一方、奄美や沖縄では大雨が降り続いている
父が田舎に電話をすると雨が降り続いて寒いそうです。
「奄美地方 昼前にかけ激しい雨 土砂災害などに十分注意を」(NHK鹿児島)ワルイコあつまれ(91)稲垣吾郎・草彅剛・香取慎吾と学ぶ教育バラエティーで
「国宝だって 人間だ!」
最後に 子供たちに伝えたいことはありますか?と聞かれた
狂言師・茂山七五三(しげやましめ)さんは、
日本の芸能というのは 確立されたのが室町から以降ですから…
日本の芸能のルーツを探ると同時に
話術を見て日本の良さを知ってもらいたいと 僕は思います。
明治の為政者が幼稚だなと思うのが
明治28年に始まった平安神宮の時代祭に室町時代は、足利尊氏が逆臣だと排除されていました。
それは、戦後も続き、室町時代が加わったのは2007年(平成19年)になってから。
日本の伝統とよく発言される方がいますが
彼らの伝統は、明治時代からのことで歴史が浅いです。
「東山文化」(小学6年)
「鎌倉・室町文化」(10min.ボックス日本史)朝ドラ「虎に翼」第11週「女子と小人は養い難し?」 (54)
多岐川)
じゃあ この国に染みついている香子ちゃんへの偏見を正す力が佐田君にあるのか?
崔誠姫さんの投稿に
昨日の名前についてのポストにつなげると、汐見夫妻の結婚がいつかはわかりませんが、朝鮮総督府は皇民化政策の一環として1940年に創氏改名制度を実施します。
これは朝鮮式の姓と名を改め、日本式の氏(うじ)と名を名乗らせるものです。
圭さんが「名前を変えた」といったことに繋がりますね。
サディ・ライアン・タッキーなどと久藤が英語名の愛称を呼び占領下であることが意識されますが、皆日本人の名前は保てている。
しかし香淑は嬉しそうに話した「チェ・ヒャンスク」も「さい・こうしゅく」も名乗れず、汐見香子として生きている。
その対比も明確にドラマで描かれていたと思います。
朝ドラ「虎に翼」第11週「女子と小人は養い難し?」 (52)
多岐川(滝藤賢一)が滝行をする場面は
「タキガワ」「タキトウ」「タキギョウ」と言葉遊びと思っている方がいるようですが、
この滝行は時期は異なりますが、多岐川のモデルになった宇田川潤四郎の有名なエピソードです。
第3章 理想の裁判所を求めて多岐川(滝藤賢一)が滝行をする場面は
「タキガワ」「タキトウ」「タキギョウ」と言葉遊びと思っている方がいるようですが、
この滝行は時期は異なりますが、多岐川のモデルになった宇田川潤四郎の有名なエピソードです。
4 滝に打たれる
全国で家庭裁判所の運営が軌道に乗り始めた頃、全国の調査官たちから宇田川潤四郎の元に「学ぶ場がほしい」という要望が寄せられるようになった。
調査官たちはそれまで、千代田区にあった裁判所書記官研修所で採用後の研修を受けていた。
しかし、書記官は裁判の記録や調書を作成して保管するのが主な仕事で、現場を回り人々から話を聞く調査官とはまったく異なる。
加えて、すでに触れたように初期の調査官たちは、多様な経歴を持ち、人生経験も豊富であった。
彼らにとって、書記官と同じ研修は、あまり効果がないというのである。
(『家庭裁判所物語』清水聡 日本評論社 2018年) 家庭裁判所が作られた昭和24年の8月に、初めて調査官の研修が開かれている。
その場で当時の最高裁事務総長は、少年保護がいわゆるケースワークであることを明言した上で、「これを遂行する上には、医学、心理学、教育学、社会学など多角的な学問的素養と技術的経験とを要請せられるのであります」と述べている。
だが家庭裁判所の中には、調査官が一人あるいは二人しかいない支部もある。
小規模な支部でさまざまな経験を積むことは難しく、多角的な学問的素養を育む機会もない。
調査官たちが特に希望したのは「多様なケースワークを学びたい」ということであった。 宇田川は昭和27年から、調査官のための研修所設立の準備を始めている。
この時期、最高裁家庭局発足時の事務次長だった五鬼上堅磐(ごきじょう かきわ)が事務総長に、同じく人事課長として宇田川の抜擢を決めた石田和外(かずと)が事務次長に就任していた。
二人ともに、研修所の新設に賛同した。
石田は保守派として知られ、後に最高裁長官になる。
宇田川に対しては、一貫して好意的であった。
周囲の話では、石田は宇田川の天真爛漫なところが気に入っていたようだ。 宇田川の「調査官の研修所を独自に設置したい」という要望に対して、石田が了解した時の言葉が残されている。
――ネコは鳥かごでは飼えない。
家庭裁判所を言うことを聞かないネコに例えているのだが、宇田川を筆頭に確かにその通りであった。 ただ、問題は予算を獲得することであった。
最高裁はすでに二つの研修所を持っている。
司法試験に合格した人たちを対象とする司法研修所と、前述の通り書記官を対象にした書記官研修所である。
それに加えて、全国で1100人程度しかいない家裁調査官のために、もう一つ専門の研修所を作るのは、明らかに難しかった。
宇田川は石田のバックアップを受けて、昭和29年から大蔵省に家裁調査官研修所の予算折衝を行っている。 部下の一人で当時局付だった沼邊愛一(ぬまべあいいち)は、宇田川がやはり、いつもの熱弁で大蔵省の主計官を口説いたと述懐している。
「宇田川さんの情熱ある陳情に大蔵相の担当官が心を打たれ、同情して予算獲得の手法を教えてくれたこともあったそうです」と回想している。
どこまで事実か分らないが、宇田川ならありそうな話である。
東京家裁の調査官だった日野照彦は、宇田川の用意周到な側面を覚えている。
彼は担当主計官の出身高校と担任だった教師を調べ、その教師が日野の友人だと知ると頼んで紹介状を書いてもらった。
それを携えて大蔵省へ説明に行ったという。 このほかに、宇田川を知る人に取材した時や、部下たちの座談会で、必ず出てくるエピソードがある。
定番というべきか、鉄板というべきか。
昭和30年の年末、予算編成が大詰めの時期だった。
宇田川は家庭局に部下たちにこう檄を飛ばした。
「お前たちは、腹にしっかり力を入れて交渉しろ。必ず取るという信念で行かなくはダメだ」
そして宇田川は、宣言した。
「オレはこれから、多摩へ滝に打たれに行ってくる!」
当時の部下たちは、この話になると必ず大笑いになる。 祈願したいことがあると水をかぶる習慣があった宇田川だが、普段は自宅の風呂場を使っていた。
部下たちは上司の「水行(すいぎょう)」を知っている。
しかし、年末のこの時期、予算の獲得が瀬戸際なのに、家庭局長が山へ滝に打たれに出かけるというのは、いかがなものか。 話はまだ続く。
宇田川に誘われて家裁長官研修所の準備室に勤務していた北沢治雄が、軽い気持ちでこの滝行について行った。
場所は高尾山北側の小仏峠にある「宝生の滝」であった。
大晦日の晩、近くの寺に泊まって元日からふんどし姿で真冬の滝に打たれたという。
後の座談会で北沢はこう話している。
「もう滝壺の日のあたらいところは氷がシャリシャリ張っているのです。(中略)夜の12時に一度やって、朝は6時です。夜中のやつは滝壺に明かりを入れてやるのですね。身体の中はもう相当冷えちゃって、部屋に帰ったらコタツがあって、それに入るのですが、朝までガタガタして、6時にまたやるというわけですからね」 結局、北沢は途中で逃げ出す。
宇田川はというと、1月2日まで滝壺に打たれた。
彼は念仏のようにひたすらこう唱えていたという。
――研修所設立、ケンシュージョセツリツ……。
この滝行は、長男の潔も覚えている。
「親父には信念みたいなものが芽生えると、もう脇目を振らないところがありました。家裁調査官研修所を作ることは、まさに親父の信念でした。本人は帰ってきて『やるべきことはこれで全部やった』と晴れ晴れしていましたね」
家裁調査官研修所は、昭和31年度の予算請求で、復活折衝を経て認められた。
厳冬の滝に打たれた成果かどうかは、定かでない。
(『家庭裁判所物語』清水聡 日本評論社 2018年)今朝の父の一枚です(^^)/
シジュウカラの幼鳥のようです。
質問296 晩成型の鳥のひなはどのくらい早く育つのですか?
[回答]ほとんどの鳥は非常に早く育ちます。
事実、他のどんな脊椎動物よりも成長率は大きいのです。
ヨーロッパのカッコウは孵化後3週間で50倍の体重になります。
オオアオサギは6週目の終わりに、孵化時の38倍の体重となります。
不思議なことに、ある晩成型の鳥では、巣立ちの前のあるときに、一生のうちでもっとも重くなります。
ツバメ類は育雛期の終わりに、親鳥より重くなります。
ペリカンも同様です。
すべての晩成型の鳥の中で管鼻(かんび)目の鳥(アホウドリ、ミズナギトリ、ウミツバメ類)はこの現象をもっとも良く示しています。
これらの鳥のひなは極端に肥満して、親鳥よりかなり重くなるまで給餌されます。
その後ひなは巣に置き去りにされ、親鳥はなかなかひなのもとに帰らなくなります。
ひなは親鳥に放置された状態の中で、皮下脂肪の貯蔵を消費して成長を完成させるのです。
結局彼らは幼鳥として、より軽くなり、非常に餓えて、孤独な最初の飛行に飛び立っていきます。
鳥の成長は急激なのですが、彼らは成熟前にもう一度、体を軽量化するのです。
(『鳥についての300の質問 君が知りたいすべてに答える』A.クリュックシァンク H.クリュックシァンク著 青柳昌宏訳 講談社ブルーバックス 1982年)