2024年6月21日金曜日

咲くやこの花館

目が覚めて外をみると大雨で出かけることができないなぁと諦めていると青空。
遅くなったので「咲くやこの花館」を訪ねることにしました。

近畿梅雨入り 週末以降は警報級の大雨か」(関西NHK)
今日は「夏至」

 夏至と日照時間

 太陽の高度が一年で変化するのは、太陽の通り道である黄道(こうどう)に対して、天の赤道が23.5度傾いているから。
黄道と赤道が交わる点が春分点、秋分点。
黄道の最南点を冬至点、最北点を夏至点という。
夏至は太陽が北回帰線の真上を通過する時刻のことで、この日、北半球では太陽の高度がもっとも高く、昼間の長さが一年中でもっとも長くなる。
 昼間の長さは、いちばん短日である冬至よりも、短夜である夏至は、東京の場合4時間50分長い。
しかし夏至は梅雨の真っ最中で、雨天や曇天(どんてん)が多く、あまりその実感がない。
じっさい冬至のころよりも日照時間が少ない土地が多いのである。
(『図説 浮世絵に見る日本の二十四節気』藤原千恵子編 河出書房新社 2010年)
グレーテルのかまど「フィンランド 卒業式のクッキー
フィンランドの高校生たちは卒業=大人になることが紹介されていました。

小中学校や大学では、卒業式はありません。
人生で1回きりの卒業式です。
卒業生は、白い帽子を贈られるのがこの国の習わし。
この帽子、容易なことではもらえません。
全国統一「高校卒業資格試験」。
これを突破しなければ 高校卒業も大学への進学もかなわない最大の関門です。
卒業式で贈られる白い帽子は、この難関を無事乗り越えた証しなのです。
世界に名だたる教育制度を持つフィンランド。
大学まで給食費はもちろん学費はすべて無料。
定期テストもありません。
教育は何より子供の自主性を育てることに 重きが置かれています。
日本にも試験がない研修所があったのですよ

第3章 理想の裁判所を求めて
 七 理想の学校


 …前略…

 昭和32年1月からの第一期の研修生として選抜されたのは、全国の家庭裁判所に勤務する24歳から30歳までの男女52名である。
北は釧路家裁から南は宮崎家裁まで。
学歴はまったく問わず、旧制中学の卒業生もいれば東大卒もいた。
内藤(頼博)が選抜の条件としたのは、将来家裁で中核となる熱意ある人材だった。
(『家庭裁判所物語』清水聡 日本評論社 2018年)
 研修生たちの宿舎は、東京都港区芝公園の増上寺境内の建物だった。
 50畳の大部屋でやたらと立派な仏壇があった。
研修生はそこをカーテンで仕切って暮らしていた。
 隣に建設中の東京タワーは、まだ土台しかない。
研修生たちは増上寺の鐘の音を聞き、日に日に高くなる紅色の鉄塔を脇に見ながら、一年間、千代田区富士見町の研修所へと通った。
 内藤は教室にも工夫をした。
 入り口には大きな鏡を置き、研修生たちには入室前に身だしなみを整えるように求めた。
教室には世界地図と世界史の年表も掲げた。
世界的な視野を持ってもらいたいという考えからだった。
 研修所から出て、さまざまな施設の見学も行った。
 家庭裁判所や少年院、少年鑑別所だけではない。
内藤は自分で案内して鈴木演芸場に寄席を聴きにいったり、中山競馬場に競馬の見学に連れて行ったりしている。
 研修が修了する時も試験を行わなかった。
これには事務局から「試験がないと勉強しませんよ」という反対の意見も出た。
だが、内藤は受け入れなかった。
「試験をしなければ勉強しないというような教育は間違いだ。こちらの教育の熱意が、研修生を動かさなければダメだ」
 さらにこう続けた。
「吉田松陰は松下村塾で試験をしたか。試験をしてあれだけの人材を生んだのか」
 吉田松陰まで持ち出されては、職員たちも二の句が継げなかった。
結局、試験の代わりにレポート提出となった。
 …後略…
(『家庭裁判所物語』清水聡 日本評論社 2018年)
100分de名著「宮本常一“忘れられた日本人” (3)無名の人が語り出す
番組で名倉談義がとりあげられていました。

 名倉談義
 
 そこで、前文にふれた愛知県北設楽(きたしたら)郡旧名倉村(現設楽町)の古老たちの話によって村がどのように生きているかをつたえて見たい。
…中略…

 その三

 村の中というものはみんなが仲ようせねばならんものじゃとよく親から言いきかされたものであります。
まじめに働いておりさえすれば、いつの間にかまたよくなるものであります。
この村(社脇)は昔はひどく貧乏したものだそうです。
この村の土地の半分から上は太平の沢田さんのものになっておりました。
いつそうなったのか、飢饉の年にでも、米をかりて土地をとられたのでありましょうが、沢田さんの家が半つぶれになったとき、土地はまたもとの持主にもどって来ました。
 大久保にはまた百石五兵衛という家がありました。
高を百石も持っている大百姓でありましたが、それが何一つ悪い事をしたのでなければ、なまけものが出たというのでもないのに、自然とまた百姓の手に戻って、その家はつぶれました。
(『忘れられた日本人』宮本常一 岩波文庫 1984年)
 そういうことはこの近頃でもあります。
ここから家が見えましょう。
あの、田の上の百姓家、あれは鈴木和さんの家であります。
いまいかにも小ぎれいに見えますが、もとはくずれかかったような家でありました。
和さんの親が石三郎といって、これが大変な呑べで、とうとう田畑全部を三六〇円で東現堂へ抵当に入れて、それも飲んでしまいました。
東現堂は湯谷の医者のことであります。
のんでしまっても金がないからかえせもせず、抵当はながれて財産はなくなってしまいました。
それまでは栃田の勘助(石三郎の家)といったら、このあたりではよい方の家だったのであります。
分家も三軒ありました。
 おやじはのんで死ぬ。
息子は兵隊にとられる。
母親一人がはたらいて家を守っていました。
ところが母親がまだ若いもんですから、村の者からとやくうわさもたつ。
そういう事があったかなかったか、あったにしても女一人で生きていけるものではありません。
親切にする者があればよりかかるのが人情で、わたしははやく戦地から息子が戻ってくればよいと思っておりました。
そうしてあの家の屋根から出る煙を毎日見ておりました。
戦争がすんだあとごろには、煙のたたん日もありました。
母親は家におらん日もあったのでありましょう。
家のつぶれるまえに息子が戻ってくればよいがと思っておりますと、運よく戻ってくれまして、くすぶる煙でなくて、ほんとの紫の煙がでました。
やっとまともなものがたけるようになったのか、と、ほっとしましてな。
戻って見ても小作でありましょうが。
百姓だけでは食えんから息子は闇屋をやっておるという事をききましたが、わたしはまァ何をしても生きてくうてくれさえすれば、そのうちおちつくのだからと思っていました。
ところが、ある朝のことでありました。
目がさめて何気なく見ると、あの家に後光がさしているではありませんか。
わたしはおどろきましてな。
それも実は何でもない事で。
ここは西をうけて東に山があって日のあたるのがおくれる。
和さんの家は東をうけて日のあたるのがはやい。
わたしの家と和さんの家の間にはひろい田がある。
わたしの家にまだ日のあたっていないとき和さんの家にはあたります。
朝日が出て、その光が水のたまった田にあたって、和さんの家へあたります。
朝日が直接にもあたります。
つまり両方からあたりましょう。
それがあの家をかがやくように明るうして、中二階のガラス障子がそれこそ金が光るように光ります。
どういうものか、昔はそれほどキラキラしなかった。
まァとにかくおどろきましてね。
この家はこれからきっとよい事があると思いました。
 そうして、あるとき、あの向うの大道をあるいていると和さんにばったりあうたものでありますから「あんたのうちは後光がさしている。いまにきっとよい事がある。しっかりやりなさいれ」といいましたら喜びまして、「じいさん朝早ういくから、一ぺんあんたの家からわしの家を見せて下され」という。
おやすい事だとまっておりますと、朝早くやって来ましてな、二人で日の出をまちました。
 空があんたまっ青にすんでいましょうが、パーッとこう西の山に日があたってだんだん下の方までさして来る。
和さんの家にもあたる。
前の田圃にもあたる。
和さんの家のまわりの草の露にもあたる。
「なんとええもんじゃないか」といいますと、和さんも「ほんに、あれがわが家でありますか」としばらくは声もでません。
そしてあんた「わしは自分の家をこのようにして見たことはいままでなかった。何とよいもんでありましょう。おかげで元気が出ました」と喜んでかえりました。
 それから間もなく農地解放でありましょうが……。
和さんの家は東現堂へ土地は売ったが、そのまま作って小作米を持っていく事にしていた。
するとその土地がまたそのまま戻って来る事になった。
結局、親父さんがすきなほど酒をのんだだけ得になったというわけであります。
「和さんうまいことやったのう」というものはあっても「わるいことをしたのう」という者はありません。
まじめで親孝行な息子でありますから、「やっぱり和さんの人徳じゃ」とうらやみながらもわるく言うものはありません。
それからあの家はよい事つづできよい嫁をもらう、もう母親に後指をさす者もありません。
 和さんの家ばかりではありません。
ここからこうして見える限りの家というものは今一つとして気の毒なということはありません。
この山蔭(やまかげ)に一軒気の毒なのがありましたが、それも息子がやっと一人めに働けるようになって、もう大丈夫でありましょう。
これがこの世の極楽であります。
 この間も和さんが来まして、「おじいさん、わしの家に新しいハサ(稲架)をたてたのだがわかるか」といいます。
「わかるともわかるとも、もうあれであんたのうちはあんた一代どれほど稲をかけても大丈夫じゃ」といいました。
「おじいさんはありがたい。わしもおじいさんが見てくれるじゃろうと思うて、クリの木の上等なものを買うて来てたてた。さしわたしが七寸もある木じゃから、末代(まつだい)ものじゃろうと思います」と大へんうれしそうでありました。
丈夫なハサをたてるような家は財産をおこすといいます。
 ここでこうして見ておりますと、言葉一つかわさなくても、どの家がどういう風か手にとるようにわかります。
そしてみんなの家によい事があると、ほっとするのであります。
何と申しましても村の内が栄えるのが一ばんよい事であります。
(『忘れられた日本人』宮本常一 岩波文庫 1984年)
父が写してほしいと座った後ろには
パロボラッチョというアルゼンチンの乾燥地からやってきた巨木
スペイン語で「酔っぱらいの木」を意味するそうです(^_-)

『ソバ屋で憩う』より
 昼の酒


 東京のソバ屋のいいところは、昼さがり、女ひとりふらりと入って、席に着くや開口一番、「お酒冷やで一本」といっても、「ハーイ」と、しごく当たり前に、つきだしと徳利が気持ち良く目前にあらわれることだ。
 昼酒。なんでもないようで、これがなかなかむずかしい。
ソバ屋以外の、いわゆるレストランの多くは、まず女ひとり客と見れば、ペラのランチタイム・メニューが出されるだけで、ドリンク・メニューや一品料理は、たとえあっても出さない。
あきらかに接待とわかる男性の複数客には、それらを添えて出すのをみれば、おもしろくない。
 けれど、ソバ屋は万人に平等だ。
喫茶店でケーキを頼むのが奇異でないように、酒とツマミを頼むのはフツーの注文なのである。
 ソバ屋で憩う、昼酒の楽しみを知ってしまうと、すっかり暮れてから外で呑(の)むのが淋(さび)しくなる。
暗い夜道を、酔って帰宅するなんて、まったく億劫(おっくう)だ。
いまだ明るいうちに、ホロ酔いかげんで八百屋や惣菜屋を巡って、翌日の飯の仕入れをしながら就く家路は、今日をたしかに過ごした張り合いがある。
 暮すということは、時間をつなぐことであり、酔ってうやむやに終わる一日からは、暮しの実感は生まれてこない。
 とはいえ、昼酒なんぞは、自由業のボーナスで、世間では、ソウままならぬことなのでありましょう。
スミマセン。
(『お江戸暮らし―杉浦日向子エッセンス』ちくま文庫 2022年)