2024年6月7日金曜日

風が気持ちよくて

日ざしが強くて頭が痛くなりそうでしたが
風が吹くと木陰でしばらく風にあたっていました。
暖冬の影響は虫だけでなく…

梅の収穫期なのに… “近年まれに見る不作” 価格にも影響が」(NHK 6月6日)
朝ドラ「虎に翼」第10週「女の知恵は鼻の先?」 (50)で寅子の「はて?」が復活しましたね。
(「鼻の先?」って桂場の鼻についていた芋?の皮のことかな?)

民法親族編・相續編 改正法案第六次案 昭和二十二年三月一日
について寅子から意見を求められた

はる
そうね 強いて言えば…片仮名ばっかりで読みにくいわね。
花江
ですよね。 何で こう私たちに分からせまいとする書き方をするのかしら。
はる
きっと自分たちが頭がいいって自慢したいんじゃないかしら。
花江
そう思ってしまいますよね。

わかるなぁ!
学生時代に法律の条文を読んで、なんて難しい、日常語とかけ離れた専門用語が並んでいるのだろうと辟易しました。

昭和22年(1947)12月22日「民法の一部を改正する法律」(国立公文書館)
 web日本評論編集部の投稿(6月6日)


今週の #虎に翼 小ネタ
民法改正に対する婦人代議士たちの意見書がまとまり、寅子も署名をしていました。
我妻榮編『戦後における民法改正の経過』にはこの意見書が載っています。
家制度廃止の趣旨に賛同しつつも、改正案の不十分さを指摘しています。
寅子のモデル「司法事務官 和田嘉子」の名前も!
 画 像 

和田嘉子以外にも興味深い名前が並んでいます。
SNSで伊勢志摩さんが演じる女性代議士の立花幸恵役についてある方の名前が挙がっていますが、この頃は公職追放中でした。
昭和22年3月24日~25年10月13日
 折々のことば 鷲田清一 3108

 私、寅子(ともこ)の好きなところは、ちゃんと失敗するところ
      伊藤沙莉(さいり)

 放映中の朝ドラ「虎に翼」の主人公、女性弁護士の先駆者・寅子は曲がったことが嫌い。
納得できないことがあると、時に呆然(ぼうぜん)と、時に攻め寄るように「はて?」と口ずさむ。
寅子を演じる俳優はそんな寅子の「全部がうまくいく人じゃない」ところが素敵だと言う。
(くじ)けても、またまっすぐに歩く勇気が湧く。
NHKテレビの番組「土スタ『虎に翼』特集」(5月25日放送)から。
 2024・6・6
花江と寅子が夫の戦死を知った時に悲嘆にくれていることについて
あれは聖戦なんだからあのように悲しむのはおかしい
偏向番組だと投稿していたのをみかけました。
プーチン大統領みたいなことを言うなと思いました。

4月―お花見―花を愛(め)でては一首詠む

 「応挙の桜」と兄の思い出

 冷泉家の桜の中で由緒あるものとして、門の脇に犬桜の木がありました。
これは枯れてしまい今はもうありませんが、もう一本、忘れてはならないのは「応挙の桜」でございます。
為村(ためむら<第15代当主、1712~74年>)・為康(ためやす<第16代当主、1735~1816年>)の時代、円山応挙は和歌の門人としてこの冷泉家に通って来ていたといわれております。
応挙の筆になる「桜に月図」のモデルとなった桜の大木が、1977(昭和52)年頃までこの庭にありました。
害虫によって枯れてしまいましたが、この桜の木は、1944(昭和19)年4月20日、兄・為臣(ためとみ<第23代当主>)が出征していく時、花はすでに終わっておりましたが、瑞々(みずみず)しい若葉を陽に輝かせて、兄を見送っていことを覚えています。
兄は帰らぬ人となりましたが、桜の木は兄を見送った後も、毎年、兄を待つように花を咲かせておりました。
(『冷泉布美子が語る京の雅―冷泉家の年中行事』聞き手南里空海 集英社 1999年)
 …中略…

 戦前、節句やお花見には、今出川通りにありました茶室「扇亭」でお茶をいただいたりしたものでした。
「扇(せん)」は「泉(せん)」に通じるといい、とくに第10代当主・為頼(ためより<1592~1627年>)の好みの銘といわれておりますが、毎月二十日、定家卿の御命日に、扇亭では〝月釜〟(月例の茶会)がかかっておりました。
桜の季節になりますと、和歌の門人が集まり、花を愛でたり、和歌を詠んだり、絵を描いたりして一日を過ごします。
ただ、12月だけは、20日ともなると大晦日やお正月の準備などで多忙を極めますので、月釜は8日と決まっておりました。
 1941(昭和16)年12月8日、この日もいつもの年と同じように月釜がかかっておりました。
太平洋戦争勃発のニュースを聞いて、途中ではありましたがその日は早めに切り上げました。
それ以後、戦争という極限状態の中で、月釜どころではなくなって、月釜はその日を最後に、今日まで一度もかかっておりません。
 戦争も終わり、食べることがやっという時代に父が亡くなり(1946年)、それにともなう相続税やら財産税など税金の嵐の中で、月釜をかける余裕などありませんでした。
母屋の雨漏りの修理すら満足にいかないものが、扇亭まではとても手が回りません。
気にはなりながらも放っておくことによって、だんだんと雨漏りもひどくなり、娘が小学生の頃、昭和30年頃でしょうか、修理のお金が当時の金額にして10万円かかるといわれ、今のお金にするとどのくらいになるかわかりませんが、恥ずかしながら、その10万円がなかったものですから、そのまま放置しておくしかありませんでした。
 しかたなく放置したままの扇亭は朽ちるのも早く、今出川通りに面した角、かつて女性たちの物見台のあった建物が崩れ始め、通行人に万一、怪我でもあっては大変と取り壊しました。
 若気のいたり……とは、このようなことをいうのでしょうか。
残しておいたら、と悔やまれることもありますが、取り壊した時は正直ホッとしたことを覚えています。
「炉の石を残しておきましょうか」と大工に声を掛けられても、「未練がましいから……」と申しますと、大工が「私がいただいてもよろしいでしょうか」と持って帰りました。
 以来、お茶を点(た)てることもあまりなく、修復工事をするにあたって、住居部分を建てる時、私の居間にぜひ、炉を切ってほしいと頼んで、切ってもらいました。
私は、いかにも長閑(のどか)な吊釜が好きで、蛭釘(ひるくぎ)も取り付けていますが、未だにお茶を点てておりません。
お茶の好きな姉から、「いつになったら点てるの」という催促も来ておりますが……。
 この扇亭で門人たちが詠んだ和歌や描いた絵の多くは、今に伝わっています。
扇亭は文化的色彩の濃い場所だったといえます。
 5月―端午の節句―男の子のあらまほしき姿

 大将と若大将人形


 冷泉家には大将人形が二体あります。
父・為系(ためつぎ<第22代当主>)のものと兄・為臣(ためおみ<第23代当主>)のもので、本来、大将というものは一人ですから、私どもでは、父のものは大将人形、あるいは殿さんと呼び、兄のものを若大将、あるいは若殿さんと呼んでおります。
 父は1881(明治14)年の生まれで、生後10か月で母を亡くしております。
1年間の喪中で、父の初節句は1年延びて1883年に行ったのではないかと思われます。
その初節句の時に飾った、代々伝わるこの大将人形の着物があまりにボロボロなので、父の祖父・為理(ためただ<第20代当主>)が見かねて、頭(かしら)はそのままに着物を新しく替えたと、聞いております。
ちなに、この頭は江戸時代のもの。
 若大将人形は、兄の誕生を祝い、母の実家から鯉幟(こいのぼり)と一緒に届いたものだそうです。
兄は私より5歳年上ですから、私の中に子どもの頃の兄の思い出とか記憶というものがあまり残っておりません。
 ただ6月になると、庭の隅の小さな畑に立てられた太くて長い竿の先で泳ぐ鯉幟のことが、鮮やかによみがえってまいります。
人形も飾りましたが、兄のお友達が遊びに来たかどうかまでは覚えておりません。
 兄の若大将人形といえば、母の悲しみに思いがいきます。
 1944年8月31日に兄が中国で戦死したという知らせが、終戦の少し前に届き、それ以来、母は、兄が名誉の戦死を遂げたことを和歌に詠むことで、その悲しみ耐えておりました。
若大将人形をしまってあった蔵も、戦争が激しくなった1942(昭和17)年頃、戦火から中のものを守るために、扉と窓を土で塗り込め、十数年間は開けることはありませんでした。
 戦後も〝相変わりもせず〟と年中行事を毎年滞りなく続けることを務めとしていた母は、「お雛さんしよう」と申しましても「大将人形しよう」とはよう言いませんでした。
 そんな中で、私が女の子ばかり生み、男の子が生まれないのを母は残念がり、大将人形を出さないから男の子が生まれないと思ったらしく、昭和30年代に入ってすぐに、「大将人形をいっぺん出してみようやないの」と申しました。
十数年も蔵の中にいた若大将は、湿気で顔に筋が入っていました。
それを見て母は、〝相変わりませず〟と、行事をしなかったからこうなるんや、と苦笑していましたが、大将人形、若大将人形を飾っても、ついに男の子は生まれませんでした。
 大将と若大将人形は、上の間(かみのま)の床の間に正面に飾ります。
その周囲には、旗持ち、侍従、大将には欠かせない馬などを配し、また縁起物とされている虎も飾ります。
これらの前に、〝ハ〟の字形に〝我が陣営〟を示す戦陣の幟を立てます。
代々男の子が生まれるたびに、遠祖・御子左(みこひだり)家の定紋「かたばみ」を染めぬいた一対の幟が贈られたそうです。
 兄のは、この幟ではなく、馬上の武者の絵のついた幟と毛槍や槍が一連につながったものです。
 幟の上には紙で作られた菖蒲や蓬(よもぎ)を白い半紙で包んで飾ります。
これは姫路の方に伺ったことですが、菖蒲と蓬の他に樗(おうち)―和歌では〝あふち〟と詠みます―も入れて、これを束にしてお風呂に入れたり、屋根の上にのせたりすると魔除けになるのだそうです。
その魔除けを幟の一本一本に付けているの武運長久を祈ってでしょうか。
(『冷泉布美子が語る京の雅―冷泉家の年中行事』聞き手南里空海 集英社 1999年)
今朝の父の一枚です(^^)/
ジャカランダを写していました。
初めて見た時はキリの花に似ているなあと思いました(ノウゼンカズラ科)。

まどさんの日記
 きょうはこのように生きました

詩は、「きょうはこのように
生きましたっちゅう報告」と語るまどさん。
長く書き続けている日記もまた、
日々の報告書だ。
なんにでも不思議を感じ、
感動してしまうまどさんは、
毎日「?」と「!」のあいだを行ったり来たり。
感動しないときにも、
自分が無感動であることに感動して
ついつい「!」をつけてしまうとか。
(『まど・みちお 人生処方詩集』詩と絵:まど・みちお 選詩:市河紀子 平凡社 2012年)