まるで物わかりのいいビジネスマンのそれだった。
しかし答えの内容は、微笑みとはかけ離れたものだった。
 時計をみると10分をすぎていた。
しかし市川先生は、大統領の答えに対して次の質問をする。
私はそれを通訳するが、気が気でなかった。
すでに18分を経過していた。
 20分になった時、市川先生は、
「アメリカ大統領はアメリカだけの大統領ではなく、事実上、自由世界最高の指導者であり、この意味で日本国民は、あなたに期待することは大きいのです」
 と、最後の言葉を述べた。
私は安堵した。
先生は用意していった質問をすべて終わっていたのだった。
帰り際に、大統領は私にも握手をして、「あなたはどこで日本語を覚えたのですか? 私が聞いた中で一番うまい日本語でしたよ」と、ほめてくれた。
 私は、会見の内容と一緒に、そのことも夫に報告した。
「大統領は全く日本語の知識のない人ですよ。日本語の上手、下手がわかるはずがない。お世辞ですよ」
 夫に笑われても、私は会見を無事終えた満足感で、その夜は興奮してなかなか寝つかれなかった。
 …つづく…
(『1945年のクリスマス』ベアテ・シロタ・ゴードン 著 、平岡 磨紀子 構成・文 朝日文庫)
今朝の父の一枚です(^^)/
アオノリュウゼツランがもうじき花を咲かせると喜んでいました。

よねが「佐賀に帰らないのか 墓参りに。」と言ったときに
轟が「どこで祈ろうと届くだろ。
骨がある場所じゃなきゃ届かないなんて死んでいった仲間たちが浮かばれない。


石垣りんさんの詩を一部省略して転記します。

 兵士の世代

聞くところによると
黒田三郎さんは
誰も気付かぬ間に息絶えていたという。
看護婦さんが気付いたとき
既に死後硬直が始まっていて
開いた瞼を完全に閉じさせるのが
むつかしかったという。

通夜から帰った後で
そのことを会田綱雄さんに電話で伝えると
いい死に方だねえ
黒田君のいいとこだねえ
と言い、私は
私もそう思いました、と答えた。

医者も看護婦も設備もすっかりそろっている
都内の大病院で
妻も二人の子もいて
どうしたらそんな遠い時間
そんな手の届かない場所を
選ぶことが出来たのか。

…中略…

行年六十歳
昭和五十五年一月八日のその旅と
黒田さんが若い日
戦争中に旅立って行った
南方への船旅とを、私は重ね合わせる。
大日本帝国がおびただしい人間を外地に送り
戦火にさらした
多くが看取られることなく倒れて行った
その死と
平和な今日の死とを重ね合わせる。

…中略…

黒田三郎さんの死を
誰が見届けたと言うのか。
私も見なかった
誰も見たと言うな。
黒田三郎さんの死は遠すぎる
あなたの死の現場はあまりに遠すぎる。
(『石垣りん詩集』伊藤比呂美編 岩波文庫 2015年)