小雨が降っていたので少しだけ歩いてきました。
今日で3月も終わり。
明日から新年度ですね… 今朝のニュースに見入ってしまいました(38分頃)。
60歳を過ぎて、あの小さな文字を読むには大変だったと思う。
日常使う言葉とまったく違う言葉出てくるし…
「72歳で大学を卒業 亡き娘とともに歩んだ11年」(NHK 3月25日)
最短4年で卒業できるところ、10年以上かけてこつこつと必要な単位を取っていきました。
「『お母さんがんばって』と聞こえてくるようで、諦めようとは思いませんでした。
綾子ができなかったことをお母さんがやると約束しましたから」昭和20年(1945)3月31日
アメリカ軍、沖縄に上陸(4月1日、沖縄本島上陸、6月23日、日本軍守備隊全滅、日本側の死者、一般住民約10万を含め約20万人)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)
「2人の体を貫いた銃弾」(NHKアーカイブス)
犠牲者の中には、
「“朝鮮人軍夫”の沖縄戦」(NHKアーカイブス)
いまだ実態はつかめていません。「全国知事会 “国内の原発 攻撃への備え徹底を” 国に緊急要請」(NHK 3月30日)
前にも書きましたが、日本を攻撃するのに核兵器はいらない。
〝チェルノブイリ原発、ロシア兵が汚染地域通る「自殺行為」 事故知らない兵士も〟(ロイター 3月29日) 内田樹さんのTwitterに(3月30日)
松井府知事は6年前に
「はっきり言っときます。IR、カジノに税金は一切使いません。民間事業者が大阪に投資してくれるんです」と断言。
吉村知事も民間が全額負担と明言。
でも昨年12月にカジノ予定地夢洲の土壌汚染対策790億円全額を大阪市が負担すると発表。
「食言」という言葉をご存じですか?
「吉村知事と松井市長がドバイ万博視察強行で非難殺到!……」(LITERA 3月30日)
公明党が維新の附属政党になったのだけど
「大阪市議会 IR整備計画と土地改良費用など負担する議案可決」(関西NHK 3月29日)
自民党や共産党などは反対しました。
「大阪IR案、自民市議団が反対へ 29日に採決」(産経新聞 3月25日)
「IR案 大阪府議会で承認 自民賛成も一部造反」(産経新聞 3月24日) 平野高志さんのTwitterに
鈴木宗男議員に続き、橋下徹氏も、「ミンスク諸合意をウクライナが履行していなかった」というロシア発偽情報を用いて、
今次戦争で「ウクライナにも非がある」かのようなロシアを少し擁護する主張をしているんですね。
情報は、正確さが命なのだけど
真実を伝えることは、命がけだった時代が、日本でもありました。
先日、朝日新聞の天声人語で鶴彬(つるあきら)が紹介されていました。
鶴彬について田辺聖子さんが書かれていた。
田辺聖子さんの本を知ったのはつい最近のこと。
今は、絶版になっているので再刊されないかと願っています。
「試し読みをする」 手と足をもいだ丸太にしてかへし 鶴 彬(つる あきら)
プロレタリア川柳の代表句といわれている作品。
昭和12年の作である。そこが凄(すご)い。
戦後に復員兵や傷病兵をよんだのではない。
日中戦争のまっただなかで、川柳作家が堂々と発表している。
(『川柳でんでん太鼓』田辺聖子 講談社 昭和60年) 男たちは赤紙(召集令状)一枚で続々と狩りたてられ戦野に送られる。
歓呼の声で送られたのはいいが、戦争で手足をもがれて丸太のようになって送り返される。
いや、返される、という受け身ではない。
鶴彬は
「してかへし」
とかえした国家に対して、人民の怨嗟(えんさ)を匕首(あいくち)のようにつきつけている。
たった十七文字であるが、ここに非常な国家権力に対する民衆の腹の底からの怒り、弾劾(だんがい)がある。 川柳の皮肉なお笑いをうわべに湛(たた)えつつ、底には煮えくりかえるものがある。
あの思想弾圧のきびしい昭和初期、こういう句を発表するのは命がけである。
事実、鶴彬はこれにつづく一連の作品によって検挙され、十ヵ月後、獄死する。
彼はそれによって反戦川柳作家、プロレタリア川柳作家とよばれるが、小林多喜二らのように世間に知られること少なかったのは、川柳という分野だったせいだろうか。
もしかすると読者の中にも、はじめて知られて、
「へーえ、川柳にもプロレタリア川柳なんてあったのか。しかも命がけの川柳が」
とおどろかれる向きがあるかもしれない。 今まで何度か書いてきたが、世間の人の川柳観は、日常卑近の野鄙な題材を面白おかしくまとめるもの、あるいはポルノまがいの狂句をさすもの、また新聞の時事川柳によくある、ニュースを五七五にしただけの、「はあ、そうですか」というほかない作品、――そんなものが川柳で、下世話(げせわ)でくだけた、ひまつぶしのお遊び、と思っている人も多いようだ。
俳句を作っている人の中には、自分を謙遜して、
「いや、私のなんぞは、ほんの川柳で……」
といったりすることもあるらしい。
そうかと思うと、川柳を作っている人自身が、
「昔はこれでも俳句をやったことあるのですが、どうも才能がなくて、川柳に転向しました」
卑下していったりするそうな。
いろんな川柳誌にはそういう話が、よくにがにがしげに書かれていて、それも川柳的でおかしいのだが(俳句が上、川柳が下、とは誰<た>が言い初<そ>めけん。われら川柳ファンとしては、甚<はなは>だおだやかならぬ気持であるが、その議論はいずれまた、この欄でおいおいのべるとして)現代でもそうだから、昭和12年頃の特高もそういう気分でいたらしい。
川柳にはまさか、反戦、反政府、皇室を冒瀆(ぼうとく)・誹謗(ひぼう)するような作品はあらへんやろ、とタカをくくっていたふしがある。 鶴彬は、それまでに全国の柳誌にプロレタリア川柳論や作品を発表している。
坂本幸四郎氏の『雪と炎のうた 田中五呂八と鶴彬』(たいまつし社刊)によれば、鶴彬を
「見逃した特高のウカツさにおどろきます。それほど川柳はフザケもの、川柳誌はフザケ雑誌の評価しか得られないものでした」
とある。
ついでに鶴彬に関する資料としては、右の本のほかに、資料蒐集に懇篤(こんとく)な努力を払われた一叩人(いっこうじん)氏の『鶴彬全集』(たいまつ社刊)、『反戦川柳人・鶴彬』(同社刊)、それに『新興川柳選集』(渡辺尺蠖<しゃっかく>氏監修・一叩人氏編、同社刊)があり、いずれも近々五、六年の出版で、私自身も鶴彬のことは最近知って昂揚気分でいるところなのである。 なおまたついでにいうと、「特高」といったって現代の若い人にはぴんとこられぬだろうが、戦前の民衆は、その名を聞いただけで震え上がったものであった。
これは特別高等警察の略で、治安維持法が制定されたのは大正14年であったが、その後、年を逐(お)ってその悪法は強化され、それと共に特高も増強された。
双方とも社会主義運動やその思想を容赦(ようしゃ)なく弾圧するためのものである。
昭和はじめの、田中義一内閣のころから特高は恐怖のテロリズムに変貌したといわれる。
特高に検挙された共産党員や社会主義者、その周辺のシンパらは、血みどろの拷問に苦しめられた。
民衆をおとなしくさせるには、テロの恐怖が最も手早いと、当時のファシズム国家は考えていたのである。 小林多喜二が東京築地署で拷問で死んだのは昭和8年のことだが、その前年には共産党中央委員、岩田義道がやはり特高に虐殺されている。
委員長・野呂(のろ)栄太郎が殺されたのは昭和9年、しかしそういう大物ばかりでなく、ストライキした労働者のような庶民の小物にいたるまで拷問されることもあったらしい。
その酸鼻(さんび)な拷問の状景は、多喜二の小説にもうかがわれるが、それはほんの一端で、私が秋田実(みのる)氏にうかがったところによると、もっと物凄いのがあったそうだ。
(漫才作家の秋田氏は東大在学中に、思想関係で特高に「可愛いがられた」人である。秋田氏の笑いが底ふかく暖かいのも、そういう地獄の季節を経てこられたせいだったからかもしれない)女性容疑者には殆んど人倫にもとるような屈辱的な拷問も行われたようだ。
戦前の特高のテロリズムについてまとまった研究がもしなされたら我々は、「悪魔の飽食」が国内にもあったとおどろかされるに違いない。
ともかく、そういう鬼ような恐怖の特高が、あらゆる文芸作品・出版物を嗅(か)ぎまわって、社会主義思想の鼓吹宣伝、反戦、皇室冒瀆がちょっとでもぷんと臭うと、たちまち作者とその関係者を検束したものである。 昭和12年頃はというと、すでに左翼作家や評論家は執筆を禁止されている。
日中戦争は7月におこり、メーデーはその前年に禁止されている。
二・二六事件の起きたのも、その年である。
大内兵衛(ひょうえ)や美濃部亮吉(りょうきち)といった労農派の教授グループが検挙され、河合栄次郎教授の『ファシズム批判』などという著書も発禁になる。
東京帝大教授の矢内原忠雄(やないはらただお)も軍部にニラマれて自発的に辞職させられる。
山川均(ひとし)や荒畑寒村(あらはたかんそん)らの人民戦線グループも大量にひっぱられてしまう。
もうこうなると、共産党だけではない、労農派、自由主義者らに至るまで狩りつくされて言論を弾圧して投獄してしまうのである。
つづく…
(『川柳でんでん太鼓』田辺聖子 講談社 昭和60年)