天気予報を見ているとこれから梅雨前線が北上して
近畿地方も大雨になるかもしれない
「九州北部・山口 今夜~あす午前 線状降水帯おそれ 警戒を」(NHK)
追記
「近畿は28日大雨か 交通影響に注意 最新情報の確認を」(関西NHK)
二日もこないと蕾だったヤブカンゾウが咲き出しました。
ノカンゾウ
…前略…
ノカンゾウは漢字で書くと野萱草であるが、萱草とは、この仲間の八重咲き種のワスレグサ、通称ヤブカンゾウのこととされている。
昔、中国では、この花を見ると憂さを忘れると云われ、忘れるという意味の「萱」の字をとって萱草と呼んだという。
ワスレグサの名もそこから来ている。
(『柳宗民の雑草ノオト』毎日新聞社 2002年) さて、このヤブカンゾウ、元々は中国原産で、いつの時代にか、何の目的あってか、わが国へ渡来し、各地に居着いてしまった古い帰化植物の一つらしい。
ところが、一つ不思議なことがある。
この植物、八重咲きであると共に、全く種子をつけない不生女(うまずめ)植物なのである。
渡来後、どのようにして全国に広まったのだろうか。
同じように中国から渡来し、種子がならないヒガンバナは、その澱粉を利用するために人手によって広がったことが解っている、このワスレグサには、どう考えてもそのような有用性がない。
…後略…
(『柳宗民の雑草ノオト』毎日新聞社 2002年)朝ドラ「虎に翼」第13週「女房は掃きだめから拾え?」 (64)
凡人には思いもつかない展開でした(°0°)
梅子さんが引用したのが民法第730条
「直系血族及同居の親族は互いに扶(たす)け合わなければならない」
これはあの帝大の神保教授が最後までこだわった条文だったと思う。
「日本国憲法改正草案 Q&A」(自由民主党)では、憲法にも入れようとしている。
Q19「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」
助け合わなければならないといいながらも負担を女性に押しつけようとしている。
昨日までの展開で光三郎、姑と三人で暮したら姑の世話を押しつけられると心配したけど
梅子さんの「ご機嫌よう!」でスカッとしました。
國本依伸さんの投稿
梅子は常にとって姻族なので血族ではなく、家を出れば「同居の親族」でもなくなるので、常を扶助する義務はありません。
他方、徹太たちは常の「直系血族」です。
初めての放送は昭和2年(1927)1月15日午前10時、家庭の時間で、わたしの題は、「童話を通じての家庭教育」、婦人向けの放送全部の主任は時事新聞から放送局へ移った大沢豊子女史だった。
家庭の時間が確か30分だったと思う。
とにかく、わたしの放送の長さは正味(しょうみ)25分というのだった。
この放送を最初としてその後、なんべん放送をしたか、憶(おぼ)えはないが、なぜ、この最初をこんなにはっきり憶えているかと言えば、それはわたしの今日までの生涯でいちばん悲しかったことと連なりを持っているからである。
(『想像の翼にのって』村岡花子 河出書房新社 2014年) 35年前のあの朝、わたしが放送に立った瞬間、(これは文字どおり「立った」のである。あのころは講演放送と言えば誰でもマイクの前に直立したものだった)ありありと眼の前にうかんだのは五つになる男の子の姿だった。
わが家の茶の間にきちんとすわったその子は両方の耳にイヤホーンを入れてラジオに聞き入るのだった。
イヤホーンと言っても今のようなトランジスターラジオについたスマートなもんではなく、初期のラジオのぶかっこうのものだった。
試験放送時代が過ぎてまもないころであった。
しかも、その子はわたしが初めて放送したあの1月15日の前年大正15年9月1日の早朝、五歳をこの世の秋の名残として去ったのである。
越えて翌年の1月、大沢女史から放送の依頼を受けて初めてあの愛宕山の放送局というところへ行ったのだから、その日のことはいつになっても忘れられない。 それからあとのことは、雑然とした記憶になってしまったから、愛宕山にいたころのことだか、内幸町へおりて来たころのころだか、はっきりしないが、とにかく昭和7年6月1日、わたしが「子供の新聞(*)」というものを初めて放送したときよりあとの一冬のこと、確か12月も末のころだったが、アメリカ大統領の演説が放送された。
それがこちらでは午前6時ごろに当った。
放送局ではそれを日本中に放送するということになり、わたしもその翻訳に動員された。
朝5時に迎えの自動車が来て局へ行くと、ずらりと並んだアメリカ人の婦人タイピストが、機械を前に今やおそしと待ち受けている。
レシーバーを両耳にはさみ、指はタイプライターの上に、という姿勢である。
わたしも設けられたテーブルの前に腰をおろし、えんぴつを手にとった。 やがて放送がはじまると、タイピストたちは耳に聞くままに指さきでタイプに打つ。
一枚打ち終わると直ぐそれがわたしのところにまわって来る。
二枚、三枚、四枚と、わたしはそれを翻訳する。
しばらくすると、今は故人の和田アナウンサーがその部屋にはいって来て、わたしの訳稿を取り、放送室へ飛んで行く。
時まさに午前7時、朝のニュースであった。
その朝早く聞いたアメリカ大統領の演説の訳を7時のニュースで伝えたのが、めざましい早わざであったのだ。 今日のように同時にその肉声そのまま放送するに比べたら、古い言いぐさだが、まさに隔世の感がある。
わたしは長いあいだ翻訳を仕事し、数十冊の英語本を邦訳しているが、あの冬の朝うす暗いうちに米国婦人タイピストたちと共同で仕上げた演説の翻訳は、口で同時翻訳をする以外には、最も急速に仕上げた仕事である。 もう一つはっきり記憶に残っているのは昭和16年12月8日、太平洋戦争ぼっ発の日、JOAKから電話で「今夜のニュースは勇ましいので男の声でしますからお出でにならないで」ということ。
ところが、わたしはわたしで「もう行きません」と決心していたのである。
そしてつぎの日わたしは辞表を出して、それぎり「子供の新聞」をやめた。
(『NHK放送文化』1961年[昭和36]3月 日本放送出版協会)
*「子供新聞」:JOAK(NHKの前身)のラジオ番組「子供の時間」の一コーナー。
村岡花子は昭和7年(1932)6月より出演し、「ラジオのおばさん」として全国で親しまれる。
(『想像の翼にのって』村岡花子 河出書房新社 2014年)「日本回顧録 太平洋戦争開戦前夜」(NHKアーカイブス 1964年)
「コドモの新聞」(NHKアーカイブス 1932年度)
写真家の土門拳さんもお子さんを亡くされたことを書いておられます。
二日もこないと蕾だったヤブカンゾウが咲き出しました。
ノカンゾウ
…前略…
ノカンゾウは漢字で書くと野萱草であるが、萱草とは、この仲間の八重咲き種のワスレグサ、通称ヤブカンゾウのこととされている。
昔、中国では、この花を見ると憂さを忘れると云われ、忘れるという意味の「萱」の字をとって萱草と呼んだという。
ワスレグサの名もそこから来ている。
(『柳宗民の雑草ノオト』毎日新聞社 2002年) さて、このヤブカンゾウ、元々は中国原産で、いつの時代にか、何の目的あってか、わが国へ渡来し、各地に居着いてしまった古い帰化植物の一つらしい。
ところが、一つ不思議なことがある。
この植物、八重咲きであると共に、全く種子をつけない不生女(うまずめ)植物なのである。
渡来後、どのようにして全国に広まったのだろうか。
同じように中国から渡来し、種子がならないヒガンバナは、その澱粉を利用するために人手によって広がったことが解っている、このワスレグサには、どう考えてもそのような有用性がない。
…後略…
(『柳宗民の雑草ノオト』毎日新聞社 2002年)朝ドラ「虎に翼」第13週「女房は掃きだめから拾え?」 (64)
凡人には思いもつかない展開でした(°0°)
梅子さんが引用したのが民法第730条
「直系血族及同居の親族は互いに扶(たす)け合わなければならない」
これはあの帝大の神保教授が最後までこだわった条文だったと思う。
「日本国憲法改正草案 Q&A」(自由民主党)では、憲法にも入れようとしている。
Q19「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」
助け合わなければならないといいながらも負担を女性に押しつけようとしている。
昨日までの展開で光三郎、姑と三人で暮したら姑の世話を押しつけられると心配したけど
梅子さんの「ご機嫌よう!」でスカッとしました。
國本依伸さんの投稿
梅子は常にとって姻族なので血族ではなく、家を出れば「同居の親族」でもなくなるので、常を扶助する義務はありません。
他方、徹太たちは常の「直系血族」です。
殿様判事(久藤頼安)が「愛のコンサート」に出演する歌手をある方に依頼していましたね。
「家庭裁判所普及会」のポスターのモデルを内藤頼博がある有名な女優に依頼しています。
また、ラジオ番組も実際に収録されています。
詳しくは『家庭裁判所物語』を参照してください。
ドラマでは代議士立花幸恵と対談していましたが、本を読むと村岡花子さんだったそうです。
対談が実現したいきさつも本に書かれています。
ラジオ番組に「花子とアン」の主人公が出れば…(^_-)
村岡花子さんは、ラジオ放送が始まったころから出演されています。
「家庭裁判所普及会」のポスターのモデルを内藤頼博がある有名な女優に依頼しています。
また、ラジオ番組も実際に収録されています。
詳しくは『家庭裁判所物語』を参照してください。
ドラマでは代議士立花幸恵と対談していましたが、本を読むと村岡花子さんだったそうです。
対談が実現したいきさつも本に書かれています。
ラジオ番組に「花子とアン」の主人公が出れば…(^_-)
村岡花子さんは、ラジオ放送が始まったころから出演されています。
村岡さんも「翼」をもっていました。
初めての放送初めての放送は昭和2年(1927)1月15日午前10時、家庭の時間で、わたしの題は、「童話を通じての家庭教育」、婦人向けの放送全部の主任は時事新聞から放送局へ移った大沢豊子女史だった。
家庭の時間が確か30分だったと思う。
とにかく、わたしの放送の長さは正味(しょうみ)25分というのだった。
この放送を最初としてその後、なんべん放送をしたか、憶(おぼ)えはないが、なぜ、この最初をこんなにはっきり憶えているかと言えば、それはわたしの今日までの生涯でいちばん悲しかったことと連なりを持っているからである。
(『想像の翼にのって』村岡花子 河出書房新社 2014年) 35年前のあの朝、わたしが放送に立った瞬間、(これは文字どおり「立った」のである。あのころは講演放送と言えば誰でもマイクの前に直立したものだった)ありありと眼の前にうかんだのは五つになる男の子の姿だった。
わが家の茶の間にきちんとすわったその子は両方の耳にイヤホーンを入れてラジオに聞き入るのだった。
イヤホーンと言っても今のようなトランジスターラジオについたスマートなもんではなく、初期のラジオのぶかっこうのものだった。
試験放送時代が過ぎてまもないころであった。
しかも、その子はわたしが初めて放送したあの1月15日の前年大正15年9月1日の早朝、五歳をこの世の秋の名残として去ったのである。
越えて翌年の1月、大沢女史から放送の依頼を受けて初めてあの愛宕山の放送局というところへ行ったのだから、その日のことはいつになっても忘れられない。 それからあとのことは、雑然とした記憶になってしまったから、愛宕山にいたころのことだか、内幸町へおりて来たころのころだか、はっきりしないが、とにかく昭和7年6月1日、わたしが「子供の新聞(*)」というものを初めて放送したときよりあとの一冬のこと、確か12月も末のころだったが、アメリカ大統領の演説が放送された。
それがこちらでは午前6時ごろに当った。
放送局ではそれを日本中に放送するということになり、わたしもその翻訳に動員された。
朝5時に迎えの自動車が来て局へ行くと、ずらりと並んだアメリカ人の婦人タイピストが、機械を前に今やおそしと待ち受けている。
レシーバーを両耳にはさみ、指はタイプライターの上に、という姿勢である。
わたしも設けられたテーブルの前に腰をおろし、えんぴつを手にとった。 やがて放送がはじまると、タイピストたちは耳に聞くままに指さきでタイプに打つ。
一枚打ち終わると直ぐそれがわたしのところにまわって来る。
二枚、三枚、四枚と、わたしはそれを翻訳する。
しばらくすると、今は故人の和田アナウンサーがその部屋にはいって来て、わたしの訳稿を取り、放送室へ飛んで行く。
時まさに午前7時、朝のニュースであった。
その朝早く聞いたアメリカ大統領の演説の訳を7時のニュースで伝えたのが、めざましい早わざであったのだ。 今日のように同時にその肉声そのまま放送するに比べたら、古い言いぐさだが、まさに隔世の感がある。
わたしは長いあいだ翻訳を仕事し、数十冊の英語本を邦訳しているが、あの冬の朝うす暗いうちに米国婦人タイピストたちと共同で仕上げた演説の翻訳は、口で同時翻訳をする以外には、最も急速に仕上げた仕事である。 もう一つはっきり記憶に残っているのは昭和16年12月8日、太平洋戦争ぼっ発の日、JOAKから電話で「今夜のニュースは勇ましいので男の声でしますからお出でにならないで」ということ。
ところが、わたしはわたしで「もう行きません」と決心していたのである。
そしてつぎの日わたしは辞表を出して、それぎり「子供の新聞」をやめた。
(『NHK放送文化』1961年[昭和36]3月 日本放送出版協会)
*「子供新聞」:JOAK(NHKの前身)のラジオ番組「子供の時間」の一コーナー。
村岡花子は昭和7年(1932)6月より出演し、「ラジオのおばさん」として全国で親しまれる。
(『想像の翼にのって』村岡花子 河出書房新社 2014年)「日本回顧録 太平洋戦争開戦前夜」(NHKアーカイブス 1964年)
「コドモの新聞」(NHKアーカイブス 1932年度)
写真家の土門拳さんもお子さんを亡くされたことを書いておられます。
下町のこどもたち 死んだ子 その子はけっしてお菓子をムシャムシャ食べない子だった。 いっしょに同じお菓子をもらったお姉さんたちがたちまち食べてしまって、手持無沙汰でいる時分に、舌の先でしゃぶりつくされて、今や頃合いのやわらかさになったのを、一人楽しくペロリペロリとしゃぶっている子だった。 戦争であまいものもなかった。 時たまもらった一つのお菓子をできるだけ長く、できるだけおしく、できるだけ楽しもうとして、自然に発明したその子の食べ方だった。 (『土門拳 腕白小僧がいた』小学館文庫 2002年) |
ぼくは仏像の写真を撮るために、日本中を旅していた。 宿屋でたいてもらうために、何日分もの配給米を入れた重いリュックをしょって、バスも通わなくなった田舎道を歩いていた。 村には必ず荒物屋兼業の駄菓子屋があった。 もしや売れ残っているアメ玉でもないかと思って、必ずのぞいてみるのだが、絶対になかった。 口に入るものとしては、たまにニッケがあるだけだった。 日本中の津々浦々の駄菓子屋という駄菓子屋にはアメ玉一つ、塩センベイ一枚も残っていないのだった。 全く考えられないことだった。 それが戦争というものだった。 すべてのお菓子の製造を中止させてしまった。 そして「軍公用」という言葉がすべてに優先してのさばっていた。 |
あの子は四つか五つの、お菓子が何よりも欲しい年頃に、お菓子が食べられなかった。
ごはんするたまにしか食べられなかった。
来る日も来る日も大豆のゆでたのにショーユをかけて、サジで食べていた。
そして戦争がすんで、やっとお菓子も自由に食べられるかと思ったら、ほとして死んでしまった。
幼稚園へ入った年の夏、六つで死んでしまった。
(『チャイルドブック』1960年9月号 注・土門拳は1947年8月に、次女を自宅近くの防火用水に落ちるという不慮の事故で亡くしている)
(『土門拳 腕白小僧がいた』小学館文庫 2002年)
「土門拳記念館」(山形県酒田市)
ごはんするたまにしか食べられなかった。
来る日も来る日も大豆のゆでたのにショーユをかけて、サジで食べていた。
そして戦争がすんで、やっとお菓子も自由に食べられるかと思ったら、ほとして死んでしまった。
幼稚園へ入った年の夏、六つで死んでしまった。
(『チャイルドブック』1960年9月号 注・土門拳は1947年8月に、次女を自宅近くの防火用水に落ちるという不慮の事故で亡くしている)
(『土門拳 腕白小僧がいた』小学館文庫 2002年)
「土門拳記念館」(山形県酒田市)