京都国立博物館にやって来ました.
案内を見ると,「待ち時間20分」
後ろ姿もチャーミング?ですね(*^_^*)
展覧会場はいっぱいみたいなので先に昼食をいただくことに
レストラン The Muses (ザ・ミューゼス)
パスタをいただきました(*^_^*)
馬町十三重石塔
北塔:無銘
南塔:永仁三年(1295)銘
鎌倉時代 十三世紀
この石塔二基は,現在地から北東500メートルほどに位置する馬町(うままち)(東山区渋谷通東大路東入ル)の路地裏にあった.
塚の上に並んで立ち,源義経の家人,佐藤継信(つぐのぶ)・忠信(ただのぶ)兄弟の墓と伝えられていた.
江戸時代の『都名所図会(みやこめいしょずえ)』に見るように,北塔は五層,南塔は三層となり,地震で落ちたと思われる上層の石は,塚の土留めとして残されていたという.
昭和15年(1940)に解体修理が行なわれ,現在の十三重塔の姿に復元された.
その際,小さな仏像や塔などの納入品が,両塔の初重塔身の石に設けられた孔の中から発見されている.
両塔は,ともに花崗岩製,南塔の基礎正面に,「永仁三年(1295)二月,願主法西」の刻銘があるが,北塔に銘文はなく,二基の十三重石塔が造られた経緯は明らかにされていない.
なお,以前あった相輪部は後補であったため,移設にあたり取り外している.
近年の調査で,鳥辺野墓地の供養塔と判明したそうです.
今日見に来たのは「国宝鳥獣戯画と高山寺」
素晴らしかったのですが,入館してから鳥獣戯画を見るのに1時間もの待ち時間(@@;)
館内撮影禁止だったので絵はがきを(*^-^*)
購入した公式ブックより
子犬
明恵の墓の傍らに造営された禅堂の中,明恵の坐像を安置する厨子の脇に遺愛の茶釜とともに置かれた子犬の木彫像.
明恵は動物を愛したと伝え,元久元年(1204)六月と元久三年(1206)正月に子犬の夢を見たと「夢記」に記されている.
この像は寺伝では快慶作と言う.
貞応二年(1223)に高山寺から善妙寺(廃絶)に移された半丈六の釈迦如来像は快慶作とされるので,夢を見たころに注文したすれば,快慶の作である可能性もある.
しかし,この子犬の可憐さは湛慶作の高知・雪蹊寺善膩師(ぜんにし)童子立像に近く,快慶作安倍文殊院の善財童子像にはないものである.
首回りと体部中央に補修の痕があり,恐らく狛犬と同じく天保年間に矧(は)ぎ目を修理したのだろう.
玉眼も手を加えられた可能性がある.
また,ひげを植えていた痕跡と足裏には台座に固定した釘の孔がある. (浅見)
京都国立博物館
宮内省(現,宮内庁)専属の建築技師片山東熊(とうくま)の設計になる旧館(旧帝国京都博物館,国重文)は,1895(明治28)年に竣工.
新館とともに多くの日本の古美術品を館蔵し,あわせて畿内周辺の社寺や旧家からの寄託品も膨大な点数にのぼり,いずれも適時陳列されている.
旧館はフレンチ・ルネサンス様式の,明治期洋風建築を代表する名建築.
(『京都洛東・洛南散歩24コース』京都史跡見学会編 山川出版社 2004年)
大和大路通の東側に沿っておよそ300mの距離で,高さ2mをこえるいくつもの巨石による石垣(石塁,国史跡)が築かれています.
これは方広寺大仏殿の遺構で,秀吉が構想した方広寺の規模がいかに壮大なものであったかがよくわかります.
(『京都洛東・洛南散歩24コース』)
豊国(とよくに)神社
豊臣秀吉を祀る神社で,一般に「ホウコクさん」の名で人々に親しまれている.
慶長三年(1598)に63歳で亡くなった秀吉の遺体は,遺命により東山の阿弥陀ヶ峯(あみだがみね)の中腹の葬られ,その麓(ふもと)(現在の豊国廟太閤坦<たいこうだいら>)には,広壮豪華な廟社が造営された.
後陽成(ごようぜい)天皇より正一位の神階と豊国大明神(とよくにだいみょうじん)の神号を賜り,慶長九年(1604)八月の秀吉の七回忌には特に盛大な臨時祭礼が行われた.
そのときの様子は豊国臨時祭礼図屏風(重要文化財)に詳しく描かれている.
豊臣氏の滅亡後,その廟社は徳川幕府により廃祀されたが,明治十三年(1880),旧方広寺大仏殿跡にあたる当地に社殿が再建され,別格官幣社として復興された.
また,明治三十一年(1898)には,荒廃していた廟墓も阿弥陀ヶ峯の頂上に再建された.
正面の唐門(からもん)(国宝)は伏見城の遺構と伝え,二条城から南禅寺の金地院を経て,ここに移築されたもので,西本願寺,大徳寺の唐門とともに国宝三唐門の一つとされている.
また,その両脇の石灯籠は,秀吉恩顧(おんこ)の大名が寄進したものである.
京都市
大阪城の「豊国(ほうこく)神社」は,8月11日に訪ねています.
方広寺(ほうこうじ)
「国家安康」「君臣豊楽」の銘文
森浩一さんが書かれているのには,
方広寺鐘銘問題と東福寺
秀頼は方広寺に用いる銅鐘銘文の作成を東福寺の文英清韓に依頼した.
清韓は東福寺の二二七代の住持であり,韓長老といって親しまれていた.
文禄の役には渡韓した経歴がある.
清韓の作った銘文には「国家安康」と「君臣豊楽」の二句があって,徳川方からクレームがついた.
「国家安康」は家康の名をわざと分けてしまったということだし,「君臣豊楽」は豊臣家の子孫殷昌の願をこめた文言だということであった.
草案の段階から秘かに家康側に情報を伝えた者がいたようにぼくには思える.
徳川方の東福寺への報復ははげしかった.
慶長十九年八月十五日は「東福寺文英清韓の住庵を毀つ」と『東福寺誌』は記録している.
塔頭の天得院である.
清韓は住居をこわされただけでなく,大坂方の片桐且元とともに駿府へ行って鐘銘について陳謝している.
元和元年に大坂夏の陣で豊臣家が滅亡したあとになっても,清韓は鐘銘問題で捕縛された.
清韓がきびしく扱われた背景には,家康が秀吉の遺児の代に早くも豊臣家を断絶に追いやったことへの世間の目をそらすことがあったのであろう.
清韓はとんだ災難にあった.
その清韓は元和七年にこの世を去っている.
このように豊臣家を断絶させるために東福寺はうまく利用されたきらいがある.
ぼくが不思議におもうのは,あれだけ鐘銘が騒がれたにもかかわらず,釣鐘そのものは破棄されることもなく,今日ももとの寺域の一かくにある方広寺の鐘楼に下がっていて,いつでも見ることができる.
このことも鐘銘事件の目的がよく示されている.
なおこの鐘楼は明治時代に再建されたもので,鐘はしばらく野ざらしになっていたという. (P98~99)
(『京都の歴史を足元からさぐる[洛東の巻]』森浩一 学生社 2007年7月)
京都市指定有形文化財
方広寺大仏殿遺物 九点
本遺物は,豊臣秀吉よって造立され,慶長年間末期に豊臣秀頼により再興された方広寺大仏殿および大仏の一部であると考えられるものである.
大仏殿関連が銅製風鐸,銅製舌各一点,鉄製金輪四点,大仏関連が銅製蓮肉片,銅製蓮弁,鉄製光背金具各一点の計九点からなる.
このうち,風鐸と舌には銘文が刻まれており,「国家安康・君臣豊楽」の文字のある著名な同寺「梵鐘」(昭和43年重要文化財指定)を制作した三条釜座の鋳物師名越(名護屋)三昌らによって慶長十七年(1612)に制作されたことが判明する.
他の七点についても,風鐸や舌と前後する時期の制作と考えられる.
大仏殿及び大仏は,寛政十年(1798)の落雷により大仏,大仏殿ともに焼失している.
従って,本遺物は豊臣家建立の寺院として東山に偉容を誇った方広寺大仏殿のありし日の姿を伝える資料として貴重なものである.
平成十二年四月一日指定
京都市
「甘春堂 東店」で博物館の疲れをとることに…
入ると中学生?が大勢…
お聞きすると「和菓子作り体験教室」があったそうです.
この公式ブックを購入したのは,鳥獣戯画の豆本がついていたからです(*^ー゜)
というのも今回は,前期(10月7日~11月3日)で,絵巻の半分しか見ることができません.
後半部分は,後期(11月5日~11月24日)に…
抹茶セットをいただきました(*^-^*)
「耳塚(鼻塚)」
この塚は,16世紀末,天下を統一した豊臣秀吉がさらに大陸にも支配の手をのばそうとして,朝鮮半島に侵攻したいわゆる文禄・慶長の役(朝鮮史では,壬辰・丁酉の倭乱,1592~1598年)にかかわる遺跡である.
秀吉輩下の武将は,古来一般の戦功のしるしである首級のかわりに,朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ,塩漬にして日本へ持ち帰った.
それらは秀吉の命によりこの地に埋められ,供養の儀がもたれたという.
これが伝えられる「耳塚(鼻塚)」のはじまりである.
「耳塚(鼻塚)」は,史跡「御土居」などとともに京都に現存する豊臣秀吉の遺構の一つであり,塚の上に建つ五輪の石塔は,その形状がすでに寛永2年(1643)の古絵図にみとめられ,塚の築成から程ないころの創建と想われる.
秀吉が巻き起こしたこの戦争は,朝鮮半島における人々の根強い抵抗によって敗退に終わったが,戦役が遺したこの「耳塚(鼻塚)」は,戦乱下に被った朝鮮民衆の受難を,歴史の遺訓として,いまに伝えている.
京都市 平成15年(2003)3月
豊臣秀吉晩年の最大の愚行といわれる名分のない出兵は,日朝両人民の怨嗟(えんさ)を招き,さらに侵略戦争の処置を巡って,秀吉股肱(ここう)の家臣団も加藤清正ら主戦派と石田三成ら講和派に分裂し,禍根を残した.
(『京都洛東・洛南散歩24コース』京都史跡見学会編 山川出版社 2004年)
このような不幸な歴史がありながら徳川家康は,朝鮮との国交(朝鮮通信使)を回復,復活させました.
現在の日韓の政治指導者には,徳川家康や朝鮮の当時の指導者のような人物はいないということではないでしょうか?
専定寺(せんじょうじ)(烏寺<からすでら>)
熊谷山(くまがいざん)と号する浄土宗西山禅林寺派の寺である.
寺伝によれば,昔,専定法師という旅僧がこの辺りの松の木陰で休んでいると,二羽の烏が梢に止まり,「今日は,蓮生(れんしょう)坊(熊谷直実<なおざね>)の極楽往生の日である.我々もお見送りしようではないか.」と語り合い,南の空へ飛び立った.
法師が不思議に思って蓮生坊の庵(いおり)を訪ねたところ,烏が話していた同日(承元二年(1208)九月十四日)同刻に亡くなっていた.
このことから,ここを有縁の霊域と感じた法師が草庵を結んだのが当寺の起こりといわれている.
かっては,この故事を伝えるため,境内の松の梢に土焼の烏が置かれており,大仏七不思議(方広寺周辺に伝わる七不思議)の一つに数えられていた.
本堂に安置されている本尊・阿弥陀如来坐像は,後白河法皇の稔侍仏と伝えられ,金箔による像内化粧が施されているなど貴重なもので,京都市の有形文化財に指定されている.
京都市
正面橋
橋の名は,豊臣秀吉が建立した方広寺の正面から,西へまっすぐにつくられていることからつけられたそうです.
五条大橋
松原橋
牛若丸と弁慶の物語で有名な五条大橋は,この松原橋のことなのです.
豊臣秀吉の時代に変わったのです.
松原通
中世はこの松原通が五条通でした.
観光客で舞妓さんになる方もいるのですが
本物の舞妓さん.というのは…
宮川町歌舞練場に入っていきました.
宮川町の歌舞練場(かぶれんじょう)は中世の物吉(ものよし)村跡である.
物吉とはハンセン病患者のことをさし,「物吉(縁起がいい),物吉……」といいながら正月の門付(かどづ)けを行なったので,彼らを「物吉」とよぶようになった.
彼らは,京域に住むことを許されず,六道(ろくどう)の辻に住み「坂者(さかもの)」(葬送にかかわった人たちが清水坂に住んだ)の長吏(ちょうり)の支配をうけた.
(『京都洛東・洛南散歩24コース』)
豊国(とよくに)神社
豊臣秀吉を祀る神社で,一般に「ホウコクさん」の名で人々に親しまれている.
慶長三年(1598)に63歳で亡くなった秀吉の遺体は,遺命により東山の阿弥陀ヶ峯(あみだがみね)の中腹の葬られ,その麓(ふもと)(現在の豊国廟太閤坦<たいこうだいら>)には,広壮豪華な廟社が造営された.
後陽成(ごようぜい)天皇より正一位の神階と豊国大明神(とよくにだいみょうじん)の神号を賜り,慶長九年(1604)八月の秀吉の七回忌には特に盛大な臨時祭礼が行われた.
そのときの様子は豊国臨時祭礼図屏風(重要文化財)に詳しく描かれている.
豊臣氏の滅亡後,その廟社は徳川幕府により廃祀されたが,明治十三年(1880),旧方広寺大仏殿跡にあたる当地に社殿が再建され,別格官幣社として復興された.
また,明治三十一年(1898)には,荒廃していた廟墓も阿弥陀ヶ峯の頂上に再建された.
正面の唐門(からもん)(国宝)は伏見城の遺構と伝え,二条城から南禅寺の金地院を経て,ここに移築されたもので,西本願寺,大徳寺の唐門とともに国宝三唐門の一つとされている.
また,その両脇の石灯籠は,秀吉恩顧(おんこ)の大名が寄進したものである.
京都市
大阪城の「豊国(ほうこく)神社」は,8月11日に訪ねています.
方広寺(ほうこうじ)
「国家安康」「君臣豊楽」の銘文
森浩一さんが書かれているのには,
方広寺鐘銘問題と東福寺
秀頼は方広寺に用いる銅鐘銘文の作成を東福寺の文英清韓に依頼した.
清韓は東福寺の二二七代の住持であり,韓長老といって親しまれていた.
文禄の役には渡韓した経歴がある.
清韓の作った銘文には「国家安康」と「君臣豊楽」の二句があって,徳川方からクレームがついた.
「国家安康」は家康の名をわざと分けてしまったということだし,「君臣豊楽」は豊臣家の子孫殷昌の願をこめた文言だということであった.
草案の段階から秘かに家康側に情報を伝えた者がいたようにぼくには思える.
徳川方の東福寺への報復ははげしかった.
慶長十九年八月十五日は「東福寺文英清韓の住庵を毀つ」と『東福寺誌』は記録している.
塔頭の天得院である.
清韓は住居をこわされただけでなく,大坂方の片桐且元とともに駿府へ行って鐘銘について陳謝している.
元和元年に大坂夏の陣で豊臣家が滅亡したあとになっても,清韓は鐘銘問題で捕縛された.
清韓がきびしく扱われた背景には,家康が秀吉の遺児の代に早くも豊臣家を断絶に追いやったことへの世間の目をそらすことがあったのであろう.
清韓はとんだ災難にあった.
その清韓は元和七年にこの世を去っている.
このように豊臣家を断絶させるために東福寺はうまく利用されたきらいがある.
ぼくが不思議におもうのは,あれだけ鐘銘が騒がれたにもかかわらず,釣鐘そのものは破棄されることもなく,今日ももとの寺域の一かくにある方広寺の鐘楼に下がっていて,いつでも見ることができる.
このことも鐘銘事件の目的がよく示されている.
なおこの鐘楼は明治時代に再建されたもので,鐘はしばらく野ざらしになっていたという. (P98~99)
(『京都の歴史を足元からさぐる[洛東の巻]』森浩一 学生社 2007年7月)
京都市指定有形文化財
方広寺大仏殿遺物 九点
本遺物は,豊臣秀吉よって造立され,慶長年間末期に豊臣秀頼により再興された方広寺大仏殿および大仏の一部であると考えられるものである.
大仏殿関連が銅製風鐸,銅製舌各一点,鉄製金輪四点,大仏関連が銅製蓮肉片,銅製蓮弁,鉄製光背金具各一点の計九点からなる.
このうち,風鐸と舌には銘文が刻まれており,「国家安康・君臣豊楽」の文字のある著名な同寺「梵鐘」(昭和43年重要文化財指定)を制作した三条釜座の鋳物師名越(名護屋)三昌らによって慶長十七年(1612)に制作されたことが判明する.
他の七点についても,風鐸や舌と前後する時期の制作と考えられる.
大仏殿及び大仏は,寛政十年(1798)の落雷により大仏,大仏殿ともに焼失している.
従って,本遺物は豊臣家建立の寺院として東山に偉容を誇った方広寺大仏殿のありし日の姿を伝える資料として貴重なものである.
平成十二年四月一日指定
京都市
「甘春堂 東店」で博物館の疲れをとることに…
入ると中学生?が大勢…
お聞きすると「和菓子作り体験教室」があったそうです.
この公式ブックを購入したのは,鳥獣戯画の豆本がついていたからです(*^ー゜)
というのも今回は,前期(10月7日~11月3日)で,絵巻の半分しか見ることができません.
後半部分は,後期(11月5日~11月24日)に…
抹茶セットをいただきました(*^-^*)
「耳塚(鼻塚)」
この塚は,16世紀末,天下を統一した豊臣秀吉がさらに大陸にも支配の手をのばそうとして,朝鮮半島に侵攻したいわゆる文禄・慶長の役(朝鮮史では,壬辰・丁酉の倭乱,1592~1598年)にかかわる遺跡である.
秀吉輩下の武将は,古来一般の戦功のしるしである首級のかわりに,朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ,塩漬にして日本へ持ち帰った.
それらは秀吉の命によりこの地に埋められ,供養の儀がもたれたという.
これが伝えられる「耳塚(鼻塚)」のはじまりである.
「耳塚(鼻塚)」は,史跡「御土居」などとともに京都に現存する豊臣秀吉の遺構の一つであり,塚の上に建つ五輪の石塔は,その形状がすでに寛永2年(1643)の古絵図にみとめられ,塚の築成から程ないころの創建と想われる.
秀吉が巻き起こしたこの戦争は,朝鮮半島における人々の根強い抵抗によって敗退に終わったが,戦役が遺したこの「耳塚(鼻塚)」は,戦乱下に被った朝鮮民衆の受難を,歴史の遺訓として,いまに伝えている.
京都市 平成15年(2003)3月
豊臣秀吉晩年の最大の愚行といわれる名分のない出兵は,日朝両人民の怨嗟(えんさ)を招き,さらに侵略戦争の処置を巡って,秀吉股肱(ここう)の家臣団も加藤清正ら主戦派と石田三成ら講和派に分裂し,禍根を残した.
(『京都洛東・洛南散歩24コース』京都史跡見学会編 山川出版社 2004年)
このような不幸な歴史がありながら徳川家康は,朝鮮との国交(朝鮮通信使)を回復,復活させました.
現在の日韓の政治指導者には,徳川家康や朝鮮の当時の指導者のような人物はいないということではないでしょうか?
専定寺(せんじょうじ)(烏寺<からすでら>)
熊谷山(くまがいざん)と号する浄土宗西山禅林寺派の寺である.
寺伝によれば,昔,専定法師という旅僧がこの辺りの松の木陰で休んでいると,二羽の烏が梢に止まり,「今日は,蓮生(れんしょう)坊(熊谷直実<なおざね>)の極楽往生の日である.我々もお見送りしようではないか.」と語り合い,南の空へ飛び立った.
法師が不思議に思って蓮生坊の庵(いおり)を訪ねたところ,烏が話していた同日(承元二年(1208)九月十四日)同刻に亡くなっていた.
このことから,ここを有縁の霊域と感じた法師が草庵を結んだのが当寺の起こりといわれている.
かっては,この故事を伝えるため,境内の松の梢に土焼の烏が置かれており,大仏七不思議(方広寺周辺に伝わる七不思議)の一つに数えられていた.
本堂に安置されている本尊・阿弥陀如来坐像は,後白河法皇の稔侍仏と伝えられ,金箔による像内化粧が施されているなど貴重なもので,京都市の有形文化財に指定されている.
京都市
正面橋
橋の名は,豊臣秀吉が建立した方広寺の正面から,西へまっすぐにつくられていることからつけられたそうです.
五条大橋
松原橋
牛若丸と弁慶の物語で有名な五条大橋は,この松原橋のことなのです.
豊臣秀吉の時代に変わったのです.
松原通
中世はこの松原通が五条通でした.
観光客で舞妓さんになる方もいるのですが
本物の舞妓さん.というのは…
宮川町歌舞練場に入っていきました.
宮川町の歌舞練場(かぶれんじょう)は中世の物吉(ものよし)村跡である.
物吉とはハンセン病患者のことをさし,「物吉(縁起がいい),物吉……」といいながら正月の門付(かどづ)けを行なったので,彼らを「物吉」とよぶようになった.
彼らは,京域に住むことを許されず,六道(ろくどう)の辻に住み「坂者(さかもの)」(葬送にかかわった人たちが清水坂に住んだ)の長吏(ちょうり)の支配をうけた.
(『京都洛東・洛南散歩24コース』)
実は,奈良にもこのような場所があります.
北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんと)です.
南座にあるのが
阿国(おくに)歌舞伎発祥地の碑
慶長八年(1603)この辺り鴨河原において歌舞伎の始祖出雲の阿国が初めてかぶきをどり披露しました.
この碑は昭和二十八年十一月吉例顔見世興行を前に歌舞伎発祥三百五十年を記念して松竹株式会社により建設されたものです.
我が国が世界に誇る文化財歌舞伎を日本の至宝として末永く後世に伝えたいという願いが込められております.
碑の文字は元日本芸術院長高橋誠一郎氏の筆によります.
平成十四年十一月吉日
南座敬白
近年は北野天満宮発祥説が強いそうです.