歩いているときは傘を閉じて歩けました。
風が吹くのだけど南から吹く風は、湿気を含んでいて蒸し暑い…
「近畿地方 23日夜遅くにかけ局地的に雷伴う激しい雨の予想」(関西NHK))母が好きだったネジバナが咲いていました。
今日は「慰霊の日」
母があの鉄の暴風の中を生き延びてくれたおかげで私がいる。
〝きょう沖縄戦から79年の「慰霊の日」 20万人超える人が犠牲に〟(NHK)
「沖縄戦の“南部撤退” 住民たちの身に何が起きた」(沖縄NHK 6月12日)「報道写真家の石川文洋さんが講演 平和の大切さを伝える」(沖縄NHK 6月22日)
石川文洋さん
この人にも家族があって人生があった。
そういうことは戦争では全く考えません。
戦場でお母さんが傷ついて子どもたちがなげいている
ああいう場面というのは昔も沖縄戦も今のパレスチナ、ウクライナでも
いま起こっていること、将来も起こりうること
絵本と子どもに向けたノンフィクションから「あとがき」を転記しますφ(.. )
作者のことば
沖縄戦を絵本にする 田島征彦
大阪の堺市で生まれたぼくは、5歳の時、アメリカの戦闘機から機銃掃射された。
持っていた氷のかたまりが砕け散った。
ぼくは大声で泣いて防空壕へ逃げ込んで怪我はなかった。
そのことを、『ななしのごんべさん』(吉村敬子と共作/童心社/2003年)という絵本にした。
愚かな戦争が、障がい者や幼い子どもたちと母親を、どれほど苦しめたかを伝えたかった。
(『なきむし せいとく 沖縄戦にまきこまれた少年の物語』たじまゆきひこ 童心社 2022年)
自然のすばらしさに魅(み)せられて沖縄に通い始めて、もう40年以上になる。作者のことば
沖縄戦を絵本にする 田島征彦
大阪の堺市で生まれたぼくは、5歳の時、アメリカの戦闘機から機銃掃射された。
持っていた氷のかたまりが砕け散った。
ぼくは大声で泣いて防空壕へ逃げ込んで怪我はなかった。
そのことを、『ななしのごんべさん』(吉村敬子と共作/童心社/2003年)という絵本にした。
愚かな戦争が、障がい者や幼い子どもたちと母親を、どれほど苦しめたかを伝えたかった。
(『なきむし せいとく 沖縄戦にまきこまれた少年の物語』たじまゆきひこ 童心社 2022年)
沖縄を舞台にした最初の絵本『とんとんみーときじむなー』(童心社/1987年)は、沖縄の自然の魅力を伝えたいと思って創った。
しかし、子どもたちに沖縄のことを知ってもらうには、それだけでは充分ではない。
沖縄の一面しか伝えていない。
日本の国土の0.6%しかない沖縄に、日本にある米軍専用施設の70%が集中していることを見逃してはいけないと思った。
『てっぽうをもったキジムナー』(童心社/1996年)は、沖縄戦から現在の沖縄を知ってもらうために創った。 日本の本土でも、東京、大阪の大空襲や、広島と長崎に投下された原子爆弾の悲惨さは、筆舌に尽くしがたい。
しかし、沖縄では上陸してきた何十万というアメリカ兵と、海上からの艦砲射撃に追い回されて、眼の前で子どもや母親たちが殺された。
そんな地獄のような日々が何日も、何か月も続いた。
守ってくれるはずの日本兵に食料を奪われ、方言を使っただけでスパイだと決めつけられて、住民は同じ日本人にも殺された。
日本は沖縄を守るために軍隊(守備隊)を送り込んだのではなく、国体(天皇制)を守るために、沖縄を捨て石にした。
住民を巻き込んだ戦争は、軍人よりも沖縄の子どもや女性、老人たちなどの死者のほうが多かったのだ。
そんな凄惨な地上戦を経験したのが沖縄なのだ。 数年前から、ぼくが大阪ではなく、その時もしも沖縄にいたらということを考え続けてきた。
運動神経の鈍いぼくは、母に抱きかかえられて、追いかけてくるアメリカ軍の戦車や機関銃から、逃げることができるのか。
近しい人たちが弾丸を受けて、断末魔に身を震わせて死んでゆくのを見ながら、逃げまどう幼い自分の姿を何度となく思い浮べた。
2020年に沖縄で、ぼくと同じ年齢の男性が描いた当時の戦場の絵を見せてもらいながら、話を聞いた。
しかし、詳しい話になると、もう憶えていないという言葉しか返ってこなかった。
初めて会うヤマトンチュ(*)に、壮絶(そうぜつ)な経験を話してもらえるとは思っていなかったが、人に語れない辛さがぼくにはわかった。
沖縄戦を描くというのは、困難な仕事だ。
悲惨な戦争を子どもたちに見せて怖がらせる絵本を創るのではない。
平和の大切さを願う心を伝えるために、沖縄戦を絵本にする取り組みを続けているのだ。
*)ヤマトンチュ 沖縄の方言で、本土の人のこと
(『なきむし せいとく 沖縄戦にまきこまれた少年の物語』たじまゆきひこ 童心社 2022年)
6月23日「沖縄慰霊の日」によせて『だるまちゃんとキジムナちゃん』の絵です。
かこさとしのあとがきには「古い伝承への敬意と、戦中戦後、今なお続いている沖縄の方々のご苦労に対しての、ささやかな謝意と、同志的応援のつもりです」とあります。
単行本あとがき昭和62年(1987年)秋、「白旗の少女は、わたしです。」と名のり出て以来、沖縄の方々はもちろん、日本全国の方々から、たくさんのお問い合わせや激励のお言葉をいただきました。
そして、わたしの戦争体験の一部が、新聞、書籍、テレビなどで報道されました。
同時に、たくさんの出版社、新聞社から、わたしの戦争体験を手記にするよう依頼をうけました。
しかし、当時のわたしは主婦学生であり、また本書の冒頭部分にも書いたような理由で、なかなか名のり出られなかったいきさつもあり、かたくなに書くことを断りつづけていました。
(『白旗の少女』比嘉富子著、依光隆絵 講談社青い鳥文庫 2000年) その一方で、報道されたわたしの戦争体験は、紙面の都合や字数の制限、あるいは時間の制約により、あくまでも体験の一部にすぎず、どうしても体験のすべてを伝えることは不可能なことでした。
このままでは、わたし自身の経験した沖縄戦は、一部分をのぞいて永久に誤解され、また知られずじまいになるかもしれない。
そこでわたしは、自分自身の体験をありのまま後世に記録として残すことは、わたし自身しかいないのだと考えなおしたのでした。 そして昭和62年11月ごろから、自分の記憶の鮮明な部分を整理し、こつこつと書きすすめていきました。
その結果できあがったのが本書です。
したがって、ここに書き記したことがらについては、すべてはっきりと覚えていることばかりです。
ただし、戦場で起こったできごとの順序や、わたしのたどった道順については一部不鮮明なところがあります。
そのため、自分の家から避難をはじめてからの日付については、アメリカ軍の進撃記録をもとに整理してみました。 ところで、沖縄戦の記録映画が公開されて以来、あの映画のなかで、白旗をもって投降するわたしのうしろから歩いてくる兵隊さんたちが、わたしを盾(たて)にしてついてきたかのように誤解されているのは、たいへん残念なことです。
この兵隊さんたちは、わたしの歩いてきた道とは別の道を歩いてきて、偶然、一本道でわたしと合流した人たちでした。
そして、二本の道が一本に合流するとき、わたしのほうが先に一本道に入ったため、あたかも白旗をもったわたしを弾(たま)よけにして、あとからついてきたかのように見えるのです。
したがって、わたしと、背後から歩いてくる兵隊さんとは、いっさい関係がなかったのです。
このことは、事実として書き加えておかなければなりません。 沖縄戦では多くの貴(とうと)い人命が失われました。
当時の悲惨な戦いの結果、傷つき、現在もなお苦しんでいる方々がたくさんいらっしゃいます。
そのことを考えると、たまたま、当時の記録フィルムが公開されただけで、わたしのような者にまでスポットライトがあてられるのは、わたしにとって、とまどいの気持ちと、うしろめたい気持ちとがからみあった複雑な心境にさえなるのです。 しかし、七歳の目で見た沖縄戦をつづることにより、わたしに命の尊さを教えてくれた老夫婦をはじめ、この戦いで無念にして亡くなられた多くの方々の鎮魂(ちんこん)の書として、また、わたしのように戦場をさまよう子どもが二度とあらわれぬよう平和への誓いを新たにするための礎(いしずえ)として、すこしでもお役に立てることができるなら、わたしにとってこれ以上の喜びはありません。 最後にこの本を書くにあたって、アメリカ滞在中あたたかく迎えてくださったヘンドリクソン氏夫妻およびジェーン=バーグレイ未亡人、ヘンドリクソン氏の消息を教えてくださったアーサー=ロスティン氏夫妻、いろいろお世話になったジョセフィン=マッカーシー氏に、心から感謝の気持ちをささげます。
また、わたしのカメラマンさがしに尽力してくださったフジテレビジョン報道センターの村上孝麿氏はじめ関係者の方々、出版にあたって、いろいろとはげましていただいた講談社の江田昌男氏にも心からお礼申しあげます。
1989年4月 比嘉富子
(『白旗の少女』比嘉富子著、依光隆絵 講談社青い鳥文庫 2000年)「富子(とみこ)、それをもっていけば、ぜったい安全なのだ! それが世界じゅうの約束だから、ほんとうにだいじょうぶなんだ!」
7歳の比嘉さんに白旗を掲げれば安全なんだと教えてくれたおじいさんは、両手両足が切断されていました。
そして、白旗を作ってくれたおばあさんは、目が見えませんでした。
「米軍が撮影した沖縄戦 その2」(NHKアーカイブス)
1分56秒あたりに白旗の少女(富子さん)が写っています。