今朝は、青空が広がりましたが
週間予報を見ていると、もうまもなく梅雨入りになりそうで
「京都府内は朝に一時雨強まる 21日から再び大雨のおそれ」(京都NHK 6月18日)
朝ドラ「虎に翼」第12週「家に女房なきは火のない炉のごとし?」 (58)
はるの言葉
「慣れてないのよね、誰かに優しくされることに」
浮浪児(ふろうじ)
用語解説
1945年の秋頃から、破れ汚れた服で、裸足の格好という浮浪児たちが上野駅にたむろし始めた。
通称ノガミ(上野)は、買い出しの列車の発着点であり、浮浪児たちにとって、食べ物を恵まれたり奪ったりするのに最適の場所だった。
人々は、列車を使い駅を闊歩するふてぶてしい浮浪児たちという新風俗に、敗北し荒廃した日本の姿を見ることになる。
(『占領期のキーワード100 1945―1952』谷川健司編著 青弓社 2011年)
一つ目の戦災孤児は、空襲によって親や保護者を失い、学童疎開などによってなんらかの形で保護されている者である。
二つ目の浮浪児は、戦災孤児のように保護されることなく、街頭を放浪する子どもたちである。
三つ目の引き揚げ孤児は外地で敗戦を迎え、両親と死別あるいは生き別れとなった子どもたちである。
四つ目の原爆孤児は、両親を原爆によって直接あるいは間接的に失った者である。 こうした孤児たちは、おかれた状況に応じて姿を変える。
例えば、保護された施設や親戚や知人宅から家出して浮浪したり、さらに、社会的混乱による家庭の不和などで自ら家出する子どもたちが現れる。
街に浮浪する子どもたちは、戦災孤児、あるいは浮浪児として総体的に呼称されるが、その実態はきわめて曖昧である。
孤児の総数は、厚生省児童局企画課による「全国孤児一斉調査結果(1948年2月1日)」をもとにみてみると12万3千511人で、そのうち戦災孤児は2万8千248人、植民地や占領地からの引き揚げ孤児は1万1351人、両親が病死したり行方不明になった一般孤児は8万1266人、棄迷児(捨て子)は2千647人であった。 なお、施設などに保護されている者は1万2千202人、親戚・知人などに保護されている者は10万7千108人で、浮浪している者は4千201人である。
男は6万8千487人、女は5万5千24人で、男女差はあまり大きくないが、年齢では、8歳から14歳が5万7千731人、15歳から20歳が5万1294人でその大半を占める。
ちなみに、都道府県別にみると、広島県が5千975人といちばん多く、次に兵庫県の5千970人、東京都の5千830人であり、原爆の影響が大きかったことがわかる。
こうした浮浪児たちは生きるために、靴磨きや新聞売り、あるいは、モクヒロイ(タバコ拾い)でモクヤ(タバコ売り)をしたり、ヌレコミ(雨降り)にはシャリンケンバイ(外食券の密売)をしたりする一方で、チャリンコ(すり)、ノビ(窃盗)、空き巣、タタキ(強盗)などをするようになった。 こうした浮浪児たちの稼ぎは思った以上に多く、当時で一日千円は稼いだというが、その大半は酒を含んだ食事代に消えてしまう。
彼らは食べることに貪欲で大食らいだが、その一方で、衣服や寝るところにはまったく頓着がなく、破れ汚れた服を着て路上で眠る。
また、浮浪児たちの外見はふてぶてしくませており、他人の顔色をうかがったりすることに慣れ、大人びいているが、一方、どこかで子どもとして大人に頼らなければならないような弱さをもっている。
浮浪児たちには必ず、十人ぐらいの彼らを束ねるアニキがいて、さらにその上に黒幕のボスがいる。
浮浪児たちは一般社会制度から自由であるが、こうしたアウトカーストの仲間のしきたりに従って生活している。
占領期を彩ったこうした浮浪児たちは、1948年以降、大がかり一斉かりこみや施設への収容などによって、次第に居場所をなくし、その姿を消すようになる。
(『占領期のキーワード100 1945―1952』谷川健司編著 青弓社 2011年)
「浮浪児をどうする 東京<時の話題>」(NHKアーカイブス 1946年) 「平安朝のオスカル とりかへばや物語」つづき
一方、春風には縁談が起こります。
右大臣の姫君です。
右大臣には美しい姫が四人いて、そのなかの四の君です。
彼女は「冬日」と呼ぶことにします。
左大臣は迷いますが、どうしようもあるまいと思います。
「世間には気が合わなくて、形ばかりの夫婦というのもないではない。おまえもそういう形で縁組みしてくれさえすればいい」
(『田辺聖子の古典まんだら(上)』新潮社 2011年) 父に言われて、春風もどうしようもありません。
春風と四の君は結婚することになりました。
もともと春風は、秘密を持っているので、親しい男仲間のあいだでも、そんなに打ち解けませんでした。
まして、形だけの結婚ですから、妻の冬日にもよそよそしく振る舞います。
冬日姫も深窓の姫君ですから、夫はとても美しくて、優しい言葉をかけてくださる。
結婚とはこういうものだと思っています。
二人のあいだに夫婦の契(ちぎ)りがないことを誰が知りましょうか。
ただ月のうち、四、五日ほど物の怪(もののけ)の病になり、乳母の実家に身を寄せるのが少し不思議に思われていました。
実は、春風は女性ですから、月の障(さわ)りのときだけは乳母の実家に身を隠していたのです。 春風の親友に、宰相中将という人がいました。
かねてから冬日との結婚を望んでいたのですが、春風にさらわれてしまいました。
それではと、こちらも美人だと噂の高い春風の妹を嫁にしたいと思い、春風に橋渡しを頼みます。
返事のしようもないので、春風は宰相中将と少し距離を置くようしていました。
ある春の月夜、宰相中将が春風の屋敷を訪れます。
しかし春風は宮中での宿直のため留守でした。
宰相中将は、自分も宮中に行こうかと思ったのですが、琴の音がかすかに聞こえてきます。
かねて恋焦(こ)がれていた冬日だと思いいたり、そっとのぞくと、優美で愛らしい姫君です。
宰相中将は一目で心を奪われてしまい、このまま帰る気にはならなくなりました。 夜がふけてから宰相中将は冬日のもとに忍び込みます。
宰相中将は、言い寄るうちに、気持ちを抑えかね、冬日を抱いてしまいました。
それまで男と女というのは、のどやかに語り合うものと思っていた冬日は驚いて、息も絶えんばかりに嘆き悲しみます。
宰相中将も、結婚した女性とは思えない冬日姫の様子に驚きます。
夜が明け、帰らなければならなくなると、宰相中将は冬日に歌を贈ります。
我ためにえに深ければ三瀬川(みつせがは)のちの逢ふ瀬も誰かたづねん
「私との縁はとても深いのです。あなたが三途の川を渡るときに、背負うのは私以外にはいません」。
女性は最初に契りを交わした男に背負われて三途の川を渡るという言い伝えがあったのです。『とりかへばや物語』の特徴は、人間の心理がよく描かれていることです。
冬日は、いつの間にか、時々忍んでくる宰相中将のほうに人間的な愛を感じるようになります。
春風は、それはそれはやさしい。
でも、いつもどこか幕を隔てたような感じがするのですね。
男と女の関係には、肌と肌のつき合いも大切ですから。
秋月は尚侍(ないしのかみ)という職につき、女東宮に仕えることになりました。
女東宮は、上品でおっとりした人でした。
二人は夜も同じ御帳(みちょう)の中で寝みます。
女同士だと信じ込んでいますから、誰も何とも思いません。
ところが、女東宮の相手をしているうちに、その無心のうちとけた可愛らしい様子に秋月は耐えられなくなりました。
秋月の心に男としての衝動が起こったのです。
東宮は思わぬことに驚きますが、信頼している秋月のすることだからと気にとめずに、そののちもよい遊び相手だと思っていました。 春風と冬日夫婦に波乱が起きます。
冬日が懐妊したのです。
父の右大臣や女房たちは大喜びですが、驚いたのは冬日です。
春風が知ったらどう思おうだろうと惑います。
夜、帰ってきた春風に、乳母が冬日の懐妊を伝えます。
春風にとっては、青天の霹靂(へきれき)です。
相手はいったい誰だろう、自分のせいで、こんな間違いが起きてしまったと思い悩んだ末、ひたすら仏道修行に励み、出家を望むようになります。『源氏物語』宇治十帖(じょう)の八の宮のような存在として、この物語には「宮」という皇族が登場します。
かつて中国に渡り、その才能を認められ、現地の大臣の娘と結婚し、女の子を二人もうけました。
妻が亡(な)くなったのちは、娘を連れて帰国し、悲嘆の日々を送っていました。
それなのに、自分が国王になろうとしていると讒言(ざんげん)されたので、都から吉野に身を引いていたのです。
宮の噂を聞いた春風は、宮を訪ねていきます。
二人はすぐさま互いを認めあいました。
春風は自分の異常な状態に悩み、俗世を離れたいと考えていることを打ち明けます。
それに対して、すべて前世の報いであり、誰かを恨んだりするべきではないと諭し、春風はいずれ人臣を極めることになるだろうと予言します。
その後も春風は時々吉野を訪れるようになります。
…後略…
(『田辺聖子の古典まんだら(上)』新潮社 2011年)今朝の父の一枚です(^^)/
ハス 蓮 ハス科ハス属
古名 荷葉(かよう)
別名・異称 はちす
『本草和名』藕実=波知須乃美(はちすのみ)
『和名類聚抄』蓮子=波知須乃美
熱帯アジア原産のハスは中国を経て古代の日本に入りました。
『古事記』(雄略天皇)で、若い女性の美しさを「花蓮」と表現していますが、これを「波那婆知須(はなはちす)」と表記しています。
ハスの果托が蜂の巣のように多数の穴が開いていることから「蜂巣(はちす)」と表現したのです。
(『有職植物図鑑』八條忠基 平凡社 2022年)