2024年6月24日月曜日

曇りの予報

今朝の天気予報は曇りでした。
外を見ると青空が広がっていてシーツを干そうかと思うほどでしたが
歩いていると曇り空になり、ほんの一時、雨がパラパラ降ってきました。
ノカンゾウが咲いているのに工事中で中に入れません。
当初は3月中だったのに5月中になり、さらに8月末になった
聞くところによると資材不足で工期が遅れているようです。
ドキュメント20min.「93歳の新聞記者

涌井友子さんは、父と同じ昭和6年生まれ。
「取材はバスと電車を乗り継いで歩いて行くんだけど多いときは1万歩以上ついつい」と仰っている。
次女とともに月2回約2000部を発行している。
「実際に現場に行かないと、それがやっぱり私はすごく大事だと思うから」という取材姿勢。

涌井さんの原点は、幼い頃の体験にあります。
10歳のとき、太平洋戦争が開戦。
涌井さんは 大人が見聞きした情報から日本の勝利を信じていました。
「あそこの島で戦って勝ったとか、何機射止めたとかっていう。
だから戦争で負けるなんていうことは、子ども心にも思ってもいない」

母も同じことを話していました。
朝礼で校長先生が、毎日、日本軍の勝利を報告されていたのを信じていたので
飛行機が飛んできたときに友軍機だと手を振っていると米軍の艦載機だった。
機銃掃射のなかを懸命に逃げ、弾に当たって頭が砕けた死体もみている。
米軍は、移動するときに食料を山のように残したまま移動する、
その食料を日本兵が取りに行く姿を見て日本は負けるとおもったそうだ。
永麻里さんの投稿(6月20日)

父は幸運にも孤児にはならなかったが焼け跡の浅草で年長の田所康雄少年と出会っている
鉄屑を拾い集める少年たちのまとめ役で回収業者に買取ってもらうリーダーだったお兄さんがのちの渥美清さん
「康雄ちゃんは中抜きせずに公平に小銭を分けてくれた」と父
慕われていたところは道男と同じだ

#虎に翼

永麻里さんの投稿(6月21日)

昨日のポストに続き、渥美清さんと道男をあまり重ねるのもどうかとは思いながら、
今日の
 #虎に翼 の展開を見ていたらやはりこの話を思い出してしまいました
こどもを導けるのは心に余裕をもてる大人
3年前に書いた
《ろくすけごろく》、よろしかったらお目通しください
 下町の品性

   渥美清さん


 六十七年前の東京は、戦争のため焼野原でした。
 その二年後、縁故疎開の長野県から中学生だった僕は浅草の実家の寺に戻ったの。
周囲にはまだ焼け跡が残っていた。
僕らはすすや泥で手足を黒く汚しながら鉄くずや鉛管を掘っていました。
小遣い稼ぎのためです。
 買ってくれる元締めみたいな年上のお兄さんが二人いて、その一人が渥美ちゃん。
寅さんで有名なあの渥美清です。
彼は子供相手でも決してピンハネをしない人だったの。
だから、僕らチンピラ少年の間ではすでに有名でした。
渥美ちゃんは僕より五つ年上。
お互いまだ十代のときに出会った仲です。
(『永六輔のお話し供養』小学館 2012年)
 渥美ちゃんは十七歳の誕生日の三月十日に、「東京大空襲」で上野の自宅から焼け出された。
生きるために担ぎ屋やテキ屋などもしたそうです。
そんな彼が芸能界に入るきっかけを作ったのは、無名の一人のおまわりさん。
歩道と車道を仕切る古い鎖を盗んで補導された。
そのとき、
「お前の顔は、一度見たら忘れられない。『フランス座』(※)に行け」
 と言われたの。
罪をとがめて罰するのではなく、未来ある若者に素っ気ない言葉で助言する。
貧しくすさんだ世相の中、そんな優しさを持った人もいたんです。
渥美ちゃんはその言葉を心に受け止め、やがてフランス座の舞台にコメディアンとして立ったのね。
 いつかテレビの時代が来るから、そのときは一緒に仕事をしよう。
そんな約束をし合いました。
夢であいましょう』というテレビ番組の作・構成を僕がやりはじめて、渥美ちゃんにこの番組への出演をお願いしたんです。
当日、スタジオをに来た渥美ちゃんを見て、スタッフ全員が驚いちゃった。
靴を履いていないのね。
放送局の廊下がきれいだから、
「正面玄関で、靴は脱いだよ」
 澄ました顔で渥美ちゃんが言ったので大笑い。
確かにきちっと揃えて玄関の隅に置いてあった(笑い)。
「そろそろマネジャーを雇った方がいいですよ」僕がそう言ったら、分かったと隣に住む無職のおじさんを連れてきた(笑い)。
 僕が住んでいる家の道路隔てた斜め向かいに、渥美ちゃんが住んでいたこともあったの。
その頃は朝食も夕食も僕の家で食べていた。
僕ら夫婦が初めてアメリカに行ったとき渥美ちゃんも一緒だった。
 僕が手紙や葉書を書くのはあたり前ですが、彼はそんなことしないはずです。
ところが毎日、僕の傍に座って絵葉書を書き、切手を渡すとそれを貼って出していた。
気になってあるとき盗み見たの。
「お袋 俺 元気」。
それだけ。
それからも毎日、「お袋 俺 元気」(笑い)。
あー、渥美清だなって感じました。
母親が一番欲しい情報を、簡潔に毎日伝える。
渥美ちゃんはお母さんに苦労をかけたのね。
だから何をしていても、たとえロケに行ってもお母さんのことを最優先していた。
 私生活を秘密にする人でした。
スターになってからはどこに住んでいるのか誰も知らなかった。
でも、我々の世代は、世間に顔を出すのは恥ずかしいことだったの。
だから、自分の家の前に黒塗り(ハイヤー)を乗りつけたりしないんです。
家の少し手前か少し通り過ぎてから降りる。
近所の人にひけらかしたりしない。
こういう心情は、東京の下町に育った人間にはよく理解できるんです。
 渥美清だってことさえ、周囲に悟らせない。
あんなに特徴的なのにね。
身を隠すというか、一番目立たない所にさっと座るの。
だから「ジャン・ジャン」(※)みたいな小さな劇場に通い詰めてときも、客席にいると分かっている人は滅多にいなかったんです。
 「風天」という俳号で俳句も作っていました。
僕らの俳句の会にもよく顔を出していたけど、突然、ぷっつり来なくなってしまった。
病気だったんです。肺がん。
でも、それを会で公表して、心配させるのは嫌だったんでしょうね。
 渥美ちゃんが亡くなってもう十六年。
今まで僕は渥美ちゃんのことをどこにも書いたことがないの。
それほど親しかった仲でした。

※『フランス座』/東京・浅草六区の現・東洋館の前身で、ストリップ劇場だった。幕間の爆笑コントも売り物で、無名時代の井上ひさしが座付き作者を務め、コント55号やビートたけしなど優れた芸人を輩出した。
※『ジャン・ジャン』/東京・渋谷の山手教会地下に昭和44年から平成12年まで存在した伝説のアンダーグラウンド劇場。
(『永六輔のお話し供養』小学館 2012年)
 ぬれている五重の塔も紫陽花と

むきあって同じお茶すするポリと不良

げじげじにもあるうぬぼれ生きること

(『風天 渥美清のうた』森英介 文春文庫 2010年)
今朝の父の一枚です(^^)/

ハス
 仏教の象徴


 仏教の象徴的な植物がハスです。
仏教の根本聖典の一つとされる『仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)』では、極楽浄土の池にはハスが車輪のように咲いていると説きます。
泥の中から清浄な花を咲かせるハスは、煩悩(ぼんのう)の沼の中から悟りを開くことの譬(たと)えとされているのです。
『万葉集』でのハスの歌は美しさを賞賛(しょうさん)するものが多数ですが、『古今和歌集』以降は浄土信仰の隆盛とともに仏教に関わる歌が優勢になります。
『拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)』空也(くうや)上人の

  ひとたびも 南無阿弥陀仏といふ人の
   蓮(はちす)の上に のぼらぬはなし

などはその代表作です。
平安時代の朝廷・公家社会において仏教は特別な存在でしたから、仏教にからむハスにかかわる事柄の記録は、数限りありません。
(『有職植物図鑑』八條忠基 平凡社 2022年)


明日火曜日と水曜日は歯科と循環器内科の診察日です。
土曜日は父の事前の検査があるので更新を休みます。
それ以外にも天気によってお休みすると思います。