2022年3月17日木曜日

いつまで続くのかな?

ヒンヤリした朝。
桜を見ると今にも咲きだしそうでした。
歩いていると枝垂れ桜が咲きだしていました♪

帰り道、中学生と親の二人連れによく出会いました。
卒業式と違って親は普段着だったので???だったけど、お昼のニュースで

大阪 公立高校で合格発表 感染防止 密回避で複数の掲示板に」(関西NHK)
みんなサクラガサイタかな?
というσ(^^;)は、高校入試も大学入試も第一志望校は不合格でしたし
採用試験も一年目は不合格で就職浪人をしていました…
昨夜の地震のニュース。

荒木健太郎さんのTwitterに

「人工地震」がトレンドに入っています。
これは「地震が人為的に引き起こされた」などと主張するもので、不安や対立を煽るだけの陰謀論です。
SNS上でそういった主張をする方を見かけても相手にせず、デマを拡散しないようにお気をつけください。
災害時のSNSの情報を上手く見極めましょう。


疑似科学・陰謀論に注意

SNSの情報を上手く見きわめよう
NHK NEWS おはよう日本で最近、宮城・福島沖で起きた地震には

2014年7月12日 M7.0
2016年11月22日 M7.4
2021年2月13日 M7.3

今回も余震になるのかもしれませんね。
第一章 地震のメカニズム
†東日本大震災を起こした海の地震

 東日本大震災は2011年3月11日に、東北地方の太平洋側の海底で起きた地震によって発生しました。
M9.0という巨大地震を起こした震源域は、長さ500キロメートル、幅200キロメートルという広大なものでした。
その震源域は宮城県沖、福島県沖、茨城県沖の三つの領域にまたがっています(図1-3 省略、以下同じ)。
(『京大人気講義 生き抜くための地震学』鎌田浩毅 ちくま新書 2013年)
 M9.0の巨大地震の直後から夥(おびただ)しい数の地震が発生したのですが、これらは「余震(よしん)」と呼ばれています。
余震ではM7.7、M7.5、M7.4という大きな地震が立て続けに起きました(図1-3)。
 ちなみに、M9.0の地震は「本震」と呼ばれますが、余震よりも何百倍も大きなものです。
東日本大震災のもう一つの特徴は、最初の一撃(本震)がきわめて大きかったことに加えて、余震の活動が異常とも見えるほど激しく、かつ長期間にわたって続いていることです。
 一般に余震は、最初に起きる大地震のあとに、規模の小さな地震がたくさん起きるものと定義されます。
世界中で起きた地震を研究した結果、余震は初めの一撃である本震よりも10倍以下と小さく、かつ時間とともに数が次第に減ってゆくことがわかってきました(図1-9)。
すなわち、大地震の発生には、こうした本震と余震が繰り返す「サイクル」があると考えられているのです。
 まず、本震の前には規模の小さな「前震」が発生し、その直後に最大規模の本震が突然発生します。
その後、本震よりも小さな余震がだらだらと長く続いて、いずれ消滅します。
それから長い静穏期を経て、次の地震のサイクルが始まり、再び前震が発生します。
この静穏期は数十年から数千年と、地震によって幅があります。
 通例、余震はだいたい1週間ぐらいで次第に数が少なくなるのですが、今回の余震はもっと長引き、静穏期になるまで数年以上かかるのではないかと専門家は予測しています。
余震の継続する期間から見ても、東日本大震災は特別な巨大災害なのです。
(『京大人気講義 生き抜くための地震学』鎌田浩毅 ちくま新書 2013年)
ロイターのTwitterに

米国のサキ報道官、ロシアによる制裁に対してウィットに富んだ回答。

Twitterにアクセスできない方は

ロシアがバイデン氏の亡父に制裁?サキ報道官がジョーク(字幕・16日)」(ロイター ビデオ)

ワイドショーでウクライナの歴史について無理解なコメンテーターが、勝手な自論を展開しているように思います。
番組やそのコメンテーターの話を視聴する気がないので偉そうなことは言えませんが…

という私も以前は、京都のレストラン キエフを何度か利用しながら歴史を知らない。
で、しばらく品切れになっていた本が重版されたのでさっそく購入しました。
なお本が出版されたのは2002年です。
20年も経っているので世界の動きは大きく変わっていると思いますが
ウクライナの人びとがロシアとあれほど果敢に闘っているのかがわかると思います。
  まえがき

 私の学生時代であるから1960年代であるが、東京で開かれたソ連の絵画の展覧会で、アルヒープ・クインジ作の『ウクライナの夕べ』という19世紀末の作品に強く惹かれた。
丘の斜面に白い漆喰(しっくい)の壁と藁葺(わらぶ)き屋根の素朴な農家が二、三軒、夕日を受けてあかく輝き、ひと目で懐かしいという感情が湧きあがってくるような絵であった。
それ以来、まれにウクライナという名前を聞くと、必ず脳裏にその絵がよみがえってくるようになった。
ただその後とりわけウクライナについて知識を深めたということもなく、私が外務省に入って30年経ってもその状況はほとんどそのままであった。
(『物語 ウクライナの歴史』黒川祐次 中公新書 2002年)
 1996年の秋、私は駐ウクライナ大使に任命された。
そこで私は新任地に出発する前に、関係者や知人に挨拶回りをしたり、話を聞きに歩いた。
ほとんどの人がウクライナと聞いて、思い浮かべるのは、学校で習った「穀倉地帯」という言葉であった。
なかにはフレデリック・フォーサイスのベストセラー『悪魔の選択』を思い出すという人も何人かいた。
この小説は、一方でイタリアの商船が黒海で漂流者を救ったところ、それがウクライナ民族主義者パルチザンのリーダーであり、他方でアメリカの偵察衛星がソ連の穀倉地帯で小麦の作柄の異変を探知し、大統領がその調査を命ずるという書き出しで始まる壮大なスパイ・サスペンスである。
しかし、『ウクライナの夕べ』にせよ、「穀倉地帯」にせよ、いずれにしても農業国のイメージである。
私は農業国に赴任するつもりでウクライナに向かった。
 実際にウクライナで暮らしてみると、確かに穀倉地帯であることに間違いはないが、ウクライナは、それだけでは片づけられない複雑で非常に懐(ふところ)の深い大国であると感ずるようになった。
一体このギャップはどこから来るのだろうか。
 私は、それは、ウクライナが1991年の独立まで自分の国をもたず、それまで何世紀もロシアやソ連の陰に隠れてしまっていたことによるのではないかと考えるようになった。
ロシアに歴史がないと思う人はいない。
キエフ・ルーシ公国以来の浩瀚(こうかん)な歴史の本が多数出版されている。
ドストエフスキー、ゴーゴリやチャイコフスキーのロシアに文化がないという人はいないだろう。
スプートニクを打ち上げた国を科学や技術がない国という人もいない。
 しかしキエフ・ルーシ公国の首都は、現在のウクライナの首都キエフにあった。
ゴーゴリはコサックの末裔(まつえい)で生粋(きっすい)のウクライナ人であった。
チャイコフスキーも、その祖父はウクライナのコサックの出であり、チャイコフスキー自身も毎年ウクライナのカーミアンカにある妹の別荘に滞在し、その地の民謡をもとに『アンダンテ・カンタービレ』その他の名曲を作曲した。
ドストエフスキーさえもその先祖はウクライナに出ているといわれている。
人工衛星スプートニク打ち上げに中心的役割を果たしたコロリョフはウクライナ人であった。
これだけでもわかるように、ウクライナには歴史も文化も科学技術もあるが、それはすべてロシア・ソ連の歴史、文化、科学技術として括(くく)られてしまい、その名誉はすべてロシア・ソ連に帰属してしまったいたのである。
そして、ウクライナはロシア・ソ連の中での穀倉地帯としてしか世界に紹介されてこなかったのである。
 ウクライナ史の権威オレスト・スブテルニーは、ウクライナ史の最大のテーマは、「国がなかったこと」だとしている。
すなわち、多くの国において歴史の最大のテーマがネーション・ステート(民族国家)の獲得とその発展であるのに比し、ウクライナでは国家の枠組なしで民族がいかに生き残ったかが歴史のメーン・テーマであったというのである。
 とはいえ、そのウクライナにも国家がなかったわけではない。
それどころか、前述のキエフ・ルーシ公国は、10~12世紀には当時のヨーロッパの大国として君臨し、その後のロシア、ウクライナ、ベラルーシの基礎を形作った。
その点からすれば、ウクライナは東スラヴの本家筋ともいえる。
ところが、その後モンゴルの侵攻などでキエフが衰退したのに対し、いわば分家筋のモスクワが台頭し、スラヴの中心はモスクワに移ってしまった。
ルーシ(ロシア)という名前さえモスクワに取っていかれたのである。
したがって自分たちの土地を表わすのにウクライナという名前を新しく作らなければならなかったほどである。
歴史の上でもキエフ・ルーシ公国は、ウクライナ人の国というよりは、モスクワを中心とするロシア発祥の国として捉えられるようになった。
つまり、モスクワから勃興してきた国が後に大国となり、ロシアと名乗ってキエフ・ルーシを継ぐ正統の国家と称したため、ウクライナの歴史は、「国がない」民族の歴史となったのである。
 「国がない」という大きなハンディキャップをもちながらも、そしてロシアという言語、文化、習慣の近似した大国を隣りにもちながらも、ウクライナはそのアイデンティティーを失わなかった。
ロシアやその他の外国の支配下にありながらも、ウクライナは独自の言語、文化、習慣を育(はぐく)んでいった。
コサック時代のユニークな歴史があり、またロシアに併合された後も、ウクライナはロシア史の中で経済的、文化的に重要な役割を果たしてきた。
そしてその間にもウクライナのナショナリズムは高まっていった。
 そしてついに1991年ウクライナは独立を果たした。
ひとたび独立してみると、人々はヨーロッパにまだこんな大きな国が生まれる余地があったのかとあらためて驚いた。
面積は日本の約1.6倍で、ヨーロッパではロシアに次ぐ第二位である。
人口は5200万人(独立当時)で、ロシア、ドイツ、イギリス、イタリア、フランスに次ぎ、スペインやポーランドをはるかに凌駕している。
考えてみれば、ヨーロッパで5000万人規模の国家が成立するのは、19世紀後半のドイツ、イタリアの統一以来の出来事である。
 芸術・文化・スポーツの面でも水準は高い。
芸術・文化の分野では、ウラディミール・ホロヴィッツ、ダヴィッド・オイストラッフ、スヴャトスラフ・リヒテルなどの音楽家、バレーのヴァーツラフ・ニジンスキー、アヴァンギャルド絵画の創始者カジミール・マレーヴィッチなどを生んでいる。
スポーツでは、棒高跳びのセルゲイ・ブブカ、フィギュアスケートのオクサナ・バイユルらを生んでいる。
 このように、ウクライナは確かに存在していたが、これまでは地下水脈のように何世紀も表に現われないできた。
そしてソ連帝国が崩壊してようやく泉のように地表に現れてきた。
現在、世界各地で「ウクライナの発見」「ウクライナの復権」ともいうべき事態が起きている。
ヨーロッパやアメリカでは、ロシアとその他のヨーロッパとの間という地政学上枢要な位置にあるウクライナが独立を維持し続けることは、ヨーロッパ全体の平和と安定のためきわめて重要だと考えられている。
またアメリカ、カナダではウクライナ系の移民がそれぞれ百万の単位でいることからウクライナに対する関心も高い。
 ところが日本では、残念ながら独立したウクライナに対する関心はそれほど高くないように見受けられる。
これは、ウクライナが旧ソ連の西端にあって日本から距離が遠いことや、日本の旧ソ連への関心がロシアに集中してしまっていることによるのであろう。
加えて、これまで日本にウクライナの事情が十分紹介されてこなかったこともあるであろう。
私は私自身がウクライナを「発見」したように、日本においてもウクライナが「発見」されるべきだと考えるようになった。
こうして私はウクライナを紹介する本を書こうと思い立ったが、やはり、ある国なり民族に関する知見の基礎になるものは歴史であるので、ウクライナの歴史を通してこの国を紹介したいと思う。
 以上がこの本を書く動機であり、読者におかれてもウクライナを発見していただきたいと願うものである。
 お断りしておきたいことは、本書でウクライナ史という場合、ウクライナ民族の歴史というよりも、ウクライナの土地をめぐる歴史という観点から書いた。
したがって、ウクライナ民族に入らないスキタイ民族もロシア人も、ポーランド人もウクライナの土地にかかわってくれば当然触れることになる。
他方、その基本方針と外れてくるが、他国に移住したウクライナ系移民の事績についても可能な限り触れた。
つまりウクライナにかかわることは何でも知りたいとの精神で執筆した。
 固有名詞の表記については、原則としてウクライナ語の発音によった。
ただしロシア語や英語の発音による表記がすでに定着している場合には、それに従うこととした。
たとえばウクライナの首都の名はウクライナ語では「キイフ」であるが、ロシア語および英語の発音「キエフ」が慣用化しているので「キエフ」を使用した。
またウクライナの中心を流れる川の名は、ウクライナ語では「ドニプロ川」であるが、慣用に従いロシア語の「ドニエプル川」を使うこととした。
 本書では種々の文献を参照、引用したが、本書の性格上、長文の引用以外はいちいち出典を明示しないこととした。
利用ないし引用した文献は巻末に一括して掲載したのでお許し願いたい。
…後略…

  2001年9月 東京世田谷にて
                 黒川祐次
(『物語 ウクライナの歴史』黒川祐次 中公新書 2002年)
今朝の父の一枚です(^^)v
スズメが朝ごはんを食べていました。
朝ごはんは草の種かな?

スズメ〔雀〕
 スズメ目ハタオリドリ科。
全長14センチ、体重21グラム位。
ユーラシア大陸それにスマトラ、ジャワなどに広く分布しているほか、北アメリカ、オーストラリア、フィリッピンなどに人為移入が行われている。
日本では、小笠原諸島など離島を除いた、ほぼ全国に分布している。
農耕地、人里、都市など人の生活している地域に限ってすんでいるが、それは営巣場所が人家の屋根のすき間などに依存しているからであろう。
人工の巣箱(穴の大きさ3.5センチ位)にも入るが、人家のすぐ近くでなければ利用しない。
稲を食すとして日本では害鳥扱いされているが、稲の乳熟期以外は昆虫類、田畑に生える草の種子を主に食べて生活している。
おとぎ話の「舌切雀(したきりすずめ)」はこの問題をテーマにしたものである。
(『野鳥の歳時記1 春の鳥』日本鳥類保護連盟監修 小学館 昭和59年)